Hide-ous 望むものはなんですか?

下之森茂

2月7日、訪れて

古びたセダンが、山間の高速道路をひた走る。

サイドミラーは車の持ち主の性格が出ており、
塗装はげ、潮風でびたままになっている。

カーラジオから流れる音程のとぼしい流行歌が、
きょうのように聞こえて眠気を誘った。

「組長とドライブ楽しいっす。」

車の持ち主でトサカ頭が、
しゃがれた声で喜んでいる。

助手席に座る人物はなにもしゃべらず、
わずらわしいラジオを切った。

胸元を大きく開いたワイシャツの、
そでをめくり見事に日焼けした細腕を出し、
爪はマニキュアで綺麗に手入れされている。

足元に置いたきり箱を、エナメルで輝く革靴ではさむ。
タイトな黒色のスラックスを履く細身の美人。

もの憂げなその目鼻立ちは洋人形のようで、
金色に染めた髪には蛍光ピンク色を混ぜていて、
車内でも浮世うきよ離れした存在感を発揮はっきする。

浮かれ気分のトサカ頭に、
窓枠に頬杖をつく指にいらだちがあった。

トサカ頭は変わらず能天気で、反応がなければ
今度はちらちらと助手席を見て運転する。

「ずーっとおんなじような景色っすね。
 組長、ヤノハマって、あとどんくらいっすか?」

鬼寅きとら、お前! ちゃんと前見て運転しろ。
 俺の命預けてんだぞ。
 調子に乗ってんじゃねえよ。
 あと組長って呼ぶんじゃねえ。」

助手席の美人が威圧感のある太い声で、
とさか頭の鬼寅きとら叱責しっせきした。

大きく隆起りゅうきした喉仏のどぼとけうなる。
助手席に座る組長と呼ばれた美人。
ワダは男である。

「35で二見の漁協のボスっすよ?
 俺、舎弟っすから組長は組長っす。」

「舎弟でもねえよ。
 お前はパシリだ、パシリ。」

鬼寅きとらはワダの『使いっぱしり』だ。

いまもむかしもこんな職業は存在しないが、
鬼寅きとら筆舌ひつぜつくし難い醜男ぶおとこの無職であった。

浮浪ふろう者同然だった鬼寅きとらは、
ワダが半年ほど面倒を見ている新入りだ。

ワダは彼を自分の家に住まわせ、
一般常識を学ばせている。

顔も悪いが口も悪い、髪型からして頭も悪いが、
ワダが教えればできる器量の持ち主ではあった。

生まれや育ちのせいか性癖せいへき被虐ひぎゃく趣味があり、
性格の矯正きょうせい容易よういで、さほど苦労もなかった。

家では掃除を率先そっせんして行い、機械いじりを好み、
与えた駄賃だちんでこの中古車を買った。

ワダに従順じゅうじゅん鬼寅きとらも今日に限って言えば、
――なつかれるのも問題があるな。
と、思うのであった。

「でも組長すげーってみんな言ってます。
 取材だってあったじゃないっすか。」

「少子高齢化だ。人手不足なんだよ。
 前組合長なんて80過ぎてたぞ。
 おかげで引き継ぎぐちゃぐちゃ。」

「でも、ほかにも候補者いたんじゃないっすか?」

「んなもん家柄で決まんだよ。
 こんなのやりたくてやるわけじゃねえ。
 実家がイヤで二見ふたみまで来たのによぉ。」

「ところで組長の家ってなにやってんですか?」

鬼寅きとらの頭で伝わるもんかぁ。」

ワダは少しいたずらっぽい笑みを見せた。

「そうだな。お前もこの車で入ってるだろ。
 月極つきぎめグループって言って、
 全国の駐車場管理してる元締めだよ。」

「マジっすか! マジっすかぁ…。
 マジどこでも見かけて不思議だと思ってたけど、
 それじゃ組長ん家、超すげーじゃないっすか。」

「お前、マジか…?」

月契約の駐車場の看板など全国どこでも
見かけるが、鬼寅きとらがこんな冗談じょうだんを真に受ける
頭の程度であることにワダは愕然がくぜんとした。

「なんすか、月極げっきょくグループの息子って
