神隠しにあってしまいました。
第17話:反省と繰り言
当麻殿達は待つほどもなくやってきてくれました。
少し話しをして、そのまま護衛についてくれました。
どこという訳ではなく、近くの御稲荷様を順番に参詣させて頂きました。
とにかく少しでも多くの御稲荷様に参詣させて頂きたかったのです。
何かしていなければ、居ても立っても居られない気分だったのです。
「久左衛門殿、当麻殿、明日は品川宿まで行って帰って来たいのですが、日暮れまでに帰って来られると思いますか」
私がそう言うと、久左衛門殿と当麻殿は顔を見合わせて頷き合いました。
「夜が明ける前に出立して、参詣する稲荷社を少なくすれば、日暮れ前に屋敷に戻って来られると思いますが、何でしたら品川宿の本陣に泊まる事もできます。
いかがなされますか」
「いえ、明日は御稲荷様ではなく瞽女達に会いたいのです。
東海道筋にあるという瞽女屋敷に行って、彼女達の話を聞きたいのです。
本当に幕府の援助で、不自由することなく暮らしていけているのか、この眼で確かめたいのです」
「承りました。
そう言う事で御座いましたら、ゆっくりと話を聞く時間があった方が宜しいのではないでしょうか。
品川の本陣と瞽女屋敷に使いの者を送りますので、一日待って明後日に訪れられる方がいいのではありませんか」
「そうですか、ですがそれでは、敵に本陣を襲撃されたりしませんか」
「幾らなんでも、本陣を襲うような愚かな事はしないと思いますが、姫様が心配されるのでしたら、警護の者を多く集めましょう。
親戚筋から腕利きの者を集めさせて頂きますから、御心配には及びません」
「そこまで言ってくださるのなら、信じましょう」
「ではそのように手配りさせていただきます」
「恐れながら御伺いさせていただきます。
姫様は瞽女に興味があるのですか」
久左衛門殿の言葉を待って、当麻殿が真剣な表情で聞いてきました。
私が興味本位で瞽女から話を聞こうとしているのなら、もう助太刀などしないという怒りの雰囲気が、ありありと感じられます。
私は誤解されないように、急いで真意を話しました。
「興味ではなく、心配しているのです。
私の聞いた話しでは、瞽女には幕府からの援助があるはずなのですが、それがちゃんと行われているかが、とても心配なのです。
もし援助が少なくて、芸事と合わせても苦しい暮らしをしているのなら、何か手助けをしてあげたいと思ったのです。
幸い私には、先祖代々伝えられてきた、鍼灸の技があります。
それを伝授できれば、武家の奥向きに出入りが叶うのではないかと考えたのです」
「おお、それはよい御考えでございます。
そのような御考えでしたら、私も少し御手伝いできることがございます」
「当麻殿は瞽女と何か係わりがあるのですか」
「係わりがあるわけではありませんが、越後の瞽女が江戸近在の村々を訪れて、歌舞音曲を聞かせているのは知っております」
「何ですって、越後からわざわざ江戸にまで瞽女が来ているのですか」
「江戸近在の名主には、篤志家もいるのです。
彼らが越後から瞽女を招いて屋敷に泊めてやり、江戸で幾ばくかの金を蓄えられるようにして、越後に戻って暮らせるようにしてやっているのです。
そんな名主と多少の交友があるのです」
「越後の瞽女は苦しい生活をしているのでしょうか」
「さて、全く暮らし向きが立たぬという事はないと思います。
それでは歌舞音曲を覚える事もできずに、死んしまっているでしょうから。
生きて行けるくらいの稼ぎは、越後でもあるのでしょうが、少しでも豊かな生活をしたいと思うのが人情です。
だから稼ぎの多い江戸に来るのではないでしょうか」
「確かにその通りですね。
では手間をおかけすることになりますが、その篤志家の名主さんと話を付けて、越後の瞽女から話が聞けるように手配してくれますか」
「御任せください、姫様」
当麻殿は、仲介の労を取ってくれると快諾してくれました。
今更ですが、祖父や父から耳に胼胝が出来るほど聞かされていた理想論が、私の心の奥底に根付いている事に気付かされました。
