ボクとネコのはなし
第16話 噛み芸
「あら、ラッキー、新木先生。この問題がわかりません」
「幸運にも発見したみたいな呼び方で、ボクを呼ぶな」
「すいません、噛みました」
「そんな噛み方した人に初めて会ったよ」
ハッキリと意識して言わないと、ああは区切らないだろう。
さて、彼女の聞いてきた問題だが。
問、“魑魅魍魎”の読みを書きなさい。
これからの大学生活に、魑魅魍魎なんて言葉は必要なのだろうか。
私の大学は、魑魅魍魎、です。
なんて中学生の英語の教科書並な例文があったら、ボクは逆に納得したかもしれないが、残念ながらそんな例文は無かった。
魑魅魍魎なんて言葉を知っていて役に立つことなんて、分厚い怪奇ミステリーを読む時ぐらいじゃないだろうか?
答は、ちみもうりょう。
「チミチミ、ちょっと待ちなさいよ」
樹下桜音己は、唇の上、鼻の下のところに鉛筆を水平に乗せて右手をこちらに向けてそう言った。
「……なんだい、それは」
「スコットランドヤードの真似ですよ。わかんないかなぁ」
また不満そうに口を尖らせる。乗っけた鉛筆は、口髭のつもりらしい。
「それをスコットランドヤードとわかる人間に会いたいよ」
「私もぜひ会いたいです」
「わかってもらったこと無いのかよ!」
「アンラッキー新木先生。この問題がわかりません」
「売れない芸人みたいな名前で、ボクを呼ぶな。……っていうか、さっきからその名前ボケがしたい為だけに質問してないか?」
「バレちゃいました? 某アニメで見まして」
てへへっ、とまた舌を出して片目をウインクさせながら頭を軽く叩く樹下桜音己。昭和の少女漫画か、平成のギャグ漫画みたいなリアクションだ。そのリアクションについて、またボクは言葉を無くしたので絶対に触れない事に決めた。
「このリアクションも一連のボケに含まれるんで、ちゃんとツッコんでくださいよ」
「世の中には、ボケっぱなしってジャンルもあるんだ。それはソレでいいじゃないか」
「面倒になって流した事を、ジャンル分けして正当化するのはやめてください」
う、見透かされてる!? というか、流されたと思った謎のリアクションを更に押し込んでくる方が悪いんじゃないだろうか?
流されたなら、諦めようよ。
もうボケが無くなったのか、ボケるのを我慢できるようになったのか、樹下桜音己は急に静かになり問題集に真剣に取り組んだ。
彼女が何も喋らなくなったので、ボクも何も喋れなくなった。
問題集を忙しなく駆け巡る鉛筆の音。
カツカツ、と秒を刻む壁に掛かった時計の音。
僅かに聞こえる、羨ましいぐらい機能している冷房の音。
室内は急に密やかな音だけが聞こえる様になった。
時針が3のところに来ている。
このマンションに着いてから、もう一時間も経ったのか。
昨日と同じく、慌ただしいだけあって時間の流れるのが早い。
窓の外の景色は、相も変わらず殺風景。
延々と込み入った、道路。
所々明かりの無い、古びたビル。
上りと下りが忙しない、電車。
今日は快晴で、夏を楽しむにはとてもいい天気なのに、風景は日常的で面白味が無い。
こんな日は、多少暑くても外を駆け回りたい。勉強なんてほっぽりだして、いい汗かいて、冷たいシャワーを浴びたいもんだ。
……家庭教師としては、禁句みたいなもんだな。ましてや、樹下桜音己は引きこもりだし、インドア派っぽいから、この話題は受けそうにないな。
それにしても、今までが今までだっただけに会話が無いというのも寂しいもんだ。樹下桜音己は、昨日とまったく同じようにスラスラと一人で勉強を進めてしまうので、ボクが介入する余地も無い。
つまり今ボクは、勉強教材を提供しただけのお兄さんに過ぎず、樹下桜音己が言うように話し相手にも遊び相手にもなりきれず、ぼけーっと椅子に座り、横目で彼女の勉強の様を見ているだけしか出来ずにいる。
家庭教師として、彼女に出来ることとは何だろう? 犬飼英男が言い切った様に、彼女には家庭教師なんてものは必要ない。
それは、確かな事だ。
彼女が何処の大学を進学しようとしてるのかは知らないが、超有名進学校に通っている時点で家庭教師の必要性は決まっていると早恵から聞いた。
必要性は、もちろん無い、との事。超有名進学校に通っている時点で、学力はアルバイト家庭教師より遥かに上で、仮に超有名進学校に脱落したからこそだとすると、家庭教師なんて頼まないらしい。
脱落は、リトライを意味するのではなくてリタイアを意味するからだ。元々高い壁の上に位置してしまう所から一度落ちた者は、立ち上がれないのが普通らしい。
でも、樹下桜音己の場合、それは無いだろう。そもそも脱落してそうに無い。
では、何の為に家庭教師を呼ぶのか?
