ミステリー

桜綾つかさ

第一部 開幕


『真理』

 取調べ 一


「三時って正法しょうほう像法ぞうぼう末法まっぽうの時の三つをうらしいのですが、それぞれ字の如く、正法は正しい教えが有り、修行者が居て、悟りを開く者が在る時代。像法は正しい教えは有るが、正法時に似せた修行を行うだけで正しい修業が行われず、悟りを開く者が現れない時代。末法は正しい教えだけが有り、修行者は一人として無く、悟りの証を得られない時代を指すんだそうです。自分が思うに、今の時代って末法時なんじゃないかって気がしてならないんです」

 暖簾のれんのような前髪をした青年、なぎ尊人たけとはパイプ椅子にもたれ、講釈を垂れる。

「…容疑者の分際で俺に説法してる訳じゃねぇだろうな?」

 手の平の付け根辺りを額にあてがう中年男、にのまえ之太郎のたろうは凪を忌むようにして睨んだ。容疑者の分際、という言葉は少々荒い言い方に思われるかも知れないが、刑事歴二十七年の彼の刑事の勘が告げていたのだ。目の前のこの青年が犯人であると。

「そんな恐れ多い事、してや刑事さん相手に出来やしませんよ」

 暖簾髪の青年は飄然ひょうぜんとして答えた。
 か細い煙を上げる一刑事の武骨な指に挟まれた煙草は、線香の末端のように半寸程灰になっており、凪の話の長さを物語っていた。末端部の灰がほろりと崩れ落ちると、一刑事は怒気を込めた舌打ちをした。

「で、事件の真相を喋る気にはなったのか?人殺しさんよぉ」
「自分は殺してはいませんよ。ただ、見ていただけです」
「てめぇはまだそんな事云ってんのかッ?なら、なんで出頭してきたのか俺にも分かるように説明してみろやッ」

 一刑事は勢いのままに机の脚を蹴り、凪を牽制する。余りの強面に委縮したのか、弁解の余地も無い為か、長い前髪の奥にひっそりと隠れるように彼は黙り込んでいる。

「ほれ見ろ。何も云えねぇって事はやましい事があるからだろぉがッ。とっとと吐いちまえよ。自分が害者であるかなどめ未世子みよこを殺しましたって。おら、どうなんだ?自首ついでに自白しちまえよ。裁判で減刑して貰えるかも知れねぇぜ?」

 一刑事は煙草を吹かしながら鬼気迫る表情で凪に詰め寄る。

「何度も云っていますが、自分は自首では無くて通報したんですよ。それに、そもそも自分はやっていませんので、減刑されるされないはどうでも良いんです」

 一刑事の言葉に怯む様子も無く、凪は綽然しゃくぜんとして云い退けた。

「………。家族や友人、近隣住民が電話してきたってぇなら通報だろうけどよ、一切の接点がねぇおめぇが現場から直接電話掛けてくるなんてのはな、どう考えても自首としか考えられねぇんだよ。自首と思われたくねぇなら喋ったらどうだい?ん?」

 自白調書を取って検察に送検する前に早急に事件を解決し、手柄としたい一刑事からして、取り調べ開始後、既に一日経過している現状は余り好ましく無いようだった。それは言動からも見て取れる。
 無機質なコンクリート壁に囲まれた部屋は、湿った空気と煙草の煙とが立ち込めていた。蓋の外れた剥き出しの換気扇が頼りなく回り、そのすぐ近くに在る鉄格子のめられた細長い窓から照射する日差しが、机を挟んでする二人の男を照らし出している。
 一刑事の問い掛けに、凪が何を考えているのかは表情を隠す暖簾髪のせいで推し量る事は出来ない。ただ眠ったように沈黙を貫くだけで、彼は微動だにしなかった。
 ライターの擦り石の音が沈黙を破る。一刑事は、肺一杯に吸い込んだ煙を狼煙のろしの如く天井へ吐き出す。それを契機に凪は訥々とつとつと語り出した。

「彼女…京さんとは、『生けるしかばね』で出会いました」
「『生ける屍』ってぇのは?」
「自殺願望者が集うネットの掲示板ですよ。そこで何度か連絡を取り合った後、京さんと一度会う事になりました。まぁ、一度と云っても最初で最後の予定だったんですが」

 彼の口元だけが笑う。

「自分は京さんの自宅へ来るように云われたので、教えられた住所へと向かいました。到着すると、こんな朴訥ぼくとつな自分を京さんは温かく迎えてくれました。およそ自殺願望がある人のようには思えませんでした」