 ウソっすか?」

月極つきぎめグループなんて存在しねえよ。
 でもまぁ、実体のなさで言えば近いぜ。
 本家に近い西側だと特にな。」

「へぁー。じゃあアレっすか。
 ヤのつく職業っすか。やべーじゃねえっすか。」

「ちげーよ。
 近いことやってるヤツはいたけど。」

ワダの遠く離れた兄がそれに近い蛮行ばんこうを働き、
気に病んだ姉が引きこもったこともあった。

そんなことを思い出して、
今日の目的をうれいていた。

「んで、これからその実家に行くんすか?」

「実家じゃねえな。兄貴の家だ。
 俺と同じでアザナ字名をいまは大山おおやまに変えてるから
 分家みたいなもんかな。」

「そんな苗字みょうじって簡単に変えられるんすか?
 ますますやべーっすね。」

「そうだよ、やべーんだよ。」

鬼寅きとら語彙ごいとぼしさに苦笑したが、
形容しがたい実情に便乗して同意した。

今日は本家ではないだけマシだと、
ワダは自分を納得させた。

「組長が休み返上で行くような、
 ステキな用事があるんすか?」

「俺が行きたい用事だったらひとりで行くわ。
 お前なんかに運転させず。」

「ひでぇっすよ、そりゃ。」

「俺だって新年だけは否応なしに、
 本家に挨拶に行くんだがなぁ。」

鬼寅きとらが自ら運転を買って出たのは
趣味ではなくこれまでの教育の賜物たまものだが、
今日ばかりは気乗りしない用事であった。

三重みえ県の二見ふたみから南南西へ車で約1時間半。
尾鷲おわせ北で高速を降りてすぐの矢浜やのはまに兄の家がある。

「ヤノハマでしたっけ? なにがあるんすか。
 酒がうまいとか。あっ! その酒飲むんすか?」

「お前は運転するからダメに決まってんだろ。
 しかし、地方自慢の定番だよなぁ。
 酒だの米だの魚だの。」

「ないんすか?」

「そりゃ二見ふたみからすりゃこっちも田舎だしな。」

「くぁー。」

鬼寅きとらがそのトサカ頭に似合う鶏声けいせいを発した。

「んなとこ、なにしに行くんすか?」

「だからお前は来なくていいって言ったろうが。
 それをしつこくなぁ。」

――本当にしつこかった。

置いていくと知れば泣いてすがりつき、
玄関で土下座するので邪魔で踏みつけたが
それを喜ぶとは思いも寄らなかった。

「俺のせいっすか! それ、俺のせいっすか!
 そうっすね…。」

普通ならこの素直なところをめるべきだが、
どうせ調子付くだけなので無視を決める。

――育て方は悪くない。育ち方が悪いんだ。

鬼寅きとらの出来の悪さに、
ワダはそう自分を納得させた。

「少し年の離れた俺の兄貴の家だがな。
 そこに娘がふたりいるんだよ。
 たぶんお前と同じくらいの。」

「おっ! いいじゃないっすか。
 美人っすか? なんなら紹介してくださいよ。」

発情期のサルのような、短絡たんらく的もとい
直結ちょっけつ的思考の若者の会話はとても疲れる。

――ウチの漁協の老人連中に近いもんがあるな。

しかし自分も昔はこうだったのではないかと、
ワダは錯覚さっかくして自制じせい心を働かせる。

「お前は山に埋められたいのか?」

「マジっすか? そんなにっすか?」

「分家でもそんぐらいのデカい山主なんだよ。
 で、そこの長女の美影みかげって子が成人して、
 前に本家の人間と見合いしたんだと。」

「ほぼ身内っすね。」

最初の子は金環きんかん日食にっしょくの日に生まれたので、
大山おおやまは娘に美影みかげと洒落た名前を付けた。

「相手は姉の男孫だんそんっていうからそうなるわな。
 そいつは美馬みまって野郎なんだが、
 顔はいいらしいが悪いうわさえねえ。
 しかも本家の後ろ盾があるんで
 好き放題やりやがる。」