問題に一度も詰まる事の無い彼女を見ていると、謎は深まるばかりだ。
「幸運にも発見したみたいな呼び方で、ボクを呼ぶな」
「すいません、噛みました」
「そんな噛み方した人に初めて会ったよ」
ハッキリと意識して言わないと、ああは区切らないだろう。
さて、彼女の聞いてきた問題だが。
問、“魑魅魍魎”の読みを書きなさい。
これからの大学生活に、魑魅魍魎なんて言葉は必要なのだろうか。
私の大学は、魑魅魍魎、です。
なんて中学生の英語の教科書並な例文があったら、ボクは逆に納得したかもしれないが、残念ながらそんな例文は無かった。
魑魅魍魎なんて言葉を知っていて役に立つことなんて、分厚い怪奇ミステリーを読む時ぐらいじゃないだろうか?
答は、ちみもうりょう。
「チミチミ、ちょっと待ちなさいよ」
樹下桜音己は、唇の上、鼻の下のところに鉛筆を水平に乗せて右手をこちらに向けてそう言った。
「……なんだい、それは」
「スコットランドヤードの真似ですよ。わかんないかなぁ」
また不満そうに口を尖らせる。乗っけた鉛筆は、口髭のつもりらしい。
「それをスコットランドヤードとわかる人間に会いたいよ」
「私もぜひ会いたいです」
「わかってもらったこと無いのかよ!」
「アンラッキー新木先生。この問題がわかりません」
「売れない芸人みたいな名前で、ボクを呼ぶな。……っていうか、さっきからその名前ボケがしたい為だけに質問してないか?」
「バレちゃいました? 某アニメで見まして」
てへへっ、とまた舌を出して片目をウインクさせながら頭を軽く叩く樹下桜音己。昭和の少女漫画か、平成のギャグ漫画みたいなリアクションだ。そのリアクションについて、またボクは言葉を無くしたので絶対に触れない事に決めた。
「このリアクションも一連のボケに含まれるんで、ちゃんとツッコんでくださいよ」
「世の中には、ボケっぱなしってジャンルもあるんだ。それはソレでいいじゃないか」
「面倒になって流した事を、ジャンル分けして正当化するのはやめてください」
う、見透かされてる!? というか、流されたと思った謎のリアクションを更に押し込んでくる方が悪いんじゃないだろうか?
流されたなら、諦めようよ。
もうボケが無くなったのか、ボケるのを我慢できるようになったのか、樹下桜音己は急に静かになり問題集に真剣に取り組んだ。
彼女が何も喋らなくなったので、ボクも何も喋れなくなった。
問題集を忙しなく駆け巡る鉛筆の音。
カツカツ、と秒を刻む壁に掛かった時計の音。
僅かに聞こえる、羨ましいぐらい機能している冷房の音。
室内は急に密やかな音だけが聞こえる様になった。
時針が3のところに来ている。
このマンションに着いてから、もう一時間も経ったのか。
昨日と同じく、慌ただしいだけあって時間の流れるのが早い。
窓の外の景色は、相も変わらず殺風景。
延々と込み入った、道路。
所々明かりの無い、古びたビル。
上りと下りが忙しない、電車。
今日は快晴で、夏を楽しむにはとてもいい天気なのに、風景は日常的で面白味が無い。
こんな日は、多少暑くても外を駆け回りたい。勉強なんてほっぽりだして、いい汗かいて、冷たいシャワーを浴びたいもんだ。
……家庭教師としては、禁句みたいなもんだな。ましてや、樹下桜音己は引きこもりだし、インドア派っぽいから、この話題は受けそうにないな。
それにしても、今までが今までだっただけに会話が無いというのも寂しいもんだ。樹下桜音己は、昨日とまったく同じようにスラスラと一人で勉強を進めてしまうので、ボクが介入する余地も無い。
つまり今ボクは、勉強教材を提供しただけのお兄さんに過ぎず、樹下桜音己が言うように話し相手にも遊び相手にもなりきれず、ぼけーっと椅子に座り、横目で彼女の勉強の様を見ているだけしか出来ずにいる。
家庭教師として、彼女に出来ることとは何だろう? 犬飼英男が言い切った様に、彼女には家庭教師なんてものは必要ない。
それは、確かな事だ。
彼女が何処の大学を進学しようとしてるのかは知らないが、超有名進学校に通っている時点で家庭教師の必要性は決まっていると早恵から聞いた。
必要性は、もちろん無い、との事。超有名進学校に通っている時点で、学力はアルバイト家庭教師より遥かに上で、仮に超有名進学校に脱落したからこそだとすると、家庭教師なんて頼まないらしい。
脱落は、リトライを意味するのではなくてリタイアを意味するからだ。元々高い壁の上に位置してしまう所から一度落ちた者は、立ち上がれないのが普通らしい。
でも、樹下桜音己の場合、それは無いだろう。そもそも脱落してそうに無い。
では、何の為に家庭教師を呼ぶのか?
問題に一度も詰まる事の無い彼女を見ていると、謎は深まるばかりだ。
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