 一刑事は煙草を呼吸器のように口に宛がい、吸排を繰り返しては黙して聞き入っている。

「家の中に入った後は、友人宅に遊びに行った時のように紅茶とお菓子を出してくれました。異常な邂逅をした筈なのに、正常な人達のする行動と何ら変わりが無いのには可笑しくなりました。これから自殺しようとしているのに、何故か他愛も無い雑談をしていると、京さんが突然と本題に迫ったのです。──自殺の方法だけど──そう、京さんは切り出しました。
 自殺方法は実に端的なもので、浴槽に溜めた生理的食塩水の中で手首を切るというものでした。京さん曰く、大した苦痛も無く死ねるそうです。まぁ、やってみないと分からないけれど、とも云っていましたが。程無くして、京さんから自殺用にと用意していた刃物を渡されました。受け取った刃物は特段代わり映えの無い、何処でも購入出来そうな代物のはずなのに、京さんから渡されたそれは逸品の値打ちある物のように感じられました。しかしたら、自分の命を絶つ為の道具として美化していたに過ぎないかも知れませんが、いずれにしろ、物の真価と云う奴は銘々に依って変遷するものですので、あの時の自分には大変重みある高価な代物に見えたのです」

 一刑事は記憶を辿りながら喋る凪の話し方に苛立ちを感じてか、組んでいる片方の足を小刻みに震わせた。

「その様子を見てか京さんは──恐かったら止めても良いんだよ?──と逃げ道を与えてくれました。その優しさに人間味を感じましたが、死にたくて遠路遥々脚を運んだ自分ですので、そのような躊躇は無い旨を京さんに伝えたところ、安堵のような嬉々としたような表情で──良かった──と一言云ったのです。
 自分はそんな京さんを見て疑念を抱きました。どうしてこの人は死にたいのだろうか。その一つの懐疑が、浴室へ赴く足を再び止めたのです。自分は訊きました。京さんの自殺理由を。そしたら京さんに蔑視され──貴方も私の自殺を止める積もりですか?──と云うのです。何を云っているのだろうと思いました。先程、自殺への確固たる決意を表明したばかりなのに、何故そんな疑問をていするのか判らず言葉に窮していると、京さんはこう云ったんです。──自殺の理由を聞きたがるのは、自身に何の害も及ばないと高を括り一線を隔てた者か、野次馬精神に富む心配の振りをする者達か、それを止めようとする人だけよ──と。なるほどと、自分は京さんの卓見に唯々ただただ脱帽しました。そして自分はなんて無粋な真似をしたのだろうと悔い、素直に謝りました。その時──分かれば宜しい──と京さんは笑ったのですが、不覚にも可愛いなどと思ってしまいました」

 カァン、と高い音が鳴った。一刑事の足が金属製の机の脚にぶつかったのだ。

「なぁ、ちょっと待ってくれや。おめぇは今一体、何の話をしてんだ?事件についての自白なんだよなぁ?」

 一刑事は薄くなった頭頂部を掻きながらただす。

「えぇ。事件の真実を告白しているのです」
「あのよぉ、こっちもおめぇばかりに時間を割いてられねぇんだ。おめぇの妄想の惚気をすっ飛ばして、もっと手短に話せねぇのか?」
「どうも要約して話すというのは苦手でして。順を追って記憶を辿りながらでないと話せないんですよ」

 暖簾髪のせいで相変わらず表情の読めない彼だが、その口元は三日月のような弧を描いていた。

「チッ。おめぇさんの長い長いご高説を拝聴するのは構わねぇけどよぉ、それだけの時間を割いて作り話でしたなんて落ちはねぇだろうな?」

 苛立ちを隠せない一刑事は嫌味を交えながら問い掛ける。

「大丈夫ですよ。自分は正直者ですから」
「普通、正直者はんなこたぁ云わねぇんだけどな。まぁ良い、続けろや」

 仏頂面の一刑事は、煙草の火を揉み消すと灰皿へ吸殻を投げ入れて話の再開を促した。
 どうやら、ここで押問答を繰り広げるよりかは、少々長くても自白が終了するのを待つ方が得策だと判断したようだった。凪は鷹揚な咳払いをすると、泰然たいぜんとして再び語り出した。