そんなワダも公明正大こうめいせいだいな人間ではない。

「くぁー。そんなやつにも、
 見合い話なんてあるんすねぇ。」

「やんちゃ坊主が嫁でも持てば、
 多少なりとも落ち着くって、
 姉さん連中は考えたんだろ。
 まあ古い考えだな。」

本家で年の離れた姉のヒメとその娘、
美馬みまの母親であるタエの考えなど、
分家のワダには知るよしもない。

「で、娘の見合いに、
 兄貴は家族全員で行ったんだよ。
 向こうは本家だから挨拶しなきゃならん。」

「ヤバいっすね。」

「クソみてえなしがらみばっかだ。
 そこで美馬みまの野郎がよ。
 見合い相手の姉の美影みかげじゃなくて、
 妹の咲良さくらに手を出しやがった。」

「ひっでぇ!」

「だろう?」

かわいた笑いを浮かべた。

「相手は本家。
 分家の兄貴が強く出られるはずもない。
 一応食い下がってはみたらしいんだが、
 結局、美影みかげの見合いはダメになってな。
 妹の咲良さくら咲良さくらで陽気なもんだから、
 本家への輿入こしいれを喜んでやがる。
 しかももうすでに妊娠したんだと。」

「うげぇ。アネキはメンツぐちゃぐちゃっすね。」

「そうだよ。それでショック受けてな。
 美影みかげの方が引きこもっちまったんだと。」

「あれ…えっ! ちょっと待ってください。
 ちょっと待ってくださいって。
 んじゃひょっとして…。
 そんな辛気しんきくせえ家に行くんすか?
 これから?」

「おう、そうだ。」

ワダは眉間にシワを寄せ、深くうなずく。
――鬼寅きとらも察しの悪いやつだ。

「お前、俺のアシをしつこく買って出ておいて、
 まだ関係ねぇと思ってるだろ。」

「オレ、車で待ってようかなぁと。」

「車と一緒に海に沈めるぞ。
 お前は俺ら兄弟の、酒のさかなになるんだよ。」

笑っては見せたがワダも気が沈んでいる。

分家となってから起業した兄弟同士、
部下の数や能力で自慢をし合う仲だったので、
今回の呼び出しは、互いに参っていた。

「んで、組長はどうすんすか?」

「たまには挨拶に来いと執拗しつようわれたが、
 それ以上、どうとも言われてねえしなぁ。
 そもそもよぉ。35のおっさんがだ。
 20の姪っ子相手になにができんだって話だ。」

