ちえのこと

ノベルバユーザー573955

ちえのこと

   それは思いもつかないように
     不意にドアから入ってきた

       心をうたれた
      嬉しいはずなのに
     まだ手にとったような気がしない

      こわごわと抱いたとき
  心のうごきにおどろく

       それは時のなかに埋もれ
         遠く遠くさそう
    とまどったときの天使

      とにかく今はもう虜になった

     どこにも行かないで
       そばでずっと笑っていて
    花が土を必要とするように
      私もあなたが必要だから

            りりィ「ダルシマ」より


 ちえと初めて会ったのは、まだ春も浅い、ようやく日差しに頼もしさを感じ始めた雛祭りの頃だった。浮かれ出た虫のように僕は、二年弱過ごした会社の独身寮を後にする。2階建ての木造モルタルアパート、開け放した玄関の扉の陰から小さな目と耳がこっそり覗いているのが見えた。

 一人で暮らすことに不安はなかった。ゆるゆると溢れる泉に足を浸すかのように、僕はずいぶんと裸足の気分だったのだ。
 逃げ出してきた寮生活、そう、今となってみれば異星人の棲み処としか思えないが、一見、きれいで何の変哲もないコンクリート5階建ての監獄。畳敷きの六畳の部屋に、ひとまわり年上になる本社の先輩と一緒に寝起きしていた。新入社員は皆同じ境遇だったのだから会社の方針なのだろう。優秀な先輩から多くを学べということだ。部屋の真ん中をカーテンで仕切る事は出来るが、それをするのはあまり歓迎されない。先輩の話を聞き、行動を見習い、自分をさらけ出して、意見してもらう、それも仕事のうちということだ。

 ただ、僕はふた月もしないうちにその暗黙の了解を無視し始めた。

 同居人は、夜遅く、大抵は酒の匂いをさせながら無言で帰ってくる。ネクタイを緩め、膨らんだかばんを放り出すと、スーツ姿のまま万年床に横になり、なにやらブツブツ言いながら寝てしまう。そうして夜も明けきらない暗闇の中でガバと起き上がり、桶の響きも寂しい共同の風呂場に一人向かうのだ。たぶんそれから、食堂で冷たくなった夕食を摂るのだろうけど、よくは知らない。僕が目を覚ます頃にはきちんと出社しているのだから、おそらく優秀な人なのだろう。
 いや、別に嫌いというわけじゃなかった。休みの日には話もしたし、彼の巨大な銀色のラジガセと、壁に沿ってキチンと積み上げられたカセットテープの山には興味があった。ある日、それとなく聞いてみると、彼は真顔になって言ったものだ。
「軍歌に、演歌に、グループサウンズ、覚えておくと便利です、カラオケで場も盛り上がるし上司の受けがいいんですよ」
 彼は自分を卑下することはけっしてなかったが、多少自嘲気味に口元が歪んでいたような気がする。
 僕は、むしろ感心したし、尊敬の念も持った。とても真面目で正直な人だと思う。そこには、紛れもなく誠実さがあり、僕が覚悟を決めて入り込んだはずの社会と社会人が、学ぶべき良き見本としてそこにあるのだ。成る程そうか、と僕は思った。世の中、そう簡単に若造の嘘を受け入れてくれるわけではない。彼とあのばかばかしいほど立派なダブルカセット。たぶん、聴かせてくれとこちらから頼んでみるべきだったのだろう。
 鷹揚に新人の出方を待つ寛容さに、僕は苛立つと同時に恐怖を感じてしまった。

 だから僕はカーテンを閉めた。

 3畳分の空間に作り付けの机とクローゼット。これが僕の生活の場となった。中庭に沿った1階にあったものだから、時々門限で詰めだされた同僚たちの通り道にはなったものの、そこそこ快適に暮らしていた。朝と夜の食事付き、明るいうちから広くて熱い風呂には入れるし、何より家賃が格安だった。夏のボーナスはあっという間に消えていったが、冬には無理してステレオを買った。デノンのアンプとプレーヤー、ヤマハのモニタースピーカー。予算との兼ね合いでいろいろ迷った結果だったけど、目の覚めるようないい音がする。最初に聴いたのはストーンズの新譜「TATOO YOU」。同居人がいなかったのでけっこうなボリュームで聴いた。レコードに針をおとした瞬間、部屋の空気が変わる。最初のギターのリフでこの数か月間の緊張が一気にほぐれていく。愚図ついていた血液がゆらりと溶けて熱く流れ出すのがわかった。忘れていた感覚が甦る。今ならこの冷たい壁や、頭上に続く何層もの独房の圧力を押し返し、自由に外気を感じることができる。
 境界線のカーテンをいっきに引き開けた。そして、例のメタリックなラジカセとあらためて対峙する。主のいない部屋でそいつは傲然と肩を怒らせ、冷たい怒りを発散させて睨んでくる。
 まあね、僕は自分の大袈裟な振る舞いがばかばかしくて笑いたかったのだが、上手く笑えなかったのが実際のところだ。

 しかし相変わらず僕には行き場がない。

 一年もすれば仕事にも慣れてくる。話しかけられると反射的に笑顔をつくれた。できるだけ淡々と仕事をこなし、昼休みは屋上で過ごす。殺風景なそこには夜勤者のための簡易ベッド用シーツが干してある。街の郊外にある地上四階地下一階の真新しいビルが僕の職場だ。足元から地鳴りのように響いてくる機械音を聴きながら青い空と、洗い立ての白いシーツが排気口の前でゆっくりと煽られるのを眺める。眼下の住宅地の隙間に残った小さな畑では幼稚園児たちが芋ほりをしている。風に乗ってそのブリキ缶にガラスのかけらを放り込んだような歓声が舞いあがってきた。
 僕が職場でどのような評価をされているのか、なんとなくわかっていたと思う。だからといってどうしたらよかったんだろう。僕はもっと最悪のことだって予想していたし、首や肩にどうしても抜けない緊張が貼りついていた。なぜなら、今すぐにでもあの園児たちの目の前にダイブする誘惑を持て余していたからだ。

