水月のショートショート詰め合わせ

水月suigetu

ガラスの粒子舞う蜃気楼

スローモーションで、ジャムの詰まった小瓶がガーデンテーブルから落ちていく。

瓶を取ろうとしても、腕が麻痺したように動かない。石畳の上に接した瓶の底から、大輪の花が一気に開くように、透明なガラス片が飛散していく。

真っ赤なジャムを、意思があるかのように囲むガラス片の群れ。綺麗で、見とれてしまう。

ガラスの欠片の1つが、強く光った。





「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空……」

はっと目覚める。耳に流れ込んでくる低い声。痺れかけている両足。法事中だった。あまり身体を動かさないように、周囲を伺う。見知っている親戚たちが勢揃いだ。横には、神妙な面持ちの兄の姿。

その兄の視線を辿ると、淀みなくお経を唱えるお坊さん。金色に輝く大きな仏壇。ほのかに甘辛く、香ばしい焼香の香りが立ち込めている。

「無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道……」

響く「無」の連続に、また眠くなってくる。13回忌法要の最中だ。ぼんやりしていて、誰の法事だったか、思い出せない。おそらく、遠い親戚の法事。しかし、さすがに寝入るのはまずい。目を見開く。

強くなっていく焼香の香り。足の痺れ。


「能除一切苦真実不虚……」


久々に聞いたお経は、予想以上に聴き心地が良い。力を込めている目蓋が、自然に下がっていってしまう。

「即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦……」

お坊さんの声が脳内で木霊する。木霊に割り込んできた、隣からの咳払いの声。私を睨みつけてくる隣の男性は、誰?

あれ、誰だ?思い出せない。よく知っているはずなのに。誰だっけ。あれ、ここは?今はいつ?……あれ、私は?……私、誰?

混乱の微睡の中、前を見ると、お坊さんが私の正面に座っていた。私と、対峙するように。在るはずのない濃い霧が立ち込めていて、視界が悪い。


「あなたはあなたであり、あなたでない。万物も同じ。全てがあべこべな浮世では、定めの檻に安住することなかれ。苦しむことなかれ。楽しみなさい。またいつか、会いましょうね」


話し出したお坊さんは一瞬で、オレンジ色のカーディガンを着た女性に変化した。もやで、顔がはっきり見えないが、声と雰囲気で母の従兄弟だと分かった。すっかり忘れていた、幼い頃の記憶が蘇ってくる。


産まれたばかりの私を、細い腕でしっかり抱き締めてくれた。草花が好きで、いつも微かなハーブの香りを纏っていた人。私のために、イチゴジャムを作ってくれた。いつも私に穏やかに話しかけてくれた人。

私が5歳の時に、この世からいなくなった人。今、弔われている人。







近くの人が動く気配で、またはっと目覚めた。霧が、消えている。普通の、法事の光景が広がっている。夢、だったのか。

お経は終わったらしい。隣の兄が平然と立ち上がる。足の痺れを忘れたまま、焦って立ち上がろうとして、呻きながら座り込んだ。


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