「いやでもオレが女なら嫉妬しっとしますよ。組長に。」

「んな気持ちの悪い仮定の話で、
 お前に嫉妬しっとされてもなぁ。」

言われた鬼寅きとらが肩をらしてケラケラと笑う。

「どうせまた、家族のつまんねぇ愚痴ぐち
 付き合わされるだけだろ。」

――だけではなかった。

「なんで俺が引きこもりの説得せにゃならん。
 美影みかげは兄貴の娘で、俺は部外者だぞ。」

ワダは鬼寅きとらと共に兄である大山おおやまの家で、
ハナジャコヒメジという赤い小魚の干物を
かじっていたら無理な頼みをされた。

「そりゃお前にしか頼めんからだ。
 嫁も咲良さくらっとけと言うんだ。」

大山おおやまはワダとは真逆の大男で、
口の周りにヒゲを繁茂はんもさせた
山賊さんぞくのような風体であった。

「ふたりの言う通り、
 っといたらいいじゃねぇか。」

「そのおふたりは?」

もしない周囲を見渡し、鬼寅きとらがたずねる。

「嫁入りだって喜んで、名古屋なごやまで買い物。」

「だからふたりがいない今日に呼んだのかよ。
 ちゃんと家族会議しろよなぁ。
 そもそも引きこもりなんて、
 俺らの姉貴もやってたろ。」

「ヒメ姉さんくらい本家の偉い立場ならともかく、
 こっちは分家で美影みかげはもうハタチだぞ。
 ここでつまづいたまま、
 転落人生ってのもなぁ。」

「転落人生って決めつけるのも
 いかがかと思うぜ。」

「しかし久々に組長見たら
 男前過ぎてびっくりしやしませんか?
 娘さん。」

鬼寅きとらが車内での会話を、
今度は大山おおやまにたずねた。

「んなこと、するわけない。
 こいつとウチの娘は、
 子供んときから知ってんだ。」

「最後に会ったの、10年前くらいだぜ。
 覚えてねえって。」

「お前、新聞にも載ってたろ。
 見たぜ。イケメン組合長だって。」

「取材されてましたもんね。組長。」

鬼寅きとらのニヤつく顔に腹が立ち、
軽く頭を小突いた。

「いまどき地方紙なんて、
 誰も読まねえと思ったら。いたわ。」

「いいから頼むぜ。ダメ元だが。
 説得できたら今度なんかおごるから。」

「そんな期待、してねえよ。」

深々と頭を下げて頼む大山おおやまの姿に、
ワダは重い腰を上げて、2階へと上る。

大山おおやまは家族を作ってすっかり丸くなった。

しかし階段にある可愛い姪っ子の家族写真は、
数年前から止まっている。

娘には反抗はんこう期というのもあるのだろう、
とは余計な心配だ。この引きこもりこそが、
娘の遅い反抗はんこう期かもしれない。

ここへ来る前の最悪の予想が見事に当たって、
大きなため息をついた。

美影みかげちゃん、いるかい?」

ワダは彼女の部屋の前に立つ。

15もトシの離れた娘を相手に、
どのように接すればよいものか、
扉をノックするまで考えてはいなかった。
それからなるべく穏やかな口調を心がける。

二見ふたみに住んでる叔父のワダだ。
 昔会ったことあると思うが、
 まあ覚えてないだろうな…。
 兄貴、君のオヤジに話を聞いたよ。」

二見ふたみのおいちゃん…?」

まさか返事があるとは思わず、
1階に戻ってハナジャコを食べようと
背を向けた瞬間だった。

おいちゃんとは懐かしい響きだが、
これが成人女性から発せられたと思うと
心地ここち悪さに鳥肌とりはだが立った。

「ははは…。いま話はできるか?」

「入っていいよ…。」

扉の向こうで相手が顔を確認できないのを
いいことに、ワダは黙って渋い顔を見せた。

――入りたくねぇ…。

引きこもりの部屋など、
溜め込んだ老廃ろうはい物の溜まり場に決まってる。
身の毛がよだつ思いで扉を開けた。

「失礼するよ。」

ワダが想像したものとは違い、
大きなゴミ袋も、変色したペットボトルもない。

風呂に入らず、トイレにも行かないような、
そんなワダの想像の中にある儀礼的フォーマル
引きこもりではなく安堵あんどした。

扉に鍵さえ掛けないあたり、
美影みかげ品行方正ひんこうほうせいな引きこもりだと言える。

しかし女性の部屋と呼ぶにも殺風景だった。

――樟脳しょうのうくせぇ。

タンスの防虫剤の臭いが鼻につく。

ベッドの隅に寝間着姿をした黒髪の女が座り、