何ができるか分かりませんが、明治維新という名の武装テロリスト達が壊してしまった障害者支援を、あの身勝手極まりないテロリスト達でも壊しようがないくらい強固に、この国に根付かせたくなってきました。
私は心を弾ませながら、昨日廻れなかった御稲荷様に参詣しました。
昨日と同じように、社の前に額づき請い願い祈りました。
元の世界に戻りたいと、真摯に請い願い祈りました。
赤い着物を着た童女に、この世界に連れてこられたのかもしれないと、多少恨みをを込めて祈り伝えました。
童女が御稲荷様の神使様なら、御稲荷様にも使用者責任があるのではありませんか、と少々脅すような事も考えてみました。
ですがそんな脅しでは、元の世界に戻してもらえませんでした。
日が暮れる前に田沼家上屋敷に戻ってきましたが、結構疲れてしまっていました。
「明日は今日廻れなかった御稲荷様を参詣します。
皆もその心算で早く休んで下さい」
「「「「「はっ」」」」」
江戸市中の御稲荷様廻りに付き合ってくれた、お登勢さんをはじめとした女中達は、部屋にまで案内してくれました。
彼女達には、明日も歩いて付き合ってもらわないといけないので、楓さんと今まで見た事もない若い女中が交代しました。
百合さんの事が気になりましたが、下手に彼女の事を聞いてしまうと、彼女が虐められる可能性があるので、我慢しました。
「神使様、湯殿の準備が出来ております。
まずは汗を御流しください」
湯殿の中まで付き合ってくれて、背中を流してくれるのは楓さんです。
私が汗と埃を流している間に、夕食が用意されていました。
私の疲れを考えてくれたのか、それとも私を刺激して将軍家に悪影響がないようにしたいのか、田沼親子は挨拶に来ませんでした。
「御毒見をさせて頂きます」
今日は今までやられていなかった、毒見が行われました。
それだけで、田沼親子が挨拶に来なかった、本当の理由が察せられました。
一橋と松平定信が動き出したのでしょう。
私が徳川家基暗殺の話を徳川家治と田沼意次にした事で、彼らを追い込んでしまったのかもしれません。
ですから、私に出された二つの膳の並んだ料理もすっかり冷めていて、所々毒見で食べた後があります。
しかも最後に私の目の前で、二人の女中がひと口ずつ食べるのです。
しかも手炙りで温め直した後で毒見してくれるので、熱々の食事という訳にはいかなくなりました。
まあ、それでも、元は田沼意次のために作られた膳の一つです。
とてもいい材料を使っているのは間違いありません。
それに、毒見を前提にして、今までよりも多めに盛り付けてくれています。
温め直しがまた冷めてしまっていようとも、美味しいはずです。
それに、空腹に勝る調味料などありませんから。
今日の私なら、何でも美味しく食べられるはずです。
一の膳には、玄米御飯に鰯つみれと若芽の味噌汁、鯵の刺身に浅利の胡麻味噌和え、それに鶏肝と大根と人参の煮物が乗せられていました。
二の膳には、蜆と若芽の御吸物と鱚の胡麻味噌焼きでした。
とても美味しくて、また三杯も玄米御飯を食べてしまいました。
ただ二の膳が何時も鱚なのは頂けません。
美味しくても飽きてしまいます。
それに漬物は、同じ大根の糠漬けと大蒜の梅酢漬けが添えられていました。
まあ、漬物が毎度同じなのは我慢します。
「楓さん、悪いですが、二の膳の鱚は毎食別の魚に変えるようにしてください。
鯖や鯵、鰯や鰆、幾らでも安くて美味しい魚はあるでしょう」
「承りました。
明日の朝食から献立を変えられるかどうかわかりませんが、出来るだけ早く変えさせていただきます」
「御願いしますね」
私は言いたいだけ言うと、直ぐに眠ってしまいました。
昨日ほどではありませんが、今日も疲れていたのだと思います。
「神使様、御目覚めでございますか」
「ええ、目が覚めたわ、百合さん」
「まだ夜が明けていませんが、身支度を整えさせて頂きましょうか」
「ええ、御願いします」
明日になるのか、それとももっと後になるかは分かりませんが、夜が明ける前に田沼家上屋敷を出て、品川宿の瞽女屋敷に行くことになるのです。
しかしながら、昨日から毒見を始めたのを考えれば、屋敷を出て遠出するのはとても危険だと思われます。
