ボクとネコのはなし

清泪(せいな)

第10話 骨が折れる音


 ロスタイム。

 2―2。



 真夏の熱気に水分を搾り取られた身体を、無理矢理にでも動かす。

 スタジアムは気温と歓声に包まれて、フライパンの上にいるように熱い。

 揺れるように見える、ボール。
 揺れるように見える、ゴールポスト。

 生い茂る芝に倒れ込みたくなる衝動を抑え、足を一歩でも前に出す。

 キーパーからレフトバックへ。
 レフトバックから中央へ。
 ボールの軌跡を目で追いかけた。

 激しいボールの奪い合い。

 身体と身体がぶつかりあって、汗が飛ぶ。

 スパイクが地面を抉り、土が飛ぶ。

 ボクは前へと走り出す。

 風を切っていくようで、心地良かった。

 あれだけ響いた歓声が遠退いていくようで、不思議だった。

 中央から今度は無人の右側へ。

 ラインギリギリのボールを受け取り、センタリング。

 誰かに呼ばれた気がして、ボクは高く高く跳んだ。

 競り合う相手より高く、ただ高く跳んだ。

 ボールがゴールに入る音。
 スタジアムを揺らす程の高まる歓声。
 はしゃぐ仲間の歓喜の声。

 でも、ボクは確かに聞いたんだ。

 人の骨が折れる音を。

 初めて、聞いたんだ。

 

 目覚めは、最悪だ。

 昨日の疲れからか、嫌な夢を見た。

 思いだしたくはない。

 昨日帰ってきて、教材の準備をしたまま寝てしまったようだ。

 服もそのままで、教材もちゃぶ台程度の折り畳み式のテーブルに散らかしっぱなしだ。

 ん、今ボクはここから顔を上げたんだから……教材によだれついてないよな。

 慌てて教材をかき集めてみたが、よだれの心配は無かった。この歳になってよだれの心配は嫌だな。もちろん、樹下にはこの事は黙っておこう。

 樹下といえば、ボクの部屋も彼女に負けず劣らず殺風景な部屋だ。

 四畳の部屋にあるのは、ベッドとテレビと、タンスと本棚が一式になった家具だけだ。あ、あとこの折り畳み式テーブルと。

 ああ、上を見上げれば役にたってくれない冷房君がいる。ボクが今、汗びっしょりなのは寝汗等ではなくきっと彼が不甲斐ないからなのだろう。いっそ扇風機に買い換えてしまいますよ、冷房君。

 一人でぶつくさ言ったところで、不気味でこそあれ意味は無い。

 とりあえず、シャワーを浴びよう。服も着替えたい。ボクのシャワーシーンなんて、もちろん省略で。


 服を着替えてサッパリしたところで、時間を確認したくなった。

 我が家には、時計として機能している物が一つしかない。

 携帯電話、だ。さて、携帯電話は何処にいったのか?

 あれ、無いぞ。何処にいった?

 確かに、昨日帰ってきてから携帯電話を触った記憶があるんだが。

 まさか、携帯電話が独りでに歩いたりするわけもない。

 そんな携帯電話があるならボクは、サイバーテロ犯罪を解決する為に街中をあちこちと走り回ってやりたいが、そんな事を言っている場合じゃない。

 困ったな。こんな狭い家で、携帯電話を無くすなんてまだ若いのに呆けて来たかな。

 最近じゃ若年性の呆けが危険だなんて、テレビで無闇に煽ってたりするしな。

 これから女子高生に勉強を教えますよなんてボクが、呆け始めてるなんてなんとも商売上がったりだ。

 う゛ぅう゛ぅ、と音がした。携帯電話の振動する音だ。

 昨日からマナーモードのままだった。何処から聞こえるんだ?

 ……あっちか? 何だか嫌な予感がした。

 ボクは、風呂場に歩を進めた。

 風呂場のドアを開ける前に、横に設置してある洗濯機を開けた。先ほど脱いだ衣服を取り出す。

 う゛ぅう゛ぅ、とズボンが唸る。見事にポケットから携帯電話を救いだした。

 危うく一緒に洗濯してしまうところだった。

 ……本当に呆けて来たかな。脱いでる時に気づけよ、まったく。

 ズボンを洗濯機に突っ込み直して、ボクは部屋に戻った。

 目覚めた時と同じように、テーブルの前に座る。

 携帯電話を開いて時間を確認する。

 12:34。おお、ストレート!

 ……いやいや、いやいやいやいや、そうじゃなくて。

 結構、危ない時間だった。

 樹下家がボクの家から二駅で行けるとはいえ、今日は一旦事務所に寄ってから行こうと決めていたんだ。

 これじゃあ、朝食を食べる暇さえない。いや、もう昼過ぎだから昼食か。

 昨日、帰ってきてからこれからの勉強用の教材をチェックしていたら寝てしまった。

 結構、夜中までかかってやっていたけど、気づいたら今だったので眠ってしまった時間は覚えていない。

 すごく良く寝た気もするし、大して寝てない気もする。

 本当に、危うく寝過ごすとこだったな。

 携帯電話にメールが届いていた。さっきの振動の時のか。


FROM:山村早恵

SUB:おはよう

ってもう昼過ぎだけど、さすがに起きてるよね?

洸君、寝坊ひどい人だから心配してみました。


 ありがとう、今どうにか危機を回避できる時間に起きました。みました、っていう〈一応やってみた〉って感じと、モーニングコールは普通電話でやるもんじゃないか、という引っ掛かりは感じたけど、わざわざメールしてくれたんだからありがたいと思っておこう。

 それにしても、これじゃ子供扱いだな。この関係は、なかなか改善できない。

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