大きなクマのぬいぐるみを抱いている。
これが引きこもりの正装だろうか。

東京とうきょう千葉ちば浦安うらやすに行ったはるか昔――、
ワダが姉妹ふたりに買い与えたものだった。

美影みかげは色あせた能面のうめんのような顔でワダを見つめる。
目元が兄の骨格に似ているのか、色気はない。
それに濃い眉毛に薄い表情。

――子供の頃から変わってないな。

それが久しぶりに再会した姪への第一印象。
明るい妹に比べ、姉の美影みかげは表情に乏しい。

美馬みまに選ばれなかった理由もなんとなくわかる。
それとも美馬みまのせいで表情が陰っているだけか。

「久しぶりだねぇ――。」

「大きくなった。」と付け加えようとも考えたが、
「父親に似て。」と勘ぐられても困るので省略。
本人が好きで似せているわけでもない。

それに自室に籠もっていれば化粧の必要はない。
進学校育ちで化粧を必要としなかったのか。

いままで外見に劣等れっとう感を抱かなかったのなら、
彼女は環境に恵まれているのかもしれない。

しかし、美影みかげの心が傷つくほどに、
悪意を持つ美馬みまや世間はそれほど優しくはない。

「お久しぶりです…。
 あの、パパがなにか言ってましたか。」

「…心配してたよ。」

あのクマかイノシシのような顔の父親を、
娘がパパと呼ぶので笑いをこらえた。

「おいちゃんにまで…。
 パパは世間体しか考えてないんです。
 私はみにくく、サクに嫉妬しっとしてる。
 だから私はこうして岩になるの…。」

「岩ねぇ。
 …じゃあ兄貴を困らせるために、
 ずっと岩になってるのか?
 美影みかげちゃんも兄貴を介護するころまで、
 岩でいるわけじゃないだろう。」

「おいちゃんなんて恵まれてるんだから、
 私の気持ちなんてわかんないでしょ!」

他所の家の事情など知ったことではないが、
癇癪かんしゃくを起こす幼稚な相手と同じく感情的になり、
会話をこじれさせるつもりもワダにはない。

「まぁ自慢じゃないが、それはよく言われるね。
 ひとはうらやましいと言ってくれるが、
 俺だってそれを皮肉ひにくに感じることもあるぜ。」

ワダを招き入れた美影みかげだが、
しばらく会話をする気がなさそうなので
よくある愚痴ぐちをこぼしてみせた。

「遊んでそうに見える俺でも、
 見えないとこで努力してるんだぞ。
 食事制限は当然、毎週ジムに通ってるし、
 海の上だと皮膚ひふがボロボロになるから、
 日焼け止めを絶対に欠かさない。
 髪なんて紫外線と潮風で傷むから大変だ。
 爪だって手入れしてんだぜ。ほれ。」

両手の甲を向けて爪をよく見せると、
ぬいぐるみから顔を突き出して細い目を見開いた。

日焼けして肉のついた太い指だが、
手にはクリームを欠かさず塗っている。
仕事で使う自慢じまんの手だ。

「俺だって美影みかげちゃんを、
 まだ若くてうらやましいとは思うぜ。
 これも嫉妬しっとと呼べるかもな。
 バカな美馬みまのおかげで本家とはえんが切れた。
 成人した娘の引きこもりを許容きょようするくらいに、
 理解ある両親に恵まれてるのもいいな。
 酒の席に無理やり付き合わされることもない。
 俺なんて漁協の組合長になって大変だぜ。」

そう言うと、会話をしてくれる気になったのか
美影みかげが口を開いた。

「新聞見たよ。
 おいちゃんは自由でうらやましいって、
 パパがよく言ってた…。」

「自由ぅ~?
 俺なんて兄貴から呼び出されただけで、
 こうして犬のようにけつけなくちゃいけない。
 いまは会社もあるし、しがらみだらけの人間だ。
 それなら美影みかげちゃんのが何倍も自由だろう。」

「じゃあ私でも、おいちゃんと結婚できますか?」

「はぁ? いや、待て待て。
 じゃあじゃないでしょ。じゃあ、じゃ。
 こんなおっさんをからかうんじゃないよ。」

軽く咳払せきばらいをして、気を取り直す。
美影みかげは顔半分をぬいぐるみに埋めて、
和田の反応を面白そうに眺めている。

美馬みまのバカほどじゃないが――。
 俺も若い頃はそこそこ遊んでた。
 結局、女と付き合うのもしがらみに感じて
 いまはこうして独身を満喫まんきつしてるわけだ。」