少なくとも、警備が整っているかどうかわからないような、本陣や宿屋み泊まらなければいけない遠出は、認められないと思われます。
早く起きてしまった影響でしょうか、それとも新しい女中に色々と教えるためでしょうか、今朝は時間をかけて身嗜みを整えてくれました。
朝食までまだ少し時間があったので、私は用を足した後で御稲荷様を詣でました。
若侍が鎧兜の完全武装で、槍を片手に襲撃に備えてくれています。
彼らを斃して襲撃を成功させるのが何大抵のことではないのは、この世界で生まれ育っていない私にも分かります。
若侍の眼に敵意が浮かんでいません。
初めて軽く目礼をしてくれます。
昨日までとは全く違う態度で接してくれます。
私は彼の主君である田沼意次に、随分と失礼な態度をとっています。
昨日までの、敵意の籠った態度をとられるのが普通なのですが、何故こんな風に変わったのでしょうか。
朝食の準備が整ったと呼びに来てくれるまで、元の世界に戻していただきたいと、一心に御稲荷様に請い願い祈りました。
哀しい事ですが、その想いは叶えてもらえませんでした。
長く朝露の中にいた所為で、すっかり体が冷えてしまいました。
その所為で、朝食前にもう一度用を足すことになってしまいました。
百合さんが朝食の準備が整ったと呼びに来てくれた時には、体が冷えているだけではなく、喉まで渇いてしまっていました。
ですが直ぐに御茶を飲む事もできませんでした。
「御毒見させていただきます」
御茶を飲むのも、百合さんと名も知らぬ初めて見る女中が、毒見してくれてから飲むことになりました。
私の隙を見て毒を盛る事ができるのは、徳川家基の例を考えれば分かる事です。
それなのに、田沼意次が新しい女中を数多く召し抱えたのは何故でしょうか。
私は兎も角、自分や息子を囮にしているのでしょうか。
徳川家治や徳川家基に向けられる刺客を自分に引き寄せて、二人の盾になろうとしているのでしょうか。
「料理人に、無理を言ってごめんなさいと伝えてください。
御陰でとても美味しく食べられました、とも伝えてください」
昨日の今日ですから、出入りの魚屋も大変だったでしょうが、鱚を違う料理に変えてくれていました。
流石に鱚を使わないわけにはいきませんでしたが、鱚は酢の物に流用して、鰯を塩焼きにしてくれていました。
明日からはもう少し高い魚を二の膳に使うのでしょう。
何といっても、同じ物を田沼意次と田沼意知も食べるのですから。
「承りました。
神使様から御褒めの言葉を頂き、料理人も感激する事でしょう」
百合さんがそう言ってくれました。
その言葉で、何とか上手くやれたのだと思えました。
厳しい身分差のあるこの世界で、上手く振舞えているか分からないのです。
誰かが教えてくれなければ、何も分からないのです。
最初は私も混乱していたのでしょう。
冷静に行動している心算で、色々と失敗していたのです。
今多少冷静になれたことで、当初の失敗が分かります。
ですが多少冷静になった心算の今の私も、後々考えれば、色々な失敗を重ねてしまっているのでしょうね。
それが分かっていても、何もせずに屋敷に籠っている気にはなれないのです。
不安と恐怖に追い立てられて、何かせずにはいられないのです。
危険だとは分かっていても、御稲荷様に参詣せずにはいられないのです。
それと同時に、この世界に対する興味がむくむくと湧いてきてしまいます。
色々と知りたいという気持ちが、抑えられなくなっています。
「神使様の麗しき御尊顔を拝し奉り、わたくしめ恐悦至極に存じ奉りまする」
朝食前に挨拶に来なかったから、今日も挨拶に来ないのだと思っていましたが、朝食後に田沼親子が挨拶に来てくれました。
何か重大な話があるのか、とても真剣な表情をしています。
私が徳川家基の事を罵り、奥医師の資格を売りたいと言ったことが、徳川家治の怒りを買ってしまったのでしょうか。
「何か重大な話しがあるようですね」
「はい、神使様の今後の事について、上様と話しをさせて頂きました。
幕閣の方々も、私の変化を見て賛同してくれました。
上様も快く御裁可をくださいました。
その事について御話しさせていただきます」
「分かりました、聞かせていただきましょう」
