水月のショートショート詰め合わせ

水月suigetu

ノアの八寸は機械仕掛けの命を乗せて

ご飯、味噌汁、ホタテのなますを粛々と口に運ぶ。

大きく開け放たれた横の障子窓から、涼しい風と柔らかい陽が入ってくる。温かい食べ物が胃に落ちていく度に、気持ちも落ち着いていく。

1人で使うには広すぎる立派な茶室に案内された時と、「折敷おしきです」と出された雅なお膳と対峙した時の動揺と緊張が、今では嘘のようだ。

折敷の後に出てきた焼き魚や煮物などのお膳もじっくり味わった後には、すっかりリラックスしていた。

「八寸です」

静かに入ってきた着物姿の女性が、四角いお皿を私の前に置く。そして、流れるような動作で去って行った。

少し深さのある正方形の皿には、オイルに漬けたオリーブの実や、アスパラを巻いたお肉、エビとナスの煮物など、美味しそうな料理が一口ずつ乗っている。

オリーブの黒い実と、お皿の四角いフォルムが、何かを連想させる。考えながら、箸を動かした。

ノアの箱舟。

食感の良いエビを咀嚼した瞬間に、思い出した。神の起こした洪水で、絶滅しかけた生物たちが乗り込み、助かったという伝説の箱舟。

その箱船を造った人間のノアは、漂流中に陸地の手がかりを得ようと鳩を放った。その鳩は、オリーブの木の枝を咥えて、船に戻ってきたのだ。

端でつまんだオリーブの黒い実を眺める。

「再生」を象徴するオリーブ。ノアの箱舟は陸地に辿り着き、ここに今、オリーブを食べようとする私がいる。




「ちょっとびっくりさせちゃおうと思って」

最後の濃茶まで飲み干した後、今まで黙っていた藍色の着物姿の先生が、いつもの調子で話しかけてきた。私の祖父くらいの年齢の人だが、時々少年のような悪戯をする。

「本当、びっくりしましたよ。ちょっと遊びにきてって言うから、普段着で来ちゃいましたし。今度は、ちゃんと教えてください」

「ははは。でも、良い体験だったでしょ」

「はい。それはもう。こんな本格的な、貸し切りの茶懐石なんて初めてです。なんか、宇宙遊泳してる気分でした。ありがとうございます」

「宇宙ね。ふふ。良かった。もう機械人間の人権も認められて、生身の人間は少なくなってる。だから、こういう文化は無くなるのかと不安だった。でも、これもヒトの工夫と意思次第だね。今では機械人間もお茶会を楽しめる。嬉しいよ」

「脳や身体の仕組みがほぼ同じなら、きっと感覚も。機械と人間の境界なんて、もう無いに等しいです。これからも先生は、先生ですよ。長生きしてください」

「確かにね。もう長生きさせてもらってるよ。生身の人間と同じ死も、そう遠くない。生老病死。生物共通のサイクルの通りに、静かに去る予定だ」

先生の瞳がメタリックに輝く。暗い銀色。機械人間特有の、瞳の色。

「きっと引き止めちゃいますから、静かには無理かもしれませんね」

私が言い放つと、先生は笑った。


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