「そうこうしている内に自分達は脱衣所まで移動しました。自分はてっきり衣服を着たままで死ぬのかと思っていたのですが、京さんの挙動を見ていると、どうも違うようなのです。仕舞いには──何してるの?早く脱ぎなさい──なんて云うんです。戸惑いながらも自分は云われるがままに脱ぎました。京さんは自身の裸体を抵抗無く晒しました。
 しかし自分はと云えば、パンツ一枚の処で躊躇ってしまったんです。否、躊躇わざるを得なかった。仮にも自分は男なんです。お察しになるでしょう?眼前に裸の女性が居るんですから、一物が反応しない訳が無いんです。それを京さんは心得ていたようで──誕生から純潔だったアダムとイブも死に際する時は、淫欲に塗れて絶命したのかも知れないわね──と理解に苦しむ独り言の後、最後の砦であるパンツを自分が有無を云う間も無く、剝ぎ取られてしまいました。自分の怒張する一物を京さんは慣れた様子で手、口、胸でしごいてくれました。情けないのですが、余りの気持ち良さに直ぐに果ててしまいました。それを見てか、京さんも興奮したようで、そのまま行為に及びました。今から死のうとしているのにですよ?つくづく自分は汚らわしい動物なんだなと実感しました。まぁ、思った処で悦びを求める行為は止められず、幾度と及ぶ中で自分は今までの行為とは比べ物のにならない程の格別の快感を得られました。
 それは死の直前に種を存続させようとする動物的本能に依る処もあったのかも知れませんが、恐らく、倒錯的な淫気にてられたものだと自分は思いました。考えても見て下さい。自分の人生に絶望し、死を覚悟した者同士が死ぬ直前に行為に及ぶんです。そこには過去も未来も無くて、今しか在りはしない。何を憂慮する事も無く、純粋に求めるままに肉欲を貪り、悦楽で心とからだを満たしていくのです。あの充足感は今後感じられる事は無いとさえ思います。それ程、逸脱した快感だったのですから」

 懐古する凪は、そこで顔を上げる。暖簾の合間から覗く瞳は胡乱であり恍惚としていた。舌舐めずりする彼に、一刑事は侮蔑の眼を向ける。

「行為が終わり、意気爽然としている自分は心地の良い余韻に浸っていました。それを搔き消すように京さんは云いました。──凪君はどうして死にたいの?──と。先程の自身の言葉など無かったかのように質問してくるんです。本当に女というのは移り気の多い生き物ですよ。首尾一貫なんて言葉を知りもしないんでしょう。ただ、女はそれで良いのです。初志貫徹の如く、意地を張るのは馬鹿な男の所業なのですから。女は情の深い生き物なんです。ほだされて矛盾する言動こそが女の持つ包容力なんだと、今の自分は思います。
 まぁそれは良いです。自分はその相反する問いに何を隠す事無く答えました。要介護の父を持ち乍ら、自分が懸命に働いていた日の事を。
 就業中の間は付き合っていた彼女に父の面倒を看て貰っていたのですが、嫌気が差したのか逃げられたんです。自分は悩みました。今のままだと日中、父を放置する事になってしまう、しかし、施設に入れるにも稼いだお金は生活費で手一杯…。
 結局、働いていた会社を退職し、近所でバイトをしながら介護する事にしました。ですがバイトと云えど、働きながら人一人の世話をするのは想像していたより遥かに厳しく、大変な事だったのです。段々と体力を消耗し、精神も摩耗してきた自分は疲れてしまいました。父が鬱陶しくなり、自分の人生でさえどうでも良くなってきて、死のうかなって。一種の救いを求めて自殺を決めたのです。
 そう経緯を告げると、京さんは何故だか怒りました。──そんな事で自殺なんてするもんじゃない。それに貴方が死んだらお父さんはどうするの?──と存外に真面まともな事を云い出したんです。呆気に取られました。だって、自殺の理由なんて、辛い事から逃げる為にするのがほとんどの筈なのに、それをそんな事と云って一笑に付したんですから、動揺せずにはいられませんでした。自分はムキになって、彼女の自殺理由を質しました。
 京さん曰く──自殺を救済の方法や逃げ道にしないで、そんな下等な行いでは無いのよ──と云うのです。その言葉に不思議と自分の自殺理由を貶された事に因る怒りよりも、彼女の自殺理由を知りたいという好奇心が膨れ上がったんです。こんな感情は生まれて初めてでした。死のうとする以前から、自分は他人に対しても自分に対しても、とんと興味が無かったのに、京さんにはそれが湧いたのですから。
──自殺って云うのはね、救いでも退路でも無く、挑戦なの。三十そこそこ生きてきた私は、貴方が思うよりも沢山の経験をしてきたわ。この世の酸いも甘いも知り尽くしてる。ただ、人を殺めたり、薬物を使った事は無いの。それは人をめる行為だから。私はこの世界に飽きてはいるけれど、人を已めたいとは思わなかった。私は人のままで在りながら、新たな魅力を欲していたの。そして発見した。この世界に飽きているのなら、この世界から抜け出せば良い。なら、その脱出方法は?そこで思い付いたわ。自殺を。どうして世界が一つしか無いと思い込んでいたのかしら、何故にこの世界にこだわる必要があるのだろう、って私は思い直した。この世界を抜け出せば、私は辿り着けると思うの。世界の真理に。私は私を魅せてくれる未知なる体験や知識を得たい。でも、真理を得るには、この世界に留まっていては知り得ない…。だから私はこの世界から抜け出す為に自殺するの。だから挑戦なのよ──そう、彼女は語ってくれました」