少し話しをして、そのまま護衛についてくれました。
どこという訳ではなく、近くの御稲荷様を順番に参詣させて頂きました。
とにかく少しでも多くの御稲荷様に参詣させて頂きたかったのです。
何かしていなければ、居ても立っても居られない気分だったのです。
「久左衛門殿、当麻殿、明日は品川宿まで行って帰って来たいのですが、日暮れまでに帰って来られると思いますか」
私がそう言うと、久左衛門殿と当麻殿は顔を見合わせて頷き合いました。
「夜が明ける前に出立して、参詣する稲荷社を少なくすれば、日暮れ前に屋敷に戻って来られると思いますが、何でしたら品川宿の本陣に泊まる事もできます。
いかがなされますか」
「いえ、明日は御稲荷様ではなく瞽女達に会いたいのです。
東海道筋にあるという瞽女屋敷に行って、彼女達の話を聞きたいのです。
本当に幕府の援助で、不自由することなく暮らしていけているのか、この眼で確かめたいのです」
「承りました。
そう言う事で御座いましたら、ゆっくりと話を聞く時間があった方が宜しいのではないでしょうか。
品川の本陣と瞽女屋敷に使いの者を送りますので、一日待って明後日に訪れられる方がいいのではありませんか」
「そうですか、ですがそれでは、敵に本陣を襲撃されたりしませんか」
「幾らなんでも、本陣を襲うような愚かな事はしないと思いますが、姫様が心配されるのでしたら、警護の者を多く集めましょう。
親戚筋から腕利きの者を集めさせて頂きますから、御心配には及びません」
「そこまで言ってくださるのなら、信じましょう」
「ではそのように手配りさせていただきます」
「恐れながら御伺いさせていただきます。
姫様は瞽女に興味があるのですか」
久左衛門殿の言葉を待って、当麻殿が真剣な表情で聞いてきました。
私が興味本位で瞽女から話を聞こうとしているのなら、もう助太刀などしないという怒りの雰囲気が、ありありと感じられます。
私は誤解されないように、急いで真意を話しました。
「興味ではなく、心配しているのです。
私の聞いた話しでは、瞽女には幕府からの援助があるはずなのですが、それがちゃんと行われているかが、とても心配なのです。
もし援助が少なくて、芸事と合わせても苦しい暮らしをしているのなら、何か手助けをしてあげたいと思ったのです。
幸い私には、先祖代々伝えられてきた、鍼灸の技があります。
それを伝授できれば、武家の奥向きに出入りが叶うのではないかと考えたのです」
「おお、それはよい御考えでございます。
そのような御考えでしたら、私も少し御手伝いできることがございます」
「当麻殿は瞽女と何か係わりがあるのですか」
「係わりがあるわけではありませんが、越後の瞽女が江戸近在の村々を訪れて、歌舞音曲を聞かせているのは知っております」
「何ですって、越後からわざわざ江戸にまで瞽女が来ているのですか」
「江戸近在の名主には、篤志家もいるのです。
彼らが越後から瞽女を招いて屋敷に泊めてやり、江戸で幾ばくかの金を蓄えられるようにして、越後に戻って暮らせるようにしてやっているのです。
そんな名主と多少の交友があるのです」
「越後の瞽女は苦しい生活をしているのでしょうか」
「さて、全く暮らし向きが立たぬという事はないと思います。
それでは歌舞音曲を覚える事もできずに、死んしまっているでしょうから。
生きて行けるくらいの稼ぎは、越後でもあるのでしょうが、少しでも豊かな生活をしたいと思うのが人情です。
だから稼ぎの多い江戸に来るのではないでしょうか」
「確かにその通りですね。
では手間をおかけすることになりますが、その篤志家の名主さんと話を付けて、越後の瞽女から話が聞けるように手配してくれますか」
「御任せください、姫様」
当麻殿は、仲介の労を取ってくれると快諾してくれました。
今更ですが、祖父や父から耳に胼胝が出来るほど聞かされていた理想論が、私の心の奥底に根付いている事に気付かされました。
何ができるか分かりませんが、明治維新という名の武装テロリスト達が壊してしまった障害者支援を、あの身勝手極まりないテロリスト達でも壊しようがないくらい強固に、この国に根付かせたくなってきました。