 寮を出るきっかけはふいにやってきた。ある日僕は、その頃よく通った古いビルの一角にあるショットバーにいた。レトロなロックに半円形のカウンター、二つの小さなテーブルの他にはぎらぎらした悪趣味なポップコーンの自動販売機がある。出来立ての熱いポップコーンと安物のバーボン。何時ものようにカウンターの端っこに頬づえをついてぼんやりしていると、突然声が聞こえた。
「○○   !」
 いきなりフルネームで名前を呼ばれて面食らった僕は思わず天を見上げたものだ。当然そこには煤けたコンクリートの梁しかない。
 キョロキョロしているとカウンターの向かいに3人の男がいるのが見えた。どうやらその中の一人が僕を呼んだらしい。タバコのけむり越しによく見ると例の同居人がいつになくご機嫌な様子でこちらを指さしている。他の二人も同僚らしく、似たようなスーツに弛んだネクタイ、みんな熱っぽく頬を染めて僕を見て笑っている。膿んだ眼をしていた。何がおかしいのかまったく判らないまま、どうしても相手から目を逸らせなかった。

 そしてというか、だからなのか、僕はうまく説明できないまま寮を出ようと思った。

 引っ越しは簡単だった。費用は職場の先輩から借りた。不動産屋に条件を言うと、心得顔で住宅街の路地の突き当り、もと小さな電気設備会社の寮だったという、いかにも壁の薄そうなアパートに案内された。小ぎれいに改装されているとはいえ変な造りだった。上下3部屋づつ、僕の部屋は1階の真ん中で、玄関を入ると左手にキッチン、右手がトイレ兼風呂場だったが、驚いたことに和式の便器が据えてある。湯船に浸かると目の高さにスフィンクスが座っている。二畳ほどのフロアの向こうは押入れを挟んで畳敷きの六畳間、思いっきり西日を浴びて部屋全体がオレンジ色に染まっていた。
 そう、引っ越しは簡単だった。これも先輩から借りた丸い目玉のランサーに本とレコードを詰めた段ボールが一つ、衣服のバッグが一つ、薄い布団が一組、あとはステレオと弦が一本切れたギター、これだけ積んでさようならだ。一応、数人に挨拶はしたけど見送る奴なんかいない。白っぽく塗装の痛んだ暗緑色のランサーは、それでも優しくのどを鳴らして機嫌がいい。

 その日に僕はちえに会ったのだ。

 荷物と風を入れるために開け放ったドアの陰から子猫が覗いていた。見ていると縺れるようにしてあと二匹の手足が現れる。三匹とも父親が違うのかと思うほど個性的だ。真っ黒で鼻筋と足先だけ白い、まるい大きな黒い目をしたやんちゃな仔。まっすぐに見つめてくる灰色の目とピンと伸びた尾、鮮やかな筋目のキジ猫はしたたかそうだ。
 そして、ひと回り小さく、耳と片足、背中の一部と長いしっぽが黒、それ以外はだらしなく白い、最初に覗いていた痩せた女の仔。
 少し離れて、雑草だらけの駐車場に茶トラの母猫らしいのが無関心を装って様子を見ている。子猫たちは生まれてひと月くらいだったろうか、まだ足取りも覚束ないが、世界の大きさと険悪さに対してまったく無頓着だった。いや、僕がちえと名付けたちび助は違っていたのかもしれない。

 名前の由来は単純だ。漫画の「じゃりン子チエ」のチエ。チエが父親のテツを疑いの眼差しで斜めに見上げる眼つき。そうやってちえは人をみる。他の二匹が平気で屈んだ僕の手指の匂いを嗅ぎに来るのに、彼女だけドアの陰に半分身を隠したまま、僕と兄弟たちのよく動くしっぽを交互に眺めている。何か食料らしき物は無かったかと思案している内に母親の声がして、子猫たちはころころと帰っていった。外に出てみると、母猫が一匹づつ咥えて駐車場の向こうへ、塀を乗り越え消えて行くところだった。
 隣は大家の家で小さな庭がある。ほどよく荒れた感じの、猫には棲みやすそうな所だ。

 後で大家の奥さんから聞いた話では、別に飼い猫ではないらしい。裏庭の物置の床下で勝手に産んだとのこと。猫は嫌いじゃないらしく放っているのだが、「誰かもらってくれないかしら?」などと呑気そうにしている。僕にそんな甲斐性は無い。第一、あんたのアパートはペット禁止だろう?「まあなんとかなるでしょうよ」奥さんはそう言って塀越しにアパートの方を見た。「部屋は片付いた?」
 片付ける程のものは何も持っていない。

 猫の親子はそれから度々遊びに来るようになった。でこぼこだが辛うじて平坦な駐車場に面しているのは僕の部屋だけだ。6台は余裕で止められそうな広さなのにほとんど車はいない。草だらけの荒れたその場所が気に入ったのか、陽だまりの中よくじゃれあっているのを見かけた。玄関を出入りするたびによく顔を会わせるものだから自然と仲良くなる。子猫たちは、僕の手からソーセージやらサンドウィッチのかけらを奪い合うようになった。といっても争っているのはクロとキジの男の仔たちだけで、ちえは兄弟たちのおこぼれに恐る恐る手を伸ばすだけだ。こっそり別にまた与えても、もたもたと周りを気にしている内に、さっさと自分の分を食べ終わった兄貴に持っていかれてしまう。
 それでもちえは怒りもせず、満足げに自分の手を舐めたりしている。
 母猫はというと相変わらず僕にはそっけない。優美な長い胴体、ノラにしては美しい。きれいな毛並みを日に輝かせて塀の上から冷ややかに見下ろしてくる。品定めされているみたいで落ち着かなかった。彼女からしたら子供を託すにはいささか心もとない存在なのだ僕は。
 まあ、こちらとしても、誰の面倒も見る気はない。ただ、初めて親しくなった隣人として礼儀正しく接したいだけだ。夜勤明けの朝、彼らがいると一緒に自意識を置き忘れた様な午前を過ごす。僕は玄関のポーチに腰掛けパンをかじる。彼らは思い思いの空想の中で遊んでいる。そうしていると薄汚れていた朝が次第に透明な水のように輝きだすのだ。母猫は憐れむように慈しむように僕をみている。

