水月のショートショート詰め合わせ

水月suigetu

オロンテウスの地図の第九

「きーちゃん、南極に行こう」

クーラーが壊れた真夏の正午。馴染みの電気屋さんの定休日。1文字も進まない小説の原稿に苛立っていた水曜日。巨大なスーツケースを引いてきた君は突然家にやってきて、そう言い放った。船の出発は今日の午後5時と印字されている、南極ツアーのペアチケットを見せつけながら。

その時僕は、うちわ1本じゃ太刀打ちできない暑さと締め切りのプレッシャーで、どうかしていたんだと思う。

うん、行こう。と即答してしまった。






デッキに出た途端、ゴウゴウゴウゴウと冷たい海風が体全体に衝突してくる。思わず、よろける。

「あははははは!すごい風!うはははは!」

君は隣で大層楽しそうに笑っている。目も開けられない極寒の風の中で。

「景色どころじゃないよ!戻ろう!寒い!」

「あはははは!」

手探りで君の腕を取る。引っ張って、ドアの内側に滑り込んだ。

「あはははは!」

興奮が冷めない君の笑い声が船内に響き渡る。

「まもなく、南極に到達します。係員の指示に従って、上陸準備を開始してください」

アナウンスの声で、君と僕は我に返った。

「本当に南極来ちゃった……」

「タダでね。私のくじ引き運のおかげでね。感謝してもいいよ。さぁ、元気に南極に上陸しよう」




眩しい。

白い氷の大地と真っ青な空のコントラスト。

氷が日光を反射させているのだろう。ひたすら、眩しい。

上陸する数分前に、曇り空は素晴らしく晴れ渡った。空は真っ青、大地は全方向、果てしなく白い。遠くに蠢くモノクロカラーの生物が目に入る。ペンギンだ。

「ね、あれ、ペンギンだよね」

「あ!本当だ!ペンギン!」

君の懲りない大声に、焦って人差し指を口の前に当てる。案の定、傍にいたガイドに睨まれた。ついさっき、上陸にはしゃぐ君を注意したガイドだ。

「お静かにって、言われたでしょ」

「ごめん」

見事に整列して行進するペンギンたちは、海にドボンと滑り込んでいく。僕を含むツアー客たちは、その様を目とレンズに焼き付けようと必死だった。

ふと、さっきから静かな君が気になって、横を向く。君は白い大陸と空の境を睨みつけていた。僕も、その境を見つめてみる。

「オロンテウスの地図、思い出さない?」

「え?」

「昔さ、高校生の時、よく私がめちゃくちゃな地図描いて、きーちゃんがその地図の隅に詩を書いてたじゃない」

「……ああ、そうそう。カレンダーの裏にね」

「南極を知らないはずの大昔の学者がさ、南極大陸を書き残したっていう地図。オロンテウスの地図。真似してさ、私も、想像の南極の地図作ったんだよ。その地図にきーちゃんが書いた詩、覚えてる?」

「どうだったか……オロ何とかの地図はうっすら覚えてるけど」

「軽やかに生きて白色光の中に。友よ、いざ行こう。いつか、真の南極に降り立ち、この世の真の歓喜を共に称えよう」

懐かしい詩を朗読する君の小声が、やけに大きく聴こえた。

君のにやけた顔。白い光の平野。乗客の歓喜の声。あの空想の地図の、やけに大きく歪な南極に、今まさに到達したような陶酔。

あの詩が、現実になるとは。ふつふつと、感動が湧き上がってくる。




帰りの船のデッキで騒ぐ君から少し離れて、南極大陸の蜃気楼を眺める。原稿の締め切りは帰宅した次の日の午後。諦めていたけど、今は、書ける気がする。

「ほら!きーちゃん!まだ南極見えるよ!ははははは!」

「はいはい」

少し騒がしいけど、良い友達だ。小さくなっていく氷の大地を見つめながら、またいつか君と一緒に戻ってこれますようにと、願った。

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