 胡乱として語る凪は、京の魂に乗り移られたかのようだった。

「それからこんな事までのたまうのです。──自殺ってね、自らを殺すと書くでしょ?それは自身の死に際を選択出来る個人の権利だと思うの。世間の大概の自殺理由は虐め、生活の困窮、社会環境の劣悪さに因るものが多いけど、私からしてみれば、それらは自殺じゃないわ。だって、そうでしょ?権利を行使したんじゃなくて、行使させられたんだから。だから自殺じゃなくて、立派な他殺。間接的他殺だと思うの。その認識を世間は誤っているわ。自殺を殺人という低俗なものに押し下げないで欲しい。自殺はもっと尊ぶべき崇高な行いなの──。
 正直な処、自分の理解の範疇を超えていて付いて行けずに呆けてしまっていました。そして、気付くと京さんは自身の手首を切っていました。生理的食塩水で満たされた浴槽の中を蛸墨たこすみみたいな深紅が広がっていくのです。良く分からないままに自分は浴槽の外に出ていました。どうして良いのかわからず、京さんに声を掛けると先程となんら変わり無く返事するのです。そして──私の死に逝く姿を眼に焼き付けなさい。自殺する人は死に近づいた時に大体が後悔の念を抱くの。だから、私の死に様を見て狼狽えるようなら自殺は諦めた方が良いわ。それに身勝手だけど、貴方はまだ死ぬべきじゃないと私は思うの。貴方の理由は自殺するに及ばないわ。貴方のその苦悩は、この世界で解決出来る事なの。だからもっと生にしがみ付いて、必死に生きなさい──と、そう云ったのです。
 その言葉に死ぬ決心が揺らぎました。自分は不安定なままに京さんを眺めました。徐々に紅の濃くなる浴槽。それに相反するように顔が徐々に青白くなり、唇も朱色を失っていくのです。京さんの存在が段々と稀薄になっていくのが分かりました。人間の命は、血潮に有るのでは無いかとさえ思いました。
 そして、据わっていた首が支えを無くして後ろ背にある壁に凭れかかり、躰が弛緩していきました。あぁ、という息の抜けた声と共に京さんは薄笑いを浮かべていて、気味悪く思っていると徐々に呼吸が浅く、早くなっていくんです。息継ぎが止むと、天を見上げたままの京さんはもう動かなくなっていました。脈を測った訳では無いのですが、死んだのが判りました。血溜まりから露出する肩に触れてみると酷く冷たかったのです。先程まで生きていたのが死体に変わる刹那を目の当たりにして、不思議と自分は綺麗だなと感じました。勿論、恐怖も多少感じていたのですが、それと同時に感嘆としてしまったのです。少しばかりそのままの状態でいましたが、ふと我に返った自分はすぐに警察に通報しました。目の前で人が死んだ、と」
「ざけんじゃねぇッ」

 一刑事が飾り気の無い机を強く叩き付けた。灰皿が一分いちぶ程浮き、蓄積した吸殻が山崩れを起こす。

「俺はおめぇの自白を訊いてたんだよッ。下らん妄想話はいらねぇんだ!」
「何を云っているんですか?自分は初めから何もしてないんですよ。ただ見ていただけ。それの証明をしていただけです」

 憤る一刑事を前に狼狽する事無く飄然とする凪は、変わらず暖簾髪の奥に表情を隠している。

「てめぇが無罪な訳あるか。人の死に様を見て綺麗だ?ふざけんなよ。異常犯罪者サイコパスが。おめぇの話を聞いて良く分かったよ。おめぇが『生ける屍』ってサイトを利用して自殺願望者と会って、好き勝手に犯した後、殺してんだろ?それもただ殺すんじゃねぇ、女性が抵抗出来ない状態で徐々に衰弱して死んで逝く様を眺めてたんだろぉ?それが快感なんだろぉッ?どうなんだ!?あぁ?!!」

