ボクとネコのはなし

清泪(せいな)

第56話 優人の世界

 手の平の向こう、夜空には相変わらず花火が次々と打ち上がっている。横並びに等間隔に打ち上がった花火が同時に散り、その火花が滝の様に降り注いでいた。

「競技場の近くの病院に入院したからさ、毎日の様に優人の見舞いに行けたのね。弟と会える機会が少ないから姉としては会っておいてやらないとって。優人が無理矢理笑ってた頃は、毎日来んでもええって、なんて言ってたけどそんな事も言わなくなった。何も言わなくなった」

 降り注ぐ花火の滝を見て、綺麗だね、と呟く早恵は、しかし悲し気な表情をしている。

 夜空にずっと伸ばしたままの手は、いつまでたっても何も掴まない。

 早恵が振り返る様に昨年の話をし続けるのは、そういった虚無感への哀愁なのかもしれない。

「……一週間、経ったぐらいにね。優人が久しぶりに口を開いたの。久しぶりに口にした言葉はね、“オレのせいや、オレの足がこんな弱いから洸は辞めなあかんなったんや”、だった」

 無口無表情無感情だった優人に戻ったモノは、理不尽な自虐だった。自分の右足を叩こうとする優人を母親が必死に止めていたのだと、早恵は言う。

 
「私の言葉もお母さんの言葉も優人には何の力にもならなくて、優人は結局独りで苦しんで独りで立ち上がったの。見てるのも辛くなる様なリハビリに励んだのも足が動かせる様になってからすぐだった」

 ビルの屋上だからか、突然強い風が吹いた。人が押してくる様な強い風圧にボクは体勢を崩しかけたが、手すりをしっかり持ち何とか堪えた。

 隣で早恵も驚きの声を上げながら体勢を崩しかけていたので、手を掴みそれを助けた。掴んだ手とは逆の手は、未だに空に向けて伸ばしたままだった。

 体勢を崩してまで伸ばし続ける手は何を掴もうというのだろうか?

「何か、男の世界、っていうのかな? 立ち入り禁止されちゃったよ、不甲斐ない姉だよね私」

 ありがとう、と言ってから会話を続ける早恵。

 男の世界、と言われて少年漫画の様な常々必殺技を叫ぶ優人が頭を過ったが、そのまま通り過ぎてもらう事にした。

「ん~、不甲斐ないって事は無いんじゃないかな」

 え?、と聞き返す早恵にボクは頷いてから言葉を続けた。

「きっと、男の世界、ってより優人の世界って感じなんだけどさ。優人は甘えたくなかったんだと思うよ。甘えたらその時点で立ち上がれない気がしたんだよ。だから、ずっと二人の事を支えにしつつ甘えずに一人でやりきろうとしたんだよ」

 それが今日までの優人の世界だ。

 誰にも甘えず、ボクの為に、優人自身の為に、自身の足がまだサッカーを出来るのだと証明する。

 それが男の世界だなんて言われたら、ボクにはハードルが高すぎる気がする。

 優人だから歩ける過酷な道なんだと思う。

「それにさ、優人はいい奴だけど器用じゃないから、不安も心配も極力かけないようにしたのもあって、まぁ、それが二人には裏目に出たんじゃないかな?」

「そうだよね、器用じゃないよね。泣きたい時には泣けばいいのに、甘えたい時には甘えればいいのに。変なとこ姉弟で似てるのよね」

 早恵は何故だか力強く頷いていた。

「……話はちょっと戻って、優人がリハビリに励む事になるよりもだいぶ前にね、ステップから仕事が来たの。私はその時、姉として自信を喪失してたからとにかく気を紛らわそうとアルバイトに励む事にしたの。その時の依頼主の名前が新木、だった」

 唐突に名字を呼ばれて驚いてしまった。そういえば、早恵から新木と呼ばれるのはいつぶりだろうか。

「新木洸、渡された資料の名前を何度も確認した。それが優人の足を折った親友の事だって何度も確認した」

 早恵は真っ直ぐに空を、打ち上げられた花火を見つめながらそう淡々と言葉にした。

「同姓同名同年齢の別人かと疑ったけど違った。何度も確認して本人だと確信した。これは、きっと運命なんだってそう思ったの。不甲斐ない姉が弟の為に仇を討ってやれるって、運命なんだって」

「仇って、優人は別に死んでないぞ」

 物騒な単語が出たのでお茶を濁す様に一応のツッコミを入れておく。

「まったく違う数学の公式を教え続けてやろうとか、薔薇とか魑魅魍魎とかまったく使わない漢字を教えてやろうとか色々考えてた」

「いやそれ、単なる嫌がらせじゃないか!」

 仇という物騒な単語からは想像出来ない小さな嫌がらせに胸を撫で下ろした、が、ついでに嫌な事実に気づいてしまった。

 薔薇とか魑魅魍魎とかを教えるのは、単なる嫌がらせだったのかもしれない。

 いや、教材として渡されたはずだったんだけど。

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