【完結】あなた色に染まり……ません!~呉服屋若旦那は年下彼女に独占宣言される~

霧内杳

第1章 私の妻におなりなさい1

その日のことはいまでもはっきりと思いだせる。
蝉のうるさい、夏の暑い日だった。

「父さん、お茶淹れるけど……」

作業が一区切りし、顔を上げると父はそこにいない。
それほど、集中して作業をしていた。

「ま、いっか……」

一度、大きく伸びをして凝り固まった身体をほぐす。
肩を軽く押さえ、首を左右に倒しながら工房を出て母屋へ回った。

我が家は金沢で、加賀友禅の工房をやっている。
といっても職人は父と、去年、古希を迎えた祖父のふたりきりだが。
私はといえば、父の工房に間借りして細々と友禅の技法で染めた半襟などの小物を作りつつ、オリジナルの和装小物の販売をしていた。

「お客さん?」

玄関には珍しく、ビジネスシューズが二足、並んでいた。
取り引きのある問屋の担当さんが来ることもあるが、大抵ひとりだ。

「うん、そう。
東京から」

「ふーん」

台所でお茶を淹れていた母を尻目に棚を漁り、おやつになりそうなものを探す。

「『三橋みつはし呉服店』さんの若旦那だって」

「ふーん。
……って、三橋さん!?」

聞き流しかけたが、とんでもない名前が出てきて思わず聞き返していた。

「三橋って、あの三橋呉服店さん?」

「あの、三橋呉服店さん」

三橋呉服店、三橋呉服店と繰り返しているが、それほどまでに信じられないことなのだ、これは。
三橋呉服店といえば銀座の一等地に店をかまえ、政財界や芸能界に多数の顧客を抱えている。
絶賛、斜陽産業の呉服業界において、長者番付に載るなど異彩を放っていた。
この業界にいて知らない方が珍しい、呉服屋なのだ。

「ふーん。
……あ、私がお茶、持っていくよ」

母の手からお盆を奪う。
いつもはお茶出しなどめんどくさがるが、その若旦那がどんな人なのか俄然、興味が出てきた。

「じゃあ、お願い」

「はーい」

興味津々で応接室へと向かう。
まさか、これがあんな結果になるなんて知りもしないで。

「失礼します」

開けたドアの向こうには、父とふたりの男が向かいあっていた。

……おっ、イケメン。

なんて心の声は顔に出さず、お茶を置く。
奥側の若い……といっても一昨年まで勤めていた会社の、中堅課長くらいの年の方がきっと、件の若旦那なのだろう。
この暑いのにきっちり首元までネクタイを締め、さすがにジャケットは羽織っていないがベスト姿だ。
なのに汗ひとつ掻くことなく涼やかな顔で座っている。
その顔には銀縁スクエアの眼鏡が光っていた。
なんとなくそれと相まって、冷たい印象を与える。
あと、私と同じくらい長い髪をひとつ括りにして背中に垂らしているのが印象的。

「これはとても、名誉なことなんですよ。
わかりますよね、それくらい」

手前に座る、父と同じくらいの年の男が横柄な口をきく。
こちらは仕立てのよさそうなワイシャツを着ていたがノータイで、さらに外したボタンから下シャツが覗いていてだらしない印象を与えた。

……なに、こいつ。

上から目線の男にカチンときたが、相手は客だ。
努めて冷静にお茶を置いた。

「はぁ……。
わかるんですが、しかし……」

ほとほと困り果てている父を見て、だいたいの事情を察した。
きっと三橋へ商品を卸せと言っているのだろう。
しかしうちは職人ふたりの小さな工房なのだ。
できる量はたかがしれているし、それも昔から懇意にしている問屋に卸している。
新規取り引きなど、無理に等しい。

「なにがご不満なんですか。
この、三橋が取り扱って差し上げると言っているんですよ?
こんな、吹けば飛ぶような工房ごときの作品を」

はん、と男が小馬鹿にしたように笑った瞬間、私の忍耐が切れた。
気づいたときには私の手が、男のあたまの上で茶碗を逆さにしていた。

「すみませんね、うちの工房ごときの作品を、三橋ごときに卸すわけにはいきませんので」

はん、と男を真似て笑ってやり、腕組みをして思いっきり見下ろした。
父も祖父も名声というものに関心がなく、品評会へ出品したりしないので賞こそ獲ったことはないが、祖父はこの業界で師匠と慕われるほどの技術とセンスの持ち主なのだ。
なのに、ごときなどと軽く扱われ、黙っていられるわけがない。

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