ボクとネコのはなし

清泪(せいな)

第37話 樹下母

 あの日から、一週間が経った。

 あの日から、ボクは何もかもに無気力だ。

 冷房の壊れた部屋でただ呆然と天井を見上げ寝転がっている。

 目を瞑ればあの日の事がつい先程の事の様に思い出される。

 雨音、心臓音、呼吸音、ボールの音。

 優人の言葉、ボクの言葉、早恵の言葉。

 あの日から一週間経っても、ボクはあの日から何も進めていなかった。

 樹下桜音己への家庭教師の仕事は風邪ということで休んでいる。でもそれも二三日程度の言い訳で、殆ど無断欠勤だ。最初の頃は樹下のボケメールが度々送られてきたが、暫くしてそれも来なくなった。

 何も無い、今はもう、何も無い。

 全てを失った。いや、全てを手離した。

 ボクはまたそうやって、一年前と何も変わらずに、変えれずにいるんだ。

 天井に向けて伸ばした手は、もちろん何も掴めなかった。そもそも何も掴んでなかった。

 それがボクの答えなんだろうか?

 ボクのどうでもいい思考を遮る様に、暫く無言のままだった携帯電話が振動した。

 樹下からのメールだった。


FROM:樹下桜音己

SUB:求む、家庭教師!


引きこもりが伝染しましたか?

そろそろ出てきて説明をお願いします。



「あらあらあら、新木先生。風邪の方はもうよろしいのですか?」

 気づいたら樹下家の前に立っていた。

 いや、正確に言えばしっかりとした意識のある状態で電車に乗りすっかり馴れた道を歩いてきてここにいるわけだが。

 そういうことじゃなくて。

 樹下から届いたメールを見てから、ボク自身何故かはわからないけどすぐに樹下家へと向かっていた。慌てた状態だったので、教材を何一つ持ってきていないし服装も普段着なままだ。

 紺のポロシャツに深緑のカーゴパンツ。髪も短いながらにボサボサで、身だしなみというものとは無縁だ。

 そんなボクを樹下母はいつも通りの笑顔で迎えてくれる。

「あ……はい、その……ボクは、大丈夫です。その……一週間もご迷惑をおかけしてしまい、すみません」

 とにかく、頭を下げた。無断欠勤の事を怒られても、仕方ない。契約を終了されても、仕方ない。

「そんなに気にしないで。病気だったら仕方ないでしょ。ほら、頭を上げて」

 言われた通りに頭を上げた。樹下母は笑顔のままだった。

「事務所の方からちゃんと連絡は受けてますよ。新木先生の体調が回復するまで代役をたてると仰ってくださってましたが、桜音己が嫌だって聞かなくて」

「え?」

「新木先生じゃないなら授業を受ける気は無い、って言うもんですから。……先生がお休みになってからあの娘元気無いんですよ。だから、先生がまたこうして来てくださって助かるわ」

 そう言うと樹下母は手で招く様に家に入れと促す。ボクは後ろ手に玄関ドアを閉めながら樹下家へとお邪魔する。

「勉強の方は、ほら、桜音己って一人でもできるでしょう?」

 あまり素直に頷けない質問が来て、ボクは戸惑った。しかし、樹下母はボクの戸惑いも返答も余所にどんどん奥へと進んでいく。

「私、あの娘の母親ですからあの娘が何故引きこもったかって大体わかってるんですよ」

 会話が繋がってないように感じたけど、ボクはとりあえず頷く事にした。

「勉強はできる娘なんですけどねぇ、恋愛はダメみたい。誰に似たのかしら?」

 女性というのは何歳になっても恋愛について僅かにでも話せば途端に若々しく見える、みたいだ。現に前を歩くのは高校二年生の娘を持つ母親なのだが、年齢不詳な感じに若々しく見える。

 話してる内容は、娘の引きこもりについてだけど。

「あの娘の相手、お願いしますね。ああ、こういうの家庭教師の方に頼むのはおかしいってわかってるんですけどね。親の私たちでもなくて、幼なじみの二人でもなくて、新木先生なら桜音己の相手になれると思うんですよ」

 樹下母の話を聞いてるうちに、樹下桜音己の部屋の前に辿り着いた。ボクは返事に戸惑いっぱなしだった。

「それに、先生の相手に桜音己は合ってると思うんです」

「え?」

 樹下母の言葉の意味がわからなくて、ボクは聞き返したのだけど樹下母は笑顔を崩さぬまま、じゃあお願いします、と一礼してリビングの方へと歩いていった。

 家庭教師としてより話し相手として期待されてるなんて複雑な気持ちだったが、何の手持ちも無い今のボクには会話ぐらいしかできそうにないので了解せざるを得なかった。

 樹下桜音己の部屋のドアをノックする。返事が少し遅れて返ってくる。何となく機嫌が悪そうなのが伝わってくる。

 もちろん、原因はこのボクだ。

 覚悟を決めて、ドアを開けた。

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