私は心を弾ませながら、昨日廻れなかった御稲荷様に参詣しました。
昨日と同じように、社の前に額づき請い願い祈りました。
元の世界に戻りたいと、真摯に請い願い祈りました。
赤い着物を着た童女に、この世界に連れてこられたのかもしれないと、多少恨みをを込めて祈り伝えました。
童女が御稲荷様の神使様なら、御稲荷様にも使用者責任があるのではありませんか、と少々脅すような事も考えてみました。
ですがそんな脅しでは、元の世界に戻してもらえませんでした。
日が暮れる前に田沼家上屋敷に戻ってきましたが、結構疲れてしまっていました。
「明日は今日廻れなかった御稲荷様を参詣します。
皆もその心算で早く休んで下さい」
「「「「「はっ」」」」」
江戸市中の御稲荷様廻りに付き合ってくれた、お登勢さんをはじめとした女中達は、部屋にまで案内してくれました。
彼女達には、明日も歩いて付き合ってもらわないといけないので、楓さんと今まで見た事もない若い女中が交代しました。
百合さんの事が気になりましたが、下手に彼女の事を聞いてしまうと、彼女が虐められる可能性があるので、我慢しました。
「神使様、湯殿の準備が出来ております。
まずは汗を御流しください」
湯殿の中まで付き合ってくれて、背中を流してくれるのは楓さんです。
私が汗と埃を流している間に、夕食が用意されていました。
私の疲れを考えてくれたのか、それとも私を刺激して将軍家に悪影響がないようにしたいのか、田沼親子は挨拶に来ませんでした。
「御毒見をさせて頂きます」
今日は今までやられていなかった、毒見が行われました。
それだけで、田沼親子が挨拶に来なかった、本当の理由が察せられました。
一橋と松平定信が動き出したのでしょう。
私が徳川家基暗殺の話を徳川家治と田沼意次にした事で、彼らを追い込んでしまったのかもしれません。
ですから、私に出された二つの膳の並んだ料理もすっかり冷めていて、所々毒見で食べた後があります。
しかも最後に私の目の前で、二人の女中がひと口ずつ食べるのです。
しかも手炙りで温め直した後で毒見してくれるので、熱々の食事という訳にはいかなくなりました。
まあ、それでも、元は田沼意次のために作られた膳の一つです。
とてもいい材料を使っているのは間違いありません。
それに、毒見を前提にして、今までよりも多めに盛り付けてくれています。
温め直しがまた冷めてしまっていようとも、美味しいはずです。
それに、空腹に勝る調味料などありませんから。
今日の私なら、何でも美味しく食べられるはずです。
一の膳には、玄米御飯に鰯つみれと若芽の味噌汁、鯵の刺身に浅利の胡麻味噌和え、それに鶏肝と大根と人参の煮物が乗せられていました。
二の膳には、蜆と若芽の御吸物と鱚の胡麻味噌焼きでした。
とても美味しくて、また三杯も玄米御飯を食べてしまいました。
ただ二の膳が何時も鱚なのは頂けません。
美味しくても飽きてしまいます。
それに漬物は、同じ大根の糠漬けと大蒜の梅酢漬けが添えられていました。
まあ、漬物が毎度同じなのは我慢します。
「楓さん、悪いですが、二の膳の鱚は毎食別の魚に変えるようにしてください。
鯖や鯵、鰯や鰆、幾らでも安くて美味しい魚はあるでしょう」
「承りました。
明日の朝食から献立を変えられるかどうかわかりませんが、出来るだけ早く変えさせていただきます」
「御願いしますね」
私は言いたいだけ言うと、直ぐに眠ってしまいました。
昨日ほどではありませんが、今日も疲れていたのだと思います。
「神使様、御目覚めでございますか」
「ええ、目が覚めたわ、百合さん」
「まだ夜が明けていませんが、身支度を整えさせて頂きましょうか」
「ええ、御願いします」
明日になるのか、それとももっと後になるかは分かりませんが、夜が明ける前に田沼家上屋敷を出て、品川宿の瞽女屋敷に行くことになるのです。
しかしながら、昨日から毒見を始めたのを考えれば、屋敷を出て遠出するのはとても危険だと思われます。
少なくとも、警備が整っているかどうかわからないような、本陣や宿屋み泊まらなければいけない遠出は、認められないと思われます。
