話題のラノベや投稿小説を無料で読むならノベルバ

奇跡的に虹

木下 カナエ

1 泣き笑い

「雨というのはね、空が泣いているんだよ」
「じゃあ、晴れているときは?」
「そのときは笑っているのさ」
「それじゃあ、それじゃあ、お天気雨の時は?」
「おもしろいことを言うね。そうだねえ。泣き笑いってところかい」

          *

 空から落下する夢を見た。
 ひどい寒気がして目が覚める。
 今日は随分と空が高い。と、自分自身が青空の下で寝転んでいることに気がついた。背中からゴツゴツとしたアスファルトの感触が伝わってくる。
 空は淀みない青だというのに僕の上にはシトシトと雨が降っている。すがすがしいほどのお天気雨だ。
 ずっと空を眺めていると目に雨が入り、沁みた。
 目を擦りながら、ゆっくりと上体を起きあげる。雨に打たれたシャツはぐっしょりと濡れ、体に張り付いていた。寒気の原因はこれか。
 ここはどこだろう? 
 なぜ自分が外で寝転んでいるのか思い出せない。そればかりではなく、ここに来る以前の自分の記憶も定かではなかった。
 近くの水たまりに自分の顔を映して、映った顔を触ってみたりする。
 見紛うことなく、慣れ親しんだ僕の顔である。擦った目は赤く充血している。
 名前はソラ。間違いない。
 辺りを見回せば、道路も同じように等しく水が張っていた。まるで街全体が大きな水たまりのよう。水面に映った街並みは緑豊かで、カラフルな木組みの家が並ぶ。小さい頃に読み聞かせてもらったおとぎ話の国のようであった。
 視界の端、僕の隣で同じように洋服を濡らした女の子がこちらを見ていた。
 水たまり越しに目が合う。
 水に映った彼女は幼いけれど、どこか大人びていて美しい。その顔には憂いが色濃く浮かんでいた。彼女の世を儚んだような黒い瞳は長いこと見ていたら吸い込まれてしまいそうだった。
 普段なら見知らぬ人に話しかけたりしない。でも、今日はこの町の不思議な空気のせいか躊躇いなく話しかけようと思えた。
 それに誰かと話すことで一刻も早くこのフワフワとした記憶をハッキリさせたかった。
「ああ。沁みる。雨が心に沁みるわ」
 彼女は突然そう言って、お天気雨混じりの涙を流した。その彼女のはらはらと泣く様があまりにも美しく、今まさに話しかけようとしていた僕は不覚にもドギマギしてしまう。喉元まで出かかった言葉は引っ込んでしまい、代わりに出てきたのはなんてことはない、「いい天気ですね」であった。
 自分でも訳のわからないことを言ってしまった。はたしてお天気雨の降る、いまの状況は「いい天気」なのか、それとも「悪い天気」に分類されるべきものなのか。ただ、僕自身としてはお天気雨における雨とはおまけのようなものであくまで晴れた空を楽しむものと定めたい。
 そんなことを勢いに任せて話すと、彼女はくすりと笑う。
「変なの。いきなり話しかけてきてそんなことを言うなんて。それに、こんなに雨に濡れていると言うのにどうして雨がおまけだなんて言えるのかしら。雨はいつでも全てを台無しにしてしまうのよ」
 儚げに濡れた髪に触れながら彼女は憂いたっぷりにそう言った。見た目は6歳くらいの幼気な少女であるのに、その物言いはとても大人びている。
「そんなものでしょうか。ところで、どうしてあなたは傘もささずにこんなところにいるんですか?」
「そう言うあなただって雨に濡れているじゃない」
 それはそうなのであるけど、僕は自分がどうして此処にいるのかすらわからないわけで……。
 彼女は自らをユキと名乗った。
「どうせ、ソラくんも落っこちてきたのでしょう? そして、自分がどうしてこの街にいるのかも思い出せない」
 彼女が投げやりに言う「どうせ」がどのような意味かはわからないけれど、確かに言われてみると僕はどこかから落ちてきたような気がする。未だにふわふわとするのは浮遊感の残りだろうか。あれは僕の見た夢ではなかったか。
 自分の記憶の一部を思い出せないのは全くもってその通りである。
「あの、僕はこれからどうすればいいのでしょう?」
「まずはサユリさんのところに行くといいわ。サユリさんはこの街を取り仕切っているから、色々と教えてくれると思うわ」
 サユリさんという方のお家の場所を僕に伝えると、ユキさんは鞄から取り出した折り畳み傘をさして何処かへ歩いて行ってしまった。