 だが、暫くすると二匹の子猫と母猫はいなくなった。ちえだけが残った。その痩せて小さな体は、伸びてきた雑草に埋もれてしまう。大家の奥さんの話では、中学生の娘が写真付きで駅の伝言板に広告を出したところ、すぐに貰い手があったとのこと。ただし、二匹のかわいい男の仔だけ。「もう一人の仔もできるだけ器量よしさんに写真撮ったんだけどねぇ、女の仔だしねぇ・・・」母猫はもう次の恋のお相手を見つけにどこかへ姿を消しちゃった、と大家の奥さんは笑う。

 ちえはつまらなそうに、ちょっかいを出してくる草の葉と遊んでいる。

 ちえは僕の生活に少しずつ入ってきた。ドアを開けると長いしっぽが草むらの中にピンと立っている。恐る恐るだが僕の手から直接食べ物をもらうようになった。相変わらずひねくれた三白眼で斜めに見上げてくる。だけど、その瞳から警戒心が徐々に抜けて行くのがわかった。抜かりなく周囲を窺う様子はあるものの、僕の動作にいちいち関心を示す。
「お前の名前はちえだからな」
 彼女は桜色の耳の内側を二つともこちらに向けて、しっかりと聞いている。

 僕の部屋もずいぶん部屋らしくなってきた。
 パイプベッドと百ワットの電気スタンド、小さな冷蔵庫に、最小限の炊事道具も手に入れた。スピーカーの下にはブロックが置かれ、壁にはアフリカの画家『ムパタ』のポスターが貼ってある。西日が強烈な窓にはベージュのカーテンを掛けたが、日が差すとまるで枯れ木の中で生活している気分になる。いつかこのなかでさなぎになって、何者かに生まれ変わることができるのだろうか?

 ちえは僕に飼われていたわけではない。基本的にはノラなのだ。ほとんどの時間を外で過ごしている。部屋の中に入ってくるまでずいぶん気長に僕は待った。食事にはそれほど不自由していないらしい。缶詰を与えても半分ほどしか食べない。隣の大家もそれとなく面倒をみているのかもしれないが、ちえは狩りがうまい。むしろ、貧相なこちらの食事に同情してか時々食べ物を運んでくれる。最初は、バッタやコオロギだったが、やがて、蝉や蜻蛉になり、トカゲやネズミ、小鳥になった。誕生日でもないのにヒヨドリや鳩をプレゼントされたこともある。
 台所のシンクの横に小さな窓がある。高い位置にあって換気扇替わりなのだろうが、そこが出入りする場所になった。いつも開けてあるその窓にちえは難なく駆け上がる。
 玄関のドアが開いていようが、居間の窓が全開だろうが、ちえは必ずそこから現れる。

 とても意外だったことがある。彼女は美しく成長したのだ。夏の日差しがぎらつく頃まではまだ子猫だった。焼かれて痩せた夏草の陰を駆け抜ける姿は綿埃のように頼りなく、けば立った草の実に似たしっぽを不器用に振り回していた。だけど、見え隠れする鮮やかな白はキラキラと眩しく光を反射して、水底に沈みがちな僕をはっと目覚めさせる。
 それが変貌の兆しだったのだろう。
 ある秋の夕暮れ、仕事を終えて帰ってくると塀の上にいるちえと目が合った。猫はまともに目を合わすのを嫌うというが、その時ちえは真っすぐに僕を見てきた。しだいに色を失っていく空と暗い煉瓦色に染まる隣家の屋根や木々を背景に、彼女はなお艶やかにそこで際立っていた。夕闇の中でも浮き上がる伸びやかな姿はしっとり濡れた雪に似ている。ほぼ身体の半分を占める長い漆黒の尾を、まるで闇を招くかのように優雅にくねらせている。だけど、何よりもその瞳孔の開いたアーモンド型の眼が印象的だった。薄れてゆく光を集めて輝くふたつぶのトパーズ。
 ゆったりと伏せたその身体はほっそりして重力を感じさせない。それでも、その内側から押し返してくるしたたかさは強靭で柔軟だ。
 ちえはふと目を逸らし大きな欠伸をする。弓のように反り返って伸びをした。見とれていた僕も我に返り、なんとなく照れてドアを開ける。キッチンを通りそのまま奥の部屋へ向った。

 壁を駆け上がる音がする。
 ふり返ると、小さな窓枠にちえが座り、グルとのどを鳴らした。

 ちえの気まぐれな訪問は僕の楽しみの一つになった。大抵は僕のいる時に訪ねてくるのだが、不在時にも時々来ているらしい。ベッドの上に雀の頭が転がっていたり、開いた本の上に蝶の羽が散乱していたり、壁にピンでとめた絵葉書の悲鳴が聞こえてきそうなほど見事に破れていたり。ちえなりのメッセージだと思うことにする。
 音楽の趣味は結構うるさい。ロックよりジャズがお好みだ。セロニアス・モンクがお気に入り。耳をピクピク、尻尾で笑いながら、つんとすましている。マイルスには退屈するし、チック・コリアじゃ落ち着かない。わざとヘヴィなやつを聴かせると、呆れた顔をして眉をしかめる。目の端でこちらを睨んできた。
『何これ、気持ちよくない』
知らんぷりしていると早々に退散する。
 ちえは僕と同じものを食べたがる。猫缶やらキャットフードはあまり喜ばない。自然、食事を分け合うようになったが、少ししか食べない。遠慮がちな上目遣い。のみが大発生したり、たぶん猫臭くなったり、これはちえの所為にするのも気が引けるが部屋が片付かなかったりとか、いろいろ面倒はある。
 ちえは人間が嫌いだ。玄関に人の足音がしただけで一瞬にしていなくなる。新聞の勧誘に来た疲れたおじさんが充血した目を丸くして苦笑いする。郵便配達には慣れたものの、立ち去るまでけっして緊張を解かない。ある事情のためグリコ・森永事件の犯人グループの一人として疑われ、空き巣捜査の一環と称した刑事が訪ねてきた時も、ちえは弾丸のように飛び出していった。小窓から消えて行った何者かに怯みながらも、抜かりなく中を覗き込んで刑事は言う。
「最近この辺り被害が多くてですね・・・」
「・・・さあ、うちは今んとこべつに」
笑顔で答える僕はちえよりずっと愛想がいい。