早く起きてしまった影響でしょうか、それとも新しい女中に色々と教えるためでしょうか、今朝は時間をかけて身嗜みを整えてくれました。
朝食までまだ少し時間があったので、私は用を足した後で御稲荷様を詣でました。
若侍が鎧兜の完全武装で、槍を片手に襲撃に備えてくれています。
彼らを斃して襲撃を成功させるのが何大抵のことではないのは、この世界で生まれ育っていない私にも分かります。
若侍の眼に敵意が浮かんでいません。
初めて軽く目礼をしてくれます。
昨日までとは全く違う態度で接してくれます。
私は彼の主君である田沼意次に、随分と失礼な態度をとっています。
昨日までの、敵意の籠った態度をとられるのが普通なのですが、何故こんな風に変わったのでしょうか。
朝食の準備が整ったと呼びに来てくれるまで、元の世界に戻していただきたいと、一心に御稲荷様に請い願い祈りました。
哀しい事ですが、その想いは叶えてもらえませんでした。
長く朝露の中にいた所為で、すっかり体が冷えてしまいました。
その所為で、朝食前にもう一度用を足すことになってしまいました。
百合さんが朝食の準備が整ったと呼びに来てくれた時には、体が冷えているだけではなく、喉まで渇いてしまっていました。
ですが直ぐに御茶を飲む事もできませんでした。
「御毒見させていただきます」
御茶を飲むのも、百合さんと名も知らぬ初めて見る女中が、毒見してくれてから飲むことになりました。
私の隙を見て毒を盛る事ができるのは、徳川家基の例を考えれば分かる事です。
それなのに、田沼意次が新しい女中を数多く召し抱えたのは何故でしょうか。
私は兎も角、自分や息子を囮にしているのでしょうか。
徳川家治や徳川家基に向けられる刺客を自分に引き寄せて、二人の盾になろうとしているのでしょうか。
「料理人に、無理を言ってごめんなさいと伝えてください。
御陰でとても美味しく食べられました、とも伝えてください」
昨日の今日ですから、出入りの魚屋も大変だったでしょうが、鱚を違う料理に変えてくれていました。
流石に鱚を使わないわけにはいきませんでしたが、鱚は酢の物に流用して、鰯を塩焼きにしてくれていました。
明日からはもう少し高い魚を二の膳に使うのでしょう。
何といっても、同じ物を田沼意次と田沼意知も食べるのですから。
「承りました。
神使様から御褒めの言葉を頂き、料理人も感激する事でしょう」
百合さんがそう言ってくれました。
その言葉で、何とか上手くやれたのだと思えました。
厳しい身分差のあるこの世界で、上手く振舞えているか分からないのです。
誰かが教えてくれなければ、何も分からないのです。
最初は私も混乱していたのでしょう。
冷静に行動している心算で、色々と失敗していたのです。
今多少冷静になれたことで、当初の失敗が分かります。
ですが多少冷静になった心算の今の私も、後々考えれば、色々な失敗を重ねてしまっているのでしょうね。
それが分かっていても、何もせずに屋敷に籠っている気にはなれないのです。
不安と恐怖に追い立てられて、何かせずにはいられないのです。
危険だとは分かっていても、御稲荷様に参詣せずにはいられないのです。
それと同時に、この世界に対する興味がむくむくと湧いてきてしまいます。
色々と知りたいという気持ちが、抑えられなくなっています。
「神使様の麗しき御尊顔を拝し奉り、わたくしめ恐悦至極に存じ奉りまする」
朝食前に挨拶に来なかったから、今日も挨拶に来ないのだと思っていましたが、朝食後に田沼親子が挨拶に来てくれました。
何か重大な話があるのか、とても真剣な表情をしています。
私が徳川家基の事を罵り、奥医師の資格を売りたいと言ったことが、徳川家治の怒りを買ってしまったのでしょうか。
「何か重大な話しがあるようですね」
「はい、神使様の今後の事について、上様と話しをさせて頂きました。
幕閣の方々も、私の変化を見て賛同してくれました。
上様も快く御裁可をくださいました。
その事について御話しさせていただきます」
「分かりました、聞かせていただきましょう」
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