          *

 落下地点に取り残された僕は、教えられたとおりにサユリさんのお宅を訪ねることにする。このままでは雨に濡れる一方で、いくら空は晴れているといってもじっとしていればさすがに体の芯まで冷えてくる。
 何処か雨宿りをする場所が必要だった。
 初めて訪れる街を一人で歩くことほど心細いこともそうそうない。ましてや、自分が意図せずにやってきた街であるのならなおさらのこと。昔、出先でまったく違う方向のバスに乗ってしまい、見知らぬ街の聞いたこともないバス停で降車した時とよく似ている。あの時はまいった。途方に暮れた。
 あれはなんと言う街だったか。
 せっかくの美しい街並みも、今の僕の目には全く入ってこない。それよりもユキさんに教えられた道を正確に歩くことで精一杯であった。
 どうやらサユリさんの家は丘の上にあるらしかった。
 それにしても急な坂道である。おまけにうんざりするほど長い。丸い果実の一つでも落とせば、さぞ勢いよく転がっていくことだろう。見上げても急勾配すぎるのかちっとも終わりが見えない。横を見れば、眼下に街が広がっている。
 やっとの思いで坂を登りきれば、(なんと!)家、小階段、家、また少し行って小階段。
 こんなところで迷子になった日には目的地にたどり着く前に疲労困憊で倒れてしまうにちがいない。
 危機感を抱いた甲斐あって、多少迷いはしたものの、一時間ほどで目的のサユリさんのお家を見つけることができた。広大な庭には緑の多い街の中にあっても、目を惹かずにはいられないほど色とりどりの花が咲いていた。
 しかし、僕はインターホンを押すという行為がひどく苦手であった。押すタイミングはいつがいいのか、押した後、家主が顔を見せるまでの間はどんな顔で待っていればいいのか、考えているうちにいつしかインターホンそのものが嫌になってしまった。
 丸ボタンひとつ押すことができずに、門の前でオロオロとしていると図ったように玄関の扉が開いてご婦人が顔を出す。
「あら? どうしたの、そんなところに立っていないで中に入りなさいな。濡れたままでいたら風邪を引いてしまうでしょう」
 ご婦人の勢いに押されるままに家の中へと通される。
 通された部屋の正面には大きなガラス窓があり、そこから庭が一望できた。僕がこの空間にいることが場違いに思えるほどお洒落な部屋だけれどちょっぴり懐かしいおばあちゃんの家のような匂いがする。
 おばあさんに問答無用で座らされたソファは誰がどう見ても高級なもので、濡れ鼠の僕が座るのははばかられて、ふかふかなはずなのにどうもお尻がムズムズして仕方なかった。
「サユリさんですか?」
「そうですよ。私がサユリです。リリィと呼んでね。私のことはこの街の誰かに聞いたのね。うん、きっとそう。この町に初めてやって来た人は私のところに来るようになっているもの。ここに来るまでの坂道はたいへんだったでしょう。それじゃあ、今度はあなたの名前を教えてもらおうかしら」
「はい。ソラと言います。此処の場所は、その、ユキさんという方に教えてもらって」
「そう。ユキちゃんにね。あの子もああ見えてこの街の古株だから」
「あの、この街っていったい……」
「そうね、まずその疑問からよね。わからないことだらけで不安でいっぱいでしょう。うちに来る人はみんな同じような顔をしているもの。でも心配しなくても大丈夫。きっと最後には笑えるようになるから。えーっと、なんの話だったかしら。そうそう。この街のことよね。なんて言ったらいいのかしらね。想像上の街とでも言うのかしら。具体的に存在する場所じゃなくて、みんなの想像が生み出した場所なの。それは何処にもないとも言えるし、何処かにはあるとも言える。誰が名付けたか、この街のことはみな『617番街』と呼んでいるわ」
 リリィさんの話を理解しようとするけれどなかなか事態を把握できない。結局僕は何処にいるのだろうか? この617番街とやらが想像上の街だとするなら、そこに存在する僕もまた想像上の存在で現実世界には別の僕がいるのか、現実世界の僕がそのまま想像上の世界にやってきてしまったのか。
「どうして僕はこの街に来てしまったのでしょう?」
 僕には思い返してみても心当たりがない。ただ単に忘れているだけかもしれないけれど。
「此処にやって来る多くの人は心に傷を抱えているわ。不器用でつまづいた後に立ち上がるのに時間がかかる人ばかり。これはあくまで私の予想になってしまうけれど、そんな人たちが立ち直るまでの手助けをしてくれる場所じゃないかってそんな風に思うの」
 リリィさんは「必ずしもそういう人たちばかりでもないけれどね」と付け加えた。
 そう言われると此処に来る以前に何か悲しいことがあったような気がしてくる。ガラス窓にうっすらと映し出された僕はまるで軟体生物のようにふらふらとして、俯きがちな猫背男である。これも何か大切な拠り所を失ったせいなのだろうか。
「帰ることはできるんですか?」
「ふふふ。安心して。帰ることはできるから。でも、少し時間がかかるかしら。今はどうして自分がこの街にいるのか思い出せないのでしょう? 記憶のすべてを思い出せばきっと帰れるわ。まずはゆっくり心を落ち着けて休むことが肝要よ」
 僕の頭はもうこれ以上こんがらがったら解くほどができないほどこんがらがっていた。もう思考回路はぐちゃぐちゃでショート寸前。
 今の状況を整理したいけれど関係ないことまで浮かんでくる。
 知らない町。洗濯物干しっぱなしだっけ? 悲しいことの理由。虹の色の順番。ここに来る途中で見かけた何屋かわからない看板。帰れない。……。
(知らない人に会ってばかりで緊張しっぱなしなんです)
 もう家に帰って自分の好きな本を読んで、お気に入りの音楽を聴いていたい。何が言いたいのかというと、つまりは僕を一人にさせて欲しいということである。
「そうだ。お腹減ってるんじゃない? ちょうどおいしいパンがあるのよ。つい買いすぎちゃってね。だってね、一つ150円のパンが一袋に5個入って500円なのよ。思わず買ってしまうでしょ? 冷静になると、一人暮らしのおばあちゃんには食べきれない量なの。手伝ってもらえると嬉しいわ」
「……では、いただきます」
 それを口にしたらもう元の世界に戻れないということはないだろうか。
 一抹の不安が頭をよぎるけれど、断ることもできない。よほどのことがない限り、断るということをしない。皆、断ると話が進まないことを知っているからだ。話が進まないから終わることもない。それでは困る。
「そうこなくっちゃ。若い人が遠慮ばかりしていてはダメよね」
 リリィさんがにこやかにキッチンから山盛りのパンを持ってくる。
 パンの山からふかふかのデニッシュ生地にたっぷりシナモンシュガーのかかったパンを選んでかじる。甘いシナモン独特の香りが鼻を抜け、疲れた体に染み渡る。優しい甘さに涙がこぼれそうになる。
「しばらくこの街にいることになると、住む場所が必要になるわね」
 紅茶のおかわりをティーカップに注ぎながら、リリィさんが言った。
 カップを受け取ると湯気とともにいい香りがする。
「……住む場所ですか」
 まさか想像上の街で居を構えることになるとは。
 なんだか本当に帰れるのか心配になってきた。進むべき方向とは反対に突き進んでいる気がしてならない。
 リリィさんは立ち上がって、木目のくっきりと浮かんだ艶やかな古い机の右側の引き出しから一つの鍵を取り出した。
「あいにくだけど、今空いている部屋は此処だけなの」
 いえ。住む場所を貸していただけるだけでありがたいです。
 リリィさんが僕に手渡した鍵には「208」と数字の入ったタグが付いていた。手の中のひんやりとした鍵は妙にしっくりときた。