 ただ、一つだけ困ったことがあった。ちえもまた子供を産むのだ。小柄で目立った変化もないものだからまったく気が付かず、不意をつかれてしまった。ある日、例によって小窓から入ってきたちえだが、リノリウムの床に飛び降りる音がいつになく重たい。珍しく落ち着かない様子で部屋のあちこちを嗅ぎまわっている。目で追う僕をちらりと見やり、やがてベッドの下に潜り込んだ。なんとなく不穏な空気に布団の上に座りなおす。と、ちえの荒い息使いが聞こえてきた。慌てて下を覗き込んだ時には、すでに一匹目がこの世に押し出されていた。白っぽい半透明の膜をちえは丁寧に舐めとっていく。目をきつく閉じたそれは声にならないこえを上げ、しきりに身をよじらせている。唖然とするほど弱々しく、震えるほどに痛々しい。この部屋が、この街が、この世界の何かが寄ってたかってその小さな指をひりつかせている。まだあるかないかの爪を伸ばして、温かいもの柔らかいもの信じられるものを欲しがっている。
 薄暗がりの小さな波紋がこの部屋の無意味な乱雑さを押しのけて広がっていく。僕はただただ見守るしかなかった。
 すぐに二匹目を、暫らくして三匹目を産んだ。古いTシャツを3枚丸めて押しやると、ちえは素直に寝床を整え、一匹ずつ咥えて運ぶ。すでに落ち着きと威厳を取り戻し、自慢げに僕を見る。横たわったちえの白いおなかには、八つのピンクの乳房がしっかりと膨らんでいた。

 三匹の子猫は、僕の実家とその親戚へそれぞれ貰われていった。二度目に産み落とされた子猫たちは、急襲した僕の母親がいなかに連れて帰った。誰かにあげるから、とのことだったがたぶん帰る途中で捨てられたのだろう。もちろん僕はそれを知っていて何も出来なかったのだ。次に生まれた時は、大家の娘に倣って色々なところに広告を出した。幸い4匹のうち3匹までは貰い手があった。
 なぜ、避妊手術をしてやらなかったのだろう。年月を超えて僕の背中を追いかける幾つもの眼が、何故そうしなかったのだと責めてくる。ずれた言い訳に聞こえるけれど、その頃の僕は、ちえの身体から押し出されてくるものに瞠目して固まるだけだった。ちえの確信と諦念をひんやりと纏った生き方に手を出せなかった。今でも、蚤や蚊の襲撃や、風のない暑さや、壁を硬くする寒さや、雑草の無惨さや、小鳥の必死さやなにやら、受け入れ難いが、抵抗もできない何かを想う。重たい芯を感じさせるものがそこにはある。道端の草陰で起きている勤勉で慌しい容赦のない生存競争に目を奪われながら、僕は世界に対して弱々しく抗うことしかできない、或いは酷い復讐を夢見ることしか。

 ちえの旦那さんの話もしたい。あたりまえのことだが子猫たちには父親がいる。否応なしにそれを意識せざるを得ない状況になった。彼が訪ねてきたのだ。ちえと同じように例の小窓からやって来た。ある日、いつもの軽やかな気配ではなく、がりがりと壁を引っ掻く不器用な物音に続いて、ドン、と砂袋でも落としたような衝撃がキッチンから伝わってきた。驚いて見に行くと、異様にでかい黒猫がいる。暫らく辺りの匂いを嗅いでいたが、のっしのっしとこちらへ歩いてくる。思わず脇へ避ける僕に、すりこぎの様なしっぽを軽く振ってみせた。一応挨拶のつもりなのだろうか。
 敵意はなさそうだが、完全にこちらの存在は眼中にない。自分の情婦の隠れ家がどんなものか覗きに来たらしい。頭から尻尾の先までⅠmはゆうにある。鼻先と前足の先だけが白い。尻尾や足の太さにも呆れるが、その覆面を被ったような頭の規格外の大きさには笑ってしまった。ほとんどバレーボールだ。少し空気は抜けているが。
 怒れば怖いだろう。でも愛嬌のある黒々した丸い目をしている。彼はこのちえの匂いの染みついた部屋にも、その管理人にも一応満足したらしい。しっかりと壁にマーキングするとゆったりした足取りで出て行った。
 また自分の縄張りが少し広くなったということだ。たまに巡回して来る。いかにも面倒臭そうに部屋を一周して窮屈な小窓から消えていく。滅多に鳴かないが、たまに独り言を言っている。その妖怪じみた声は「オーウ」としか聞こえない。ぼくは、ただ「ダンナ」とそいつを呼んだ。

「それ、どんちゃんじゃない?」
隣に座った女が笑っている。
 その頃職場の飲み会を抜け出して時々寄り道していたカウンターだけの小さな店でのことだ。ビリーホリデイの曲しか流れない。年の割に老成したマスターが一人でやっている。そこでたまに会う彼女はフリーのカメラマンをしている。僕とそんなに年は変わらないはずだが、いつも渋めのスーツできめた中年男性と一緒だ。重いバッグを肩から降ろしながら、マスターとの会話を聞いていたらしい。
「そうなの?知ってるヤツ?」
「うちの近所じゃ昔から有名よ、野良犬だって避けて通るんだから」ビールを頼みながら彼女は言う。だけど、どんちゃんはない。
「うちの母親がどん兵衛、どん兵衛って言うもの、まあとにかくキョウレツナヤツよね」
聞いてみると、彼女の家は僕のアパートからそんなに近くもない。いったいダンナの領地はどれだけ広いのだろうか。
「半助ンちのとらだね」と、スーツの中年。
「なにソレ、黒猫よ」と、彼女。
「マオは勝てそうにないね」マスターが言う。
当時僕はいつも黒い人民帽を被っていた。ただし赤い☆は引っぺがしてある。僕らはお互いの名前を殆ど知らない。
「アイツはある意味同志なんだよ」
もちろん、強がりだ。
 ダンナには他に沢山の名前と噂があるらしい。ようするにこいつは僕のような青二才が気軽に声を掛けられない程の名士であり、恐れ入る存在なのだ。