 一刑事は持ち前の刑事の勘とやらで、真相に詰め寄ろうとしている。一方、凪の方は相も変わらず、口元だけが嫌に薄笑いを浮かべている。

「…その笑いは肯定の意味か?」

 その一言に凪の口際くちぎわの微笑は消え失せた。残るのは能面のような無表情だけである。その時、取調室の扉がノックされた。扉が少し開かれるとその隙間から別の若い刑事が顔を出し、一刑事を手招きする。惜し気有る表情のまま、一刑事は凪を一瞥すると「ちょっと待ってろや」と一言残し、廊下へと移る。

「取調べ中すみません。それでですね、京未世子宅から発見されていたもう一人の毛髪の人物が特定出来ました」
「それで?取り調べは?」
「はい…。それがどうも、自殺する為に害者宅に集まったみたいなんですが、自殺の理由を話すと自殺を止めるように説得されたそうで」

 一刑事は眉を顰めた。まるでアイツの話みてぇじゃねぇか。
 妙な供述の一致が、一刑事の猜疑心を煽った。

「害者がなんで説得してきたか、訊いたか?」
「それが分からないんですよ。自殺の決意をして会ってるのに何で説得される事になったんだ?って僕も再三、訊きはしたんですけどね。返ってくる答えは、分からない、の一点張りですわ」

 奇異なる京の言動の意図が判らず曖昧模糊とした状況に、一刑事は更なる渋面を見せた。うんともすんとも返事せずに考え込む一刑事は、癖のように口元に煙草を運んでいた。

「ちょっとにのさん。ここ禁煙ですって。見つかったら署長にどやされますよ?」

 若い刑事の忠告を無視して、一刑事は咥えた煙草に火を点す。
 二人の話の共通点は、互いに自殺願望が有る事。ネットの掲示板で知り合った事。害者に自殺を止めるように説得された事…の三つな訳だが。この内、一人は自殺を改め、もう一人は自殺を止めるよう説得したやっこさんが自殺した…。似通った点と違った結末から推測出来る事は……。

「なぁ、そのネットの掲示板で害者が連絡取ってたのはこいつら二人だけか?」
「え、と。はい、そうですね。僕が聴取した参考人が初めて連絡を取った人で、次に連絡のやり取りを始めたのが、にのさんの方の容疑者ですね」

 一刑事は礼の代わりか、吸い掛けの煙草を若い刑事に渡して取調室に戻る。煙草の処理を任された若い刑事は「えっ、ちょっとにのさん…」とぼやいた切り、立ち尽くしていた。

「おい、てめぇ。端から殺す気だったのか?どうなんだ?あぁッ?」

 一刑事は取調室に戻るや否や両手で机を叩き、憤怒の形相で凪に詰問する。

「すみません。何を仰ってるのか良く分からないんですが…」
「しらばっくれんじゃねぇ!元々、殺人衝動を抱えてて、自殺願望者なら殺しても問題ねぇって高を括って害者と会ったのか?それとも、自殺する気でいたのを止められて腹が立ったから衝動的に殺したのか?どっちなんだッ?」
「自分は初めから自殺する気で殺す気はごうもありませんよ」
「この野郎ッ」

 一刑事は飄然と答える凪の胸倉を掴み上げ、無機質なコンクリート壁に押し付けた。だが、それ以上の行為は暴力になってしまう為に、一刑事はただただ息を荒くして睨む事しか出来ないでいた。
 今の一刑事には凪を質す為の証拠という名の材料が不足していた。本来なら事件発覚してから一日以上経過している現状であれば、何かしらの証拠が出る筈なのだが、その情報は一向に一刑事のもとへは入っていなかった。それ故、容疑者である凪の長話を聞くと云う後手後手な取調べしか出来ないでいたのだ。
 それから検察に送検するまでの数時間を一刑事は憤りに任せた聴取しか出来ず、凪はその怒り狂う獅子の如き一刑事に何を云うでも無く、傍から見れば茫然自失状態のようにして時が過ぎるのを待っていた。
 推し量るに、凪はこの苦悶な時間さえどうでも良いといった具合で、寛々かんかんとして時代の趨勢すうせいを傍観するが如く、全くの他人事のようにして置物や人形と同等に過ごしていたのだった。


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