ボクとネコのはなし

清泪(せいな)

最終話 ボクとネコのはなし

 
 樹下母に一礼して、ボクは樹下家をあとにした。

 マンションから外に出て、振り返って見上げる。

 たった二ヶ月の出来事は、とても素早く終わったようにも感じるし、長かったと呟きたくなるほど充実感に満たされたものでもあった。

 夕方五時を過ぎたはずだが、まだ夕焼けには遠そうな明るさであった。足元の影の伸び方もそれほどでもなかった。

 それでも、夕方であるからか昼間よりは暑さは控えめであった。時折吹く風は涼しく気持ち良い。

 これなら駅まで汗をあまりかかずに行けそうだ。


 駅の改札口には、早恵の姿があった。

 早恵は直ぐにボクに気付き、片手を振っている。

 ボクはそれに応える様に少し歩を速めた。

 お疲れ様、と互いに言い合う。

 早恵は今すぐにでも面接が受けれそうなきっちりとした服装だった。家庭教師の仕事帰りだろうか?

 待ち合わせを決めた際には、今日は仕事は休みだから何時でもいい、とか言っていたはずなんだが。

「何、その格好?」

「何って……私服だけど?」

「そうじゃなくて、何で正装じゃないの!?」

 怒鳴りつけるぐらいの声でそう言うと早恵は、もう信じられない、と首を横に振った。

 長い髪が振られる度に綺麗に風に揺れる。

「実家に帰るだけで正装するヤツなんていないよ」

 今日これから向かうのは、ここから四、五駅行った先のボクの実家である。

「実家に彼女を連れていくんだよ?」

「連れていくんじゃなくて、勝手についてくるんだろ」

 語感が近いのだが、ニュアンスはまったく別物だ。

 サッカーを再開するにあたって両親にその旨を報告しにいくと、早恵に伝えたのがこの問題の始まりだ。

 サッカーを再開、専念するという事はつまりアルバイトに割ける時間が少なくなるという事で、要するに仕送りについて頼らなくてはならないという事。

 大学が落ち着いたらアルバイトを始めるから仕送りは段々少なくしてもらっても大丈夫、なんて大見得を切ってしまっていたものだからその訂正に向かうという話だ。

 正直、格好悪い話なので早恵にはついてきてもらいたくは無かった。

「だから、一緒に住もうって言ってるじゃない」

 実家のある駅までの切符を買う。

 早恵の分も買ってやろうかと思ったが、改札をスイッとかパッと通れるICカードを見せられた。

 何となくだが負けた感じがしてしまった。

「まだお互い学生身分なんだから、同棲は早いだろう」

「ご両親への負担が削減されて彼女と毎日ヤりたい放題という好条件をみすみす見逃すなんて、ホント草食系だよね」

 改札機にICカードを叩きつける早恵。八つ当たりもいいところだ。

「ヤりたい放題とかはしたない事言わないの。早恵こそ肉食系に偏り過ぎてないか?」

「彼氏が草食系なら女がガッツリいかないと、ってはやみさんが言ってた」

 やっぱり、はやみさんはハンターだった様である。

 しかし、雑誌の恋愛コーナーに書いてあった、みたいな物言いからするにはやみさんは恋愛教の教祖とかなのかもしれない。

「もういい、洸に何言っても無駄なのはわかった。だったら、外堀から埋めてやる」

「外堀?」

「城を攻めるならまずは外堀から、って言うでしょ。ご両親をせんの……説得させてもらいます」

 少し不吉な言葉を口走った早恵は、ニヤリと笑みを浮かべてホームへと続く階段を登っていった。

 ホームには涼しい風が舞い込んで来ていた。電車が来るまでまだ時間があるので、待ち合い用の椅子に並んで座る。

「優人はもう大阪に?」

 これ以上同棲の件について話をしても、ややこしい事になりそうだったので話題を変えた。

 優人からは今朝メールが届いていた。

「うん。さっさと本調子を取り戻せ、待ってるからな、って」

「……そのままの内容でメールが来てたよ」

 それ伝言する意味あんのかよ。

「あとは、私の事なんだけど。お父さんが会いたがってるって、そのうち大阪に来いって言われちゃった」

 少し恥ずかしそうに、少し嬉しそうに早恵は言う。

 父親に選ばれなかった、と早恵は言っていた。

 それは選ばれなかったのではなくて、選べなかったのだろう。

 父親は息子を、母親は娘を引き取った。

 育てる環境としてそれがいいと互いに判断した結果だったのだろう。

「その時は、もちろんついてきてね」

 早恵の言葉に、ボクは頷き返事とした。

 ホームの客は疎らだ。

 夕方六時に近づこうとしている時刻は、通勤ラッシュに該当しそうものだが疎らだ。

 話し声より蝉の鳴き声と構内アナウンスが響く。

「ねぇ、初めての家庭教師、やってみてどうだった?」

「どう、って聞かれても……そうだな、小説一冊分は語れそうだな」

 たった二ヶ月の出来事は、ボクにとってかけがえのない出来事となった。簡単な言葉でまとめあげれる様な事ではない。

「花火大会の時にはさ、私が目一杯話したし今度は洸の番、ってことで」

 いつだって勝手に決められた順番は後手なんだな。

 仕方ない、まだ電車が到着するまで時間はあるし、実家に着くまでも結構かかる。いつか話す事になるだろうと、どこかで思っていた事だし。改めて話す機会を設けるよりは、こういった何気無いタイミングの方がいいかもしれない。

 ボクのかけがえのないひと夏休みの出来事。

「じゃあ、話すからちゃんと聞いてくれよ。ボクとネコのはなし、を」









『おしまい』

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