 僕のささやかな自慢は、この大親分を抱き上げたことがあるということ。
 その日、部屋でビールを飲みながら本を読んでいると、ガリガリどたんと音がして、彼が現れた。例によってゆっくりと部屋を巡回していたが、何故かいつものようにそのまま帰っていかない。ベッドにもたれ床に座っている僕の向かいにごろんと横になった。飲み込まれそうな欠伸をひとつ、半目になってこちらを眺めてくる。「なんだよ、ひまなの?」ピーナッツを投げてみるけど、ちょっと匂いを嗅いだだけで興味なさそうだ。こいつは日頃何を食っているんだろう。
 暫らくそうやってお互いを意識しながらも、いやダンナはわからないが、無視することにした。ヤツは一向に腰をあげない。眠たいわけではないらしく、ただ悠々と僕やぼくの向こう側を見透かしている。「何が見える?背後霊?守護天使?」そうこうしている内に少し酔いが回ってきて大胆になる。よし、写真でも撮ってやれ、というわけで、カメラを探してゴソゴソと散らかった床のガラクタをひっくり返した。やっとカメラを見つけてダンナを振り返ると、向こうも興味深そうにこちらを見ている。これはいける、と思った瞬間、新たな思いつきに僕はにやついた。一緒に撮ろう、ヤツを抱いて写真に納まるのだ。
 ダンナに触れたことなら何度かある。頭や背中を撫でても特に反応はない。驚くのはそのぶ厚い頑丈さだ。まるで学生服を着たラグビー部の高校生、猫の概念を超えている。
 スピーカーの上にカメラをセットしてダンナを持ち上げた。脇に手を入れて抱えたのだが、だらりと弛緩したまま好きなようにさせている。湿った土のように重い。カメラの前に座った時シャッターがおりた。

 今でもその写真は引き出しの奥に仕舞われている。それは一瞬にして僕を過去に引き戻す。ダンナのひし形にひしゃげた顔は目を細めてまるで笑っているようだ。その奥に半分隠れて僕の酔った顔がある。潤んだ眼を輝かせ、あまりにも無防備に若く、痛々しいほど嬉しそうな僕がそこに居る。

 ボケの話もしなければならない。
 三度目にちえが出産した時、貰い手がなくてそのまま近所に居ついてしまった。ちえの境遇に似ているが様子はまるで違う。ブチなのか縞々なのか良く判らない、茶色と黒と白が入り混じってレコード針にくっついた埃のように影は薄いが厄介だ。ちえも最初は面倒をみていたものの、その内追い払うようになった。いつもおどおどしていて真っすぐ歩けない。大抵ガツガツと腹をすかしていて情けない声で鳴くものだから、訪ねてきた時には何か食べさせた。満足するとひねくれて先の曲がった尻尾をプルプル震わせながら部屋の隅にちょこんと座る。しばらく何も考えられないのか、毛繕いも忘れてぼけっとしている。ちえやダンナと違って、開いていればどこからでも入り込む。
 ある日一緒に遊んでいて、なんとなく輪ゴムで右の後ろ足を縛った。驚いたボケは奇妙なダンスを踊りながら逃げて行く。さすがに気になったので外へ出て呼んでみたが、もう何処にもいない。悪いことをしたと悔みつつも、そう大事になるとは思っていなかった。       今度来た時はずしてやろう。
 翌日戻って来た彼をみて僕は凍り付いた。
 荒い息をつきながらボケは三本足で部屋に入って来た。右足の先が3倍に膨れ上がっている。哀れっぽく鳴いて訴えるその顔から目を逸らし、輪ゴムを外そうとするが、腫れた肉に食い込んでどうにもならない。カッターナイフでなんとか取り除いた。熱をもっている。水で濡らしたタオルで患部を恐る恐る拭いてやると、ボケも熱心に舐めている。喉も乾いていたのだろう、濡れた僕の指まで一所懸命に舐めてくる。呆然としている僕よりボケの方が逞しかった。魚肉ソーセージを一本平らげて毛布の上に小さく丸くなる。
 3日程すると腫れも引いた。足先の毛が全部抜け、露出した赤黒い肌に少なからず動揺したが、やがて元通りに生えそろった。爪が一本引っ込まなくなり、微かにびっこをひくものの、ほぼ以前の彼に戻っていった。自分にいったい何が起こったのか、たぶんボケはよく解っていない。僕の胸にまた一つ消えないしこりが残った。ボケと僕はよく似ていて、そう呼んでよければたぶん友人だったのだと思う。
 彼はブラックサバスの重たいビートに合わせて傷ついた足を無様に振って見せる。お道化ているのか、何なのか。

 ちえが居れば世界は少し変化する。まるで夕焼けのように懐かしいものになる。空気が重くて前に進むのがつらい時、僕は自然とちえの姿を探していた。知ってか知らずか、職場への行き帰り、ちえはふいに目の前に現れることがある。自転車を走らせる路地裏の曲がり角、灰色に続く私立高校の高い塀の上、旺盛な緑に覆われた民家の濃い陰の中、乾いた芝生が覗く黒い鉄の門扉の向こう側、ちえは見え隠れしながら先回りして僕を見送る。こちらを見やるほんの僅かな時間、ちえを中心に時の流れが止まって、景色は絵画の様に沈黙を纏い、果てのない問いになる。
 アパートから半キロ程の所に古い小さな神社がある。見送るのはそこまで。眠り込んで沈む石段を押さえてちえは待つ。僕はその前を左に折れ細い参道を抜けて仕事に向かう。傾いた鳥居の陰にちえは白い絵の具をおいたように動かない。背後で何故かざわざわと活気づく神社の森が揺れている。
 帰り道、僕はまた石畳の参道を神社に向かって走る。時には自転車を脇に止め、人気のない階段を上る。そこには苔むした小さな拝殿があり、痩せて地層のように木目が浮いた賽銭箱を抱えている。格子の向こうの暗がりには僕を映す鏡があって、他には何もない。失望と安堵を同時に感じながら、鼻の欠けた狛犬の台座に腰掛ける。神様の前ではいつもに増して孤独になった。