和田は部屋の椅子いす
勝手に腰掛けて、口弁こうべんする。

鬼寅きとらも一応カウントすべきか一瞬迷ったが、
存在感は無いに等しいのですぐに無視した。

「それに美影みかげちゃんは結婚願望がんぼうないでしょ。」

「えっ。」

「だってそうだろ?
 縁談えんだんがあるまで、けてただろ。
 けてないにしろ自分から出会いを求めもせず、
 誰かがなにかして来るのを待ってたわけだ。」

否定をしかけたが、美影みかげはまた
ぬいぐるみの頭に口づけをして沈黙ちんもくした。

「そりゃ兄貴たちは色々と経験してるから、
 あれやこれやとアドバイスしたくなる。
 親心おやごころとか老婆心ろうばしんとか、いらん節介せっかいだな。
 結婚すればきっと得られるものもあるだろう。
 美影みかげちゃん自身は、家族と過ごしてきた
 これまでを否定したいわけでもないだろ。」

目線を下げたままだが、うなずいてはくれる。

「でなきゃ婿養子むこようしでも捕まえるか、
 一生実家暮らしでもするなら別だが、
 成人すればいずれは家を離れる。
 一時いちじ孤独こどくや不安で家族を困らせるのは…。」

――甘え。…とは、昔の言い方か。

和田がそう考えて頭をひねったところで、
美影みかげが顔を上げた。

「甘え、てるかな…。」

「いや、甘えて困らせるのはいいと思うぞ。
 どうせ兄貴は甘えであっても喜ぶだろ。」

言ってから、ひとついい案が浮かんだ。

「いっそひとり暮らしでもしたらどうだ。」

「へっ? ひとり暮らし?」

えんを切れって言ってるわけじゃないが。
 遅かれ早かれするつもりだろ?
 兄貴は過保護なくせに、甘いんだから
 甘えられるウチは甘えちまえ。」

椅子いすから立ち上がりドアノブに手をかけた。

「なんなら俺も口添くちぞえするぜ。」

「ホント?」

「まあ、俺が言って説得できるとは思わんが。」

目を輝かせる美影みかげに、
兄に対する罪悪感が芽生めばえて
予防線よぼうせんを張っておいた。

「でぇっ!」

扉を開けた途端、汚い悲鳴と綺麗な衝突しょうとつ音が響く。
どうやら盗み聞きをしていた鬼寅きとらが、
扉にぶつかり壁に頭を打ったらしい。

廊下には大山おおやままでいた。

鬼寅きとら、なにやってんだ、お前。」

胸ぐらをつかんで細腕で持ち上げる。
細身の和田でもその程度の力は持ち合わせる。

「いやぁ、組長が遅いんで旦那とね、
 ふたりがしっぽりやってんじゃねえかって
 話したら俺ひっでー怒られて、
 言われて偵察ていさつしてたんすよ。」

「クズかよ。兄貴もさぁ。」

「いや、スマン。で、どうだった?」

父親ちちおやなら自分で話せ!」

ふたりのデリカシーのなさに、
和田は鬼寅きとら股間こかんひざ蹴りを浴びせる。

痛がりつつうれしそうに廊下に倒れたので、
邪魔にならないように頭を踏みつけた。

廊下にはぬいぐるみを抱いたままの、
美影みかげが姿を見せる。

「パパ…。」

「ミカちゃん…。」

――あれ? ミカって呼んでんの…?

