【完結】あなた色に染まり……ません!~呉服屋若旦那は年下彼女に独占宣言される~

霧内杳

第2章 可愛い鹿乃子さん9

「じゃあ。
……また、来ます」

「はい」

けれど彼の手は離れない。
手を握ったまま、じっと私を見ている。

「……ダメだな。
五日後にまた会えるとわかっているのに、帰りたくない」

見上げた彼の顔、レンズの向こうの瞳は潤んでいた。

「……抱き締めてもいいですか」

「え……!?」

いいともなんと言っていないのに軽く手を引っ張られ、必然、彼の胸に飛び込む形になる。
背中に回った彼の手がぎゅっと、私を抱き締めた。
ふわりと香る、爽やかさを残しながらも甘く香る、官能的なラストノートの匂い。
それに彼の汗のにおいが混ざった香りに包まれて、くらっとした。

「……愛してる、鹿乃子」

甘い重低音が鼓膜を震わせる。
ゆっくりと顔を上げた視線の先、眼鏡の下で目尻を下げた彼が見えた。
その高い背を折って身を屈め、ちゅっと額に唇を触れさせて離れる。

「じゃあ、おやすみなさい」

ぼーっと、彼の背中を見送った。
改札を出て彼が見えなくなり、ようやく我に返る。

「えっ!? あっ!?」

突っ立っている私へ、ちらちらと視線が向かう。
あの人はこんな人の多いところで、いったい、なにを!? 人気のないところへ除け、携帯を出して超高速で文字を打ち込む。

【こんなところであんなことはしないでください!】

【次やったら、その時点で結婚の話はナシということで!】

メッセージを送ったが、既読にはならない。
まだホームを移動しているのかもしれない。

「……帰ろう」

駐車場へ戻り、車を出す。
運転中に何度か通知音が鳴った。

「ただい、……うわっ」

「おうっ、三橋のボンは帰ったのか」

玄関の戸を開けたら祖父が立っていた。
車の音を聞きつけて待っていたらしい。

「帰ったよー。
また来る、って」

「なんか変なことはされなかっただろうな」

「変なこと……」

別れ際のあれが思いだされて一瞬、止まる。

「ナイナイ。
カフェでお茶して、不動産屋行って、夕ごはん食べて帰っただけだから」

「ナイナイって、鹿乃子!
いまの一瞬の間はなんだ!
それに不動産屋、って!」

「あー、うん。
ほんと、なんでもないから。
お風呂入ってきていい?
まだ夜になっても暑いから、汗がベタベタするー」

「おい、鹿乃子!
鹿乃子!!」

祖父を軽く無視して自分の部屋へと退散する。
着替えを持ってお風呂へ向かう頃には祖父はいなくて、ほっとした。

「はーっ、疲れた……」

浴槽でゆっくり手足を伸ばす。
今日は冬向け半襟の新柄を考えるはずだったのだ。
けれどほぼ半日、三橋さんに振り回された。

「本気で家、借りるつもりなのかな……?」

三橋さんは柔和な見た目と違い、強引だ。
人に訊ねていてもその時点で決定事項になっている。
そもそも、諦めるという言葉はあの人の辞書にはないし。
これからも私は、こうやって振り回され、最後は結婚を押し切られるんだろうか。

「いやいや。
ちゃんとお断りするし」

ぶるぶるとあたまを振ったせいで、滴が飛んでいく。
今日、彼の境遇を聞いて同情もした。
力になれたら、とも思った。
けれど、それと結婚は別の話だ。

最後だったので掃除までしてあがる。

「……あつ」

冷蔵庫を開けたところでちょうど、母が通りかかった。

「母さんも飲む?」

取り出した麦茶のボトルを少し上げる。

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