 洗礼式を見たことがある。山々の連なりから流れ落ちたばかりの清冽な川が拡がっていた。一人の女性が胸の前で両手を握りしめている。菜の花に縁どられた瀬で、腿まで水に浸かりながら必死に祈っていた。目をきつく閉じ水を怖がる彼女に、若い牧師がしきりに何かを囁いている。二人を励ますように信者たちの聖歌が高鳴り水面を慣らしていく。
 ふいに牧師は彼女の肩を抱き、ついと水の中に沈めた。冷たい流れに長い髪が揺れる。
水から上がった彼女は泣いている。聖歌隊の女性たちが駆け寄りタオルで優しく包む。
すぐに楽しそうな笑い声が輪の中からあがった。傍らに突っ立っている僕には遠い光景のようだ。でも、たぶん、曖昧な顔をしながらもなんとか笑っていたに違いない。
 生まれ変わった彼女は、それでも僕の側にいてくれる。ありきたりに彷徨うだけの道連れとして。信仰は地下を流れる水脈になり、日々雑事に追われて慌ただしい。ただ、あの時接続したWiFiは今でも時々つながるようだ。知らない街の見知らぬ教会にふと入りたがる。神の家の薄明りのなか、ひとり熱心に祈る彼女、少し離れて座る僕。祈る言葉は浮かばない。ひんやりと高い天井を見上げて意識するのは五月蠅いほどの静けさばかり。だから耳を澄ます。僕は裸にはなれない。あなたが神なら何もかもお見通しでしょう?やがて内側からだんだん重くなり、心は石のように固くなる。このままずっと座っていれば、いつか彼女の祈りを支える礎石となって、渦巻く時を忘れることができるのだろうか。

 ちえのいたあの頃の僕も神社の木々を見上げていた。木漏れ日、ひび割れた木肌、風にそよぐ枝葉の擦れる音、鳥のさえずり、湿った苔の匂い、辺りに漂う微細なほこりは何かの花粉だったろうか。そこにある、あらゆるものが無口なぼくに形のない言葉をなげてくる。無意識のうちにその輪郭を辿ろうとしていると、いつの間にかちえが側にいて、いつものように遠くをみているのだ。

 皮膚にはりつくシミのように忘れられない記憶があるものだ。それは深く根をはっていて拭い去る術がない。
 ちえはまた新しい生命を宿していた。少し間が空いていたが、今度は早めにその変化に気づくことができた。度々の訪問と、部屋の中を歩き回る神経質な様子に思わずため息が出る。だけど僕を真直ぐに見上げてくるちえの表情は迷いもなく真摯なものだ。ベッドの下にタオルや古着で出来るだけ居心地のいい場所を作ってやった。いつ生まれるのかなんてよくわからない。ほっそりした下腹が次第に丸みを帯びやがて小石を飲んだ様に角ばってくる。顔や身体は逆にやつれていくようだ。
 ゆっくりと食べしきりに水を飲む。丁寧に毛繕いをして入念にその日を待つ。ちえの繊細だけれど誰よりも雄弁なしっぽは語っている。彼女はもう何もかも受け入れていた。

 季節はまた春だったろうか、夜勤明けの妙に冴えた目に街の様子が隅々まで新鮮で、ぐるぐると遠回りしながら帰ってきた。日も高くなりアパートは静まり返っている。玄関の前では、暖められた空気に煽られるようにモンシロチョウが舞っていた。
 ドアを開けてすぐ異様な雰囲気に立ち竦んだ。ざわと全身の毛が逆立つ。奥の部屋から高く低く、怒りとも恐怖ともとれる唸り声が聞こえる。いや、それは身を絞られるような悲しみの呻きだった。ちえの声だった。靴を脱ぐのももどかしく駆け上がると、居間から飛び出してきたボケと目が合った。ただ彼はいつもののんびりとしたボケではない。低く這う姿勢に緊張を漲らせ、興奮にぎらついた眼が反抗的に僕を睨めつけてきた。が、一瞬怯えたように尾を下げると、あっという間に足元をすり抜け、開けたままのドアから消えて行った。外は白い光に溢れて何も見えない。
 部屋に足を踏み入れた時、僕は何を考えていたのだろう。この楽園で起きたことをムパタのピンクの犀や、ジョンレノンの肖像は見ていたに違いない。何故こんなことに?
 ちえはそこにいる。部屋の片隅にぴったりと身を寄せ浅く早い息をついている。半開きの口から赤い舌が覗いている。きれぎれに全身を震わせ、か細い鳴き声を上げている。それはちえの精一杯の悲鳴だったのかもしれない。見開いた眼が宙を彷徨って何かを探しているようだ。僕はここにいるのに。

 ちえの股間から細く赤いものが伸びていた。
 そこから点々と、何か得体のしれない赤黒い塊が散りぢりに捩れて、広がっている。禍々しい渦はベッドの下へと続いていた。ここで何が起こったのか知りたくはなかった。だけど跪いた僕の目の前には、生まれたばかりの子猫の頭が首にぎざぎざの赤い断面を見せて、きつく目を閉じたまま転がっている。毛のないピンクの胸部は網状の細い血管を光に透かしてどこまでも空洞だ。植物の種のように散らばる手足は今にも芽を吹きそうに生々しいが、けっして根を張ることはないだろう。いったい何匹の子供たちが犠牲になったのか見当がつかない。ボケは生まれてくる子猫たちを片っ端から食い散らかしたのだ。寧ろ胎児を引き摺り出すようにして貪ったのかもしれない。必死に逃れようとするちえの絶望と、狂乱の宴に夢中になるボケ。その想像は僕を戦慄させた。色鮮やかにぶちまけられた死の氾濫に、ただ茫然と見入るばかりだった。