兄の親バカっぷりを目の前で見せられ唖然あぜんとする。

「ワガママ言ってごめんなさい。
 ママとサクちゃんにもあとで謝るね。」

「いや、ミカちゃんがつらかったのに
 助けになれなくて、パパは情けないな…。」

ミカちゃん――もとい、美影みかげがワダを見る。

「それで、パパ。
 私ね、ひとり暮らししてみたいの。」

「そうか…。いや、聞いてたが…。」

「おいちゃん…。」

美影みかげに提案した責任もあるので、
巻き添えついでに一応ひとこと告げておく。

「兄貴もいい加減、子離れしとかないと。
 今度はもっとこじらせるぜ。」

――引きこもりの反抗はんこう期か、親バカか、両方か…。

「ひとり暮らしの話はあとでママと…、
 待て、こいつの家はパパ、ダメだぞ。」

「それは俺も断っておく。」

「あはははは。
 組長と娘さんは釣り合わないでしょ。
 俺もいるんで、心配無用しんぱいむようっすよ、ご主人。」

まれたままの鬼寅きとらが放った言葉は最悪だった。

笑われた美影みかげは部屋に戻ってしまい、
再度説得を要する事となった。

鬼寅きとらはもう一度り上げられた。

今度は兄の大山おおやまが、鬼寅きとらのトサカ頭を
天井にぶつけて潰すほど高く上げた。

「なぁ、鬼寅きとらくん、だっけ?
 海と山どっちが好き?」

「え…。怖…。」

「山でじっくり菌類に分解されるのと、
 魚と一緒に海で泳ぐの。
 どっちがいいかって話だよ。」

「う…どっちも…いやです。」

質問の意味が理解できたようで、
鬼寅きとらの顔がみるみるうちに青ざめる。

大山おおやまはいまにも鬼寅きとらの首を
ねじ切りそうな勢いで鼻息を荒くしている。

こじれさせた親バカっぷりが、
荒れていた昔の彼を思い起こさせて
ワダはそれを懐かしむ。

鬼寅きとらのバカっぷりも遺憾いかんなく発揮はっきされた。
くちわざわいのもとである。

鬼寅きとらぁ…。本来ならお前の始末は
 俺がつけるべきなんだが…。ところでだ、
 お前は他人の結婚にとやかく言えた立ち場か?
 それともそういう仕事にでもきたいのか?」

「いえ…。その――。」

「んーじゃあ結婚する気は?
 あぁ、中古で車も買ったし、
 一緒にドライブする相手も欲しいもんな。
 俺の駄賃だちんじゃ足りないよなぁ。」

「いえ…じゅ、充分…いただいて…ます。」

「お前のその口は、
 海底の砂でもすくうために付いてんのか?
 そのトリ頭使って考えてみろ。
 陸生りくせい動物なのか? 水生すいせいなのか?」

「す、ずんばぜん…。」

息苦しさと羞恥しゅうち心で顔は真っ赤に染まり、
涙とよだれと鼻水が混ざって大山おおやまの手に落ちた。

鬼寅きとらを床に落としたところで、
大山おおやまがこらえきれずに笑いはじめた。

「どした? 兄貴。」

「ぐぁははっ…。
 いや、だってこいつの顔、おかしいだろ。」

ゆでダコかサルだかわからない鬼寅きとらの顔。

「いまさらかよ。
 このアホを顔でひろったわけじゃねえが、
 笑って許せるなら許してやってくれよ。」

「おし。笑おう。」

生まれつきの顔を笑ってやるのはこくである。
しかし、埋める沈める『本家流』よりはマシだ。

大山おおやまは言って鬼寅きとらの首根っこをつかんで引きずり、
美影みかげの部屋に乗り込んだ。

鬼寅きとらの顔を笑う大山おおやまの笑い声は廊下まで響く。

美影みかげは部屋の鍵を閉めて拒絶きょぜつするのでもない。
怒ってふたりを追い出さないところを見る限り、
問題はなさそうだ。

和田は階段を降りて、
遅くなったが彼女の成人祝いに用意した
きり箱の酒を取りに戻った。

――――――――――――――――――――

本作はフィクションであり、
実在の人物・地域・団体などとは
一切関係がありません。

参考元:
山の神講(オコゼ):尾鷲市(三重の伝統行事-東紀州地区)
https://www.youtube.com/watch?v=zJfpr8ag2V0

三重県観光連盟公式サイト「観光三重」
https://www.kankomie.or.jp/event/detail_39567.html

一日一魚 ヒメジ(ハナジャコ)
https://www.city.owase.lg.jp/public/ichigyo/kyounosakana/140419.htm


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