 アパートは少なくとも築50年は経っていそうな外観であった。外壁はヒビ割れていて、隙間からみるみる雨が染み込んでいく。
 208の名を与えられた部屋はぬかるんだ泥の足跡が無数に残る廊下の奥、一階の角にあった。僕の隣の部屋は605号室で、そのまた隣は311号室。部屋番号に統一性がまるでない。僕の部屋が傷みの激しい朱色の木製扉であるのなら、隣の部屋の扉は細かく傷のついた銀色の扉であった。
 まるで別々のアパートの部屋をつぎはぎにしたようなつくりだ。
 廊下の一番奥、コンクリートの廊下とぬかるんだ庭のギリギリのところ、僕の部屋の扉を開けば触れてしまいそうなところに洗濯機が置かれている。見るからに年代物の薄茶色の洗濯機は、雨が跳ね上げた泥が飛沫となって玉模様を描き、その場に固定するかのように蔦が絡みついていた。
 リリィさんが「あそこにある洗濯機は自由に使っていいから」と言った時には失礼ながら思わず(逆に汚れちゃうんじゃ)と思った。
「それじゃあ何かあったらいつでも私のところに来てちょうだい」
 一通りの説明を終えてリリィさんが帰っていく。僕もずいぶんとくたびれていたので今日はもう休もうと自分の部屋に向かう。
「雨が沁みるわ。いつになったら止むのかしら。ああ。また靴を洗わなくちゃ」
 振り向くとユキさんがアパートの廊下にいて、その小さな傘をたたんでいるところだった。
「雨の日はどんよりしているから心が暗くなると前々から思っていたけれど、お天気雨でも気分が沈むのね。結局、全部雨が悪いんだわ」
 雨に対してぶつくさと言いながら、こちらに向かってくる。
 僕に気がつくと、
「やっぱりこのアパートに来たのね」
 と言った。
 「やっぱり」と言うからにはユキさんは僕が此処に越してくることを予想していたのだろう。
「ユキさんのおかげでなんとかやっていけそうです」
「そう。お互いに早く帰れるといいわね」
 ユキさんは僕と別れた後も歩き続けていたのか、スニーカーは泥だらけで見るからに水分を含んでいた。彼女の歩いた後に残る靴跡はひときわ小さく、その足跡からペタペタという音が聞こえてきそうだった。
 ユキさんは608と名のついた銀色の扉の鍵を開ける。
 僕とユキさんはお隣さんらしかった。
 扉を開け、半分ほど家の中に入ったユキさんが思い出したように顔を出して
「このあと空いてる? ご飯を食べに行きましょう。いいお店があるの」
 とだけ言い残して、僕の返事も待たずに部屋の中へと消えていった。

「奇跡的に虹」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「SF」の人気作品

コメント

コメントを書く