 やがて、僕を我に返らせたのは、ちえの鳴き声だった。ちえは落ち着きを取り戻しつつある。そして僕に助けを求めている。何が必要か考えなければならなかった。急いでお湯を沸かし、洗面器にぬるま湯を作った。浸したタオルを絞って、できるだけそっとちえの体を拭いていった。拭った後を追うように、ちえは自分の舌で少しずつ、貼りついた惨劇を舐めとっていく。そのひたむきな熱心さに僕は息を吞む思いだった。
 後はちえの気丈さに任せて、この部屋の惨状を何とかしなければならない。メッキの剝げた楽園。今や夢見がちな混沌よりも容赦ない混乱が支配している。散らばった残骸は全部で四匹の子猫のものだった。一つ一つを新聞紙の上に集めた。
 まだ完全に冷え切らないそれらは、生と死の狭間を漂う塵のように四角い新聞紙の上に広がっていった。几帳面な文字の羅列が薄紅い染みに侵されて意味を失っていく。小さな命の名残りもまたその深淵に向かって吸い取られていくようだ。

 僕は黙々と作業を続けた。すると驚いたことに、ベッドの下、重ねた布ひだの奥に動くものがある。薄い産毛が所々捩れたまま固まって、寒そうに細かく震えている。生き残った子猫は見えない目をしきりに開けようとしている。耳をそばだて鼻をひくつかせて、  弱々しく手足を動かし続ける。この仔は何を知っているのだろう。その透けて見える脆そうな肌は何を感じたのだろう。まだ声も上げられない歯のない口は訴えるべき恐怖をかたちにできるのだろうか。とりあえず僕は掌で掬うようにして母親の所に運んだ。ちえは一瞬体を固くして身構えた。何かを恐れているようにじっと我が子を見つめている。やがて前足でしっかりと抱き寄せ、丁寧に舐め始めた。
 僕はまだやることがある。子猫たちの遺体を新聞紙で幾重にも包み込み外に出た。駐車場の隅、塀際の角に、木の枝と両手で穴を掘った。出来るだけ深いところに埋葬し、落ちていた瓦のかけらを立てた。あたりには名前も知らない紫色の小花が咲いている。すっかり日も暮れてきた。部屋に戻ると、ちえは疲れ切って子猫を抱いたまま眠っている。彼らをそっとベッドの上に移した。

 それから僕は玄関を出てボケを呼んだ。手にはソーセージを一本持っている。ボケは遠くへは行かない。腹はへっていないだろうが習慣でやってくるはずだ。やがてボケの鳴き声がした。おずおずと、しかし安堵した様子で近づいてくる。屈んで手の中のものをちぎってやると、かぎ状に曲がった尾を震わせて少しだけ食べた。
「お前はたぶん悪くない、だけど此処には置いておけない・・・」
 僕はボケを抱き上げた。不思議そうに見上げる蜂蜜色の瞳を掌で撫でて閉じさせ、用意したバックにそっと入れ込んだ。チャックを閉めても意外なほどおとなしい。だが、自転車の前籠に乗せ走り出した途端、狂ったように暴れだした。低く高く喉の奥を引き攣らせて唸り声を上げる。僕は跳ねるバックを押さえつけながら走った。暗澹たる気分で酷く疲れた。ずいぶん離れた場所までやって来た。飲食店街の裏にある小さな公園だ。学生の下宿屋が多く、野良猫がたむろする。表通りは酔客で騒々しいがここは静かだ。石造りのベンチの上に一つだけ街灯が燈っている。僕はバックを地面に降ろしチャックを開けた。ボケは慌てて飛び出し、ベンチの下の窪みに身を伏せた。怯えて小刻みに震えている。暫らく周囲を警戒していたが、ふと僕と目が合った。何かを悟ったのかもしれない。背後の暗闇に向かってするりと駆けて行った。

 部屋に帰って来るとちえが目を覚ましていた。首だけ持ち上げて小さく鳴いた。生き残った我が子を乳房のあたりにひっそりと押し付けている。だけどちえは熱っぽく、子猫は逆に冷え切っている。母子を包むようにタオルを掛け、ちえには水を飲ませた。それから僕はベッドの脇に毛布を被って横になったのだけど、その夜初めて身の回りにいろいろな音が溢れているのに気が付いた。隣の部屋のテレビから笑い声、上の部屋のベッドの軋み。
 窓の外では風が遠くの人の声を運んでくる。いつもと同じ夜。半身を起こしてちえの肉球に触ってみた。ちえは薄く目を開け尻尾をパタリと振った。
 翌朝、子猫は冷たくなっていた。ハッとするほど小さく縮んだ体はすでに硬くなっていたが、その表情は兄弟たちより幾分柔らかく、終りのない夢を見ているようだった。

 ちえは痩せていった。前より頻繁に部屋を訪れ、うろうろと匂いを嗅いで回る。股間からは黄土色の体液が垂れてきて、何度拭いてやっても後からあとから流れてこびり付き、白い後脚を汚していった。かさかさに乾いた毛並みは次第につやを失い薄くなった。あれほど可憐で表情豊かだった耳の地肌が透けて見える。潰えた何かを追って目だけが熱を帯びて落ち着かない。骨ばった肩を押し付けて甘えてくる。膝の上で丸くなっていることが多くなった。僕は出来るだけ平静に何事も無かったかのように暮らした。そんな僕をちえはじっと見ている。

 2ヶ月程して彼女はやっと回復してきた。
 風も動かない淀んだ夏をなんとかやり過ごし、大気が空へ抜けていく秋の中頃、ちえは美しさを取り戻していた。いや以前に増して異質な在り様を身につけた。その所作には微かな躊躇いと憂鬱が加わった。ありふれた景色を縫うようにちえは現れる。世界は一刻も崩壊と再生をやめようとしないから喧噪に満ちている。だけどちえの姿は時を留め、時を癒す力がある。アパートの部屋には再び夕日の差す静かな時間が戻り、僕は胎児のように丸くなる。それは永遠に続く甘美な拷問のようなものだ。
 ちえは二度と子供を宿すことはなかった。

