あの時はこんなことを感じ考えた。今はどう?(心の混沌を言語化するプロジェクト)
8.No need for words
SNSをやっていると、つられて哀しくなってしまう呟きを目にすることがあります。
わだかまる思い
実生活では口にできない苦しみ
伝えたくても伝える相手がもういない悲しみ
昨年は、著名人の訃報や豪雨被害に纏わるものも多く目にしました。
こちらも悲しくなるものの、それに対する適切なコメントに思い至らず、読んだままとなることがほとんどです。
直接にはコメントしないまでも、自分なりに感じたことは書き留めておきたい。
それが動機となったのが今回の文です。冒頭に短歌の字数で表したのは、その要約と言えるかも知れません。
✿ ✿ ✿
泣き涸れて絞り出(い)だせぬ果てを越え悲しみついに華と昇りぬ
✿ ✿ ✿
自分の考えや感情を表現できるのは自分だけ。脳の中にあるのだから当たり前だ。ところが、実際に表現するのは難しい。少なくとも僕はしばしばそう感じる。
考えや思考は言語で行うので、絵ならまだしも、言葉で表現するのは容易いはずだ。単に脳の中の「考え」を口にするか書けばよい。しかし、やってみると(僕の場合は)口にした途端に内容が散漫になったり、鉛筆を持った途端に手が止まったりする。そのたびに、自分の「考え」を見直さなくてはならない。
もしかすると僕は言語で思考できていないのではないかと思うのだが、今日取り上げたいのはそこではない。「考え」でそうなら、感情表現はもっと難しいだろうという話だ。言語で組み立てられていてもままならないのだから、成り立ちが曖昧な「感情」の難しさは推してくれ知ってくれというわけだ。
尤も、感情の中でも「喜び」はリアルタイムに言葉にしやすい。「感極まって言葉にならない」という表現はもちろんある。しかし、これは「長い一言」と同じだ。一種の形容矛盾、あるいは詭弁で、めでたいどさくさに紛れて弄して喜んでいるだけである。とりあえずそのように言うことで、言葉にすることを達成しており、しかも喜びまで滲ませている。
それに対して、悲しみや苦しみはどうか。まさしく言葉にできないことが多い。表現のための思考が停止してしまい、文字通り言葉がみつけられなくなる。言葉にするには思考の再開を待たなければならない。そのための時間は、悲しみが深いほど長くなる。
悲しみに叫び、去る人に縋り。くずおれても引き戻せない現実に、涙が涸れ声が嗄れ。思うたびに傷が開くから心を閉じる。茫然自失の時が過ぎる。
その感情を言葉にできるとしたら、その「現実」を意識して見られる、見直せるときだろう。
✿
だから、誰かが綴る悲しみや苦しみをみるといつも思う。
あーよかった。言葉にできるところまでは来られたのだな、と。
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