 ある寒い冬の夜、暗闇のなかでちえが外壁を駆け上がる音を聞いた。いつもの小窓に止まり中の様子を窺っているようだ。すぐに僕が居ることに気が付いてグルとのどを鳴らす。流しからリノリウムの床へと身軽に飛び降りる。パンッ、トン、とっとっとっ、柔らかく乾いた着地からこちらへ近づいて来る足音はリズミカルで心地いい。ちえの浮き立つ感情が流れ込んできて、音楽のように僕を目覚めさせる。しなやかなその肢体が暗闇のなかでも鮮やかに浮かび上がるようだ。部屋に入ってきたちえは、にゃお、と一声鳴いて、ベッドの足元に飛び乗った。そのまま布団の上を僕の尾根づたいに上って来る。胸の真上に座り込んでグルグルと喉を鳴らしながら毛繕いを始めた。手を伸ばし指先でちえの額を撫でてやると冷たい鼻先を押し付けてくる。ほっそりした体は水のように滑らかだが、毛先まで冷え切っていて掌の熱を奪っていく。僕は布団を少し持ち上げ、「入るか?」と言った。すぐに左手と胴体の隙間に潜り込んでくる。そこの暖かさが気に入ったのか、喉を鳴らす音がいっそう強くなった。僕の胸腔にまで響いてくすぐったい。ちえはその狭い空間で様々に体の向きを替えながら入念に毛先を整える。徐々に自分を取り戻していく。時々首を伸ばしては僕の顎や頬までざらついた舌で舐めてくれる。ちえは世界を回復する事に飽くことがない。触れるものに心と形を与え、内側に拡がる感覚をもたらした。

 やがて深いため息をついてちえは眠りについた。丸まった背中に手を添わせ僕は闇を見つめる。もう眠れそうもないが、どうでもよかった。このままちえの遠い記憶のような寝息を聴きながら朝を迎えよう。

 この話には終わりがない。何故なら僕の記憶の中に一つの情景が巣食っているからだ。6年過ごした隠れ家を離れることになった。一人の女性と暮らすために。
 ちえは連れていけない。2ヶ月前には決まっていた事だった。何をしていいのかよくわからないまま日が過ぎた。あたりまえの話だが、このアパートから一歩外に出れば別の時間と法則がある。足元はトラップだらけでよろめきながら生きてきた。やるべきことは沢山あるはずだったのにほとんど手を付けられない。壁の絵ひとつ剝がすでもなく焦る気持ちだけが募った。ちえは相変わらず僕を追うように部屋を訪れ、この不安定な楽園の一部になってまた送り出してくれる。ちえは半分野良猫のはずだった。ただ、外の世界でどんな生活をしていても、その厳しさを纏うことなく寄り添ってくれた。彼女の強さをあてにして僕はここを出ることにする。水面に浮かび出た安堵感はある。同時に圧し掛かるこの身の重さはなんだろう。

 結局二日程で引っ越しを済ました。ちえは姿を現さなかった。最後の掃除が終わり玄関の鍵を閉めた。キッチンの小窓は閉まっている。白い壁に地面から窓にかけて灰色の汚れが影のように染みついていた。駆け上がるちえの付けた足跡だ。僕は振り返りもう一度ちえの姿を探した。相変わらず荒れた駐車場で、背丈だけ伸びた痩せた草が力なく揺れている。子猫たちを埋めた場所は枯れ草が蔽い、僕の記憶と共に忘れられていくのだろう。

 次に僕がそこを訪ねたのは一年後のことだった。珍しく早めに終わった仕事を切り上げ、遠回りした挙句なんと無く辿り着いた。
 僕の居た部屋はまだ空いていて、カーテンのない窓から西日に染まった壁が覗けた。玄関に回り小窓の下の染みをしばらく見ていた。

「いつ来るのかと思ってたのよ」
驚いて振り返ると大家の奥さんが塀の向こうに立っている。「あ、どうも・・・」
「ずっと鳴いてたのよ、その窓の下で 」
塀の上に両腕をのせ、顔を突き出した。
「何日も、昼も夜も・・・」
「そう、でしたか・・・」
「どうしようもなかったの?」
「はい、あ、いえ・・・」
「まあね、あんたもいろいろあるんでしょ」
「すみません」
「私に謝ったってねぇ、元気にしてるの?」
「あの、はい、結婚しました」
「あら、おめでとう」やっと笑顔になった。
 それから暫らく他愛もない話をしてやっと奥さんは家に入っていった。僕は少し太ったらしい。有難いことにもう猫の話題がでることはなかった。

 ポーチに腰掛けた。ちえは僕の自転車の音を聞き分ける。やって来るだろうか。ここしばらくいろいろなことがあった。あと数か月もすれば、僕は父親になる。荒んだ駐車場に一台古ぼけた白いワゴンが止まっていて、疲れた目をしてこちらを見てくる。この視線の高さだと大きくて間抜けな生き物が途方に暮れているように見える。ちえは現れない。あと少し、もう少し空に星が増えたら、草の葉が暗い海に見えてきたらその時は帰ろう。しだいに大きくなる街の声や遠くの電車の音を聞きながら僕は待ち続けた。
 ふとちえの居る気配に顔をあげた。纏わりついていたざわめきが消えている。5メートル程離れた草むらにちえが座っていた。両手を揃えて伸ばし、腰を落とした姿できちんと座っている。周囲が輪郭を失っていくなかでくっきりと白く光を留めていた。ちえは僕を見ない。何か遠くの物音に気を取られているようにあらぬ方向を向いている。
「ちえ・・・」
耳がピクリと動いたが、それだけだ。
「ちえ、おいで」
突然、ちえは手の甲を舐め始めた。
「ちえ、たのむから・・・」
ちらりと僕を見てすぐに顔を背けた。微かに眉をひそめ、ゆっくりと長いしっぽで草の葉を薙いでいる。

 僕は立ち上がることさえ出来ない。

 あたりはすでに幕を引いたように暗く、僕とちえはその距離を保ったまま動かない、いつまでも

                  (了)

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