少女格闘伝説
第12話 帰ってきた少女7
マットに叩き付けられる度に、楓の意識は何度も消えかかる。
しだいに、自分の身体の力が奪い去られるのが判る。
今、フォールされたら、跳ね返せないかもしれないと思う。
そして、”あの時”と同じ感覚が訪れた。
神沢勇と闘った時と同じ感覚。
勇との記憶が、今の状況と重なり合う。
不思議な疑似体験。
デシャ・ビュのような感覚。
記憶がフラッシュバックし、時間が遅延していく。
人の身体が生命の危機にさらされた時、よく見られる現象である。
交通事故などで跳ね飛ばされたバイクの搭乗者が、スローモーションのようにはっきりと、細部まで、事故の様子を記憶していることは珍しいことではない。
むしろ、よく聞く話だ。
原理的には非常時に際して、普段は使われない右脳の機能が飛躍的に向上するという説明の仕方がある。
右脳は、直感的、映像的で瞬間的な状況判断を得意とし、非常に高速な情報の処理が可能である。
脳の情報処理速度が上がると、相対的に外界の現象の速度は遅くなる。
すなわち、時間の遅延である。
楓は特に右脳の機能が高い特殊な体質を有していた。
高速で、瞬間的な状況判断はプロレスなどにもってこいの能力である。
楓の強さの秘密のひとつでもある。
それに加え、無尽蔵の耐久力もある。
しかし、”あの時”、天才的プロレスラー神沢勇の技を楓は受け切れなかった。
立ち上がれなかった。
楓が初めて味あう屈辱だった。
いや、違う。
正確にはそれは自分自身の不甲斐なさに対する”怒り”と、その後にやってきた何とも言えぬ”解放感”の入り混じったとても複雑な感情であったはずだ。
だから、約束した。
もう一度リングに帰ってくると、再びここで闘おうと誓って、再起に賭けた。
二年にも及ぶ苦しいリハビリと、一年間の更に壮絶なトレーニングの日々が甦る。
苦しくて意識を失いそうになる度に勇の顔を思い出した。
力一杯、闘っている時の何とも幸福そうな表情。
そして、楓の身体を壊してしまった時に見せた、自分の技や力を全て解放して闘える相手を失ってしまった悲しみと孤独。
強すぎることが、どれほどの孤独をあの子にもたらしたのか、楓には想像もつかない。
楓を引退に追い込んでしまった後の勇の無惨な姿は彼女でさえ直視できなかった。
可愛そうなのはあの子だ。
誰かが、あの子の技を全て受けてやらないといけない。
私がもう一度、あの子の技を受けてやらないといけない。
そんな想いが楓を支え続けた。
今は、秋月玲奈という友達もできた。
でも、楓の復帰によって勇の心は完全に解放されるだろう。
お姉さんも少し混ぜて欲しいわ。
闘える相手がたくさんいた方が楽しいでしょう。
勇との約束を果たすことが、いつしか楓自身を支えて、解放してくれることになるだろう。
限りない慈しみと共感が楓の内に生まれた。
「………ワン………ツゥ………」
マットを叩く音が聞こえる。
楓は反射的に全身を使って跳ねるように肩を浮かした。
危なかった。
もう少しで、スリーカウントが入るところだった。
森谷美奈子の瞳は、信じられないものでも見たように、いっぱいに見開かれて、拳は怒りで震え始めていた。
瀕死のはずの楓がカウントスリー寸前で返してきたからだ。
楓に言わせると冗談ではないと言いたかった。
これぐらいでやられる柳沢楓ではない。
だが、美奈子は何故か、すぐに次の技を掛けることができなかった。
すでに二十回以上もジャーマンを繰り出し、しかもその前にジャイアントスイングを十回以上も回し、裏投げをまで使っている。
もう、美奈子には威力のあるフィニッシュホールドはない。
それに加えて、三十秒以上も動き続ければ、身体の中の酸素が全て空になってしまっているのだ。
動けるはずもない。
意識がはっきりしてくると、楓の心はとても冷酷な戦闘マシーンのように相手を分析し始めた。
意外とこの子、体力ないみたいね。
というより、回復が遅すぎるわ。
心の中で呟く。
この言い方は少し意味がちがう。
楓に比べてない、というだけだ。
新人としては、普通のプロレスラーとしても充分すぎる耐久力を持っている。
そして、今のダメージなら、楓が受け損なわなければ全く問題ないことがはっきりしてしまった。
美奈子の今の技と力では楓を倒すことはできない。
さっきはただ、不意を突かれただけだ。
「どうしたの? もう技はないの?」
楓はゆっくりと立ち上がる。
「ほら、投げてみなさい」
圧倒され、震えながら美奈子が投げようとする。
「うぁっ!!」
全く力の抜けた楓の身体を美奈子は必死に投げ続けた。
死にもの狂いの表情で、楓を投げ抜いた美奈子はマットにへたり込む。
彼女にもう闘う力は残されていなかった。
微笑みをたたえながら、楓がむくりと起き上がる。
「技は一撃必殺じゃないと駄目よ」
楓は優しい視線を美奈子に注いでいた。
美奈子が叫ぶ。
「どうして、どうしてよ!」
何気ない仕草で、美奈子の腰をホールドすると、楓は平凡なサイドスープレックスの体勢に入った。
角度も厳しくない、平凡な技である。
一閃。
技の瞬間がほとんどの人々には見えなかった。
おそらく、誰にも何が起こったのさえ分からなかったはずだ。
鈍い音がして、美奈子の身体は完全にのびていた。
その結果を見届けることもなく、楓は自分のコーナーへとさっさと帰ってしまった。
コーナーポストを背にして、両手でロープを掴んで、軽く身体をもたれかけた。
レフリーが慌てて駆け寄り、美奈子の頬を叩いていたが、すぐにゴングを要請した。
柳沢楓のノックアウト勝ちであった。
結局、楓が使った技は最後のサイドスープレックスのみである。
楓は相手を受け潰して勝利を収めたことになる。
前代未聞の闘い方だろう。
試合が終わって、楓はロープに身体を預けてひと息ついた。
ブランクもあったし、流石に疲労がどっと出て、身体のいたる所に痛みを感じはじめていた。
その時、異変は起こった。
楓たちとは反対側のコーナーから、数人のレスラーが凶器を振りかざして乱入してきた。
「どうやら、真打ちの登場ねえ。楓、もう、それをはずしてもいいわよ。思いっきりやってきなさい」
セコンドの神沢恭子が目配せした。
「はい!」
凄味のある柳沢楓が、今、ベールを脱ごうとしていた。
< 第二章 完 >
しだいに、自分の身体の力が奪い去られるのが判る。
今、フォールされたら、跳ね返せないかもしれないと思う。
そして、”あの時”と同じ感覚が訪れた。
神沢勇と闘った時と同じ感覚。
勇との記憶が、今の状況と重なり合う。
不思議な疑似体験。
デシャ・ビュのような感覚。
記憶がフラッシュバックし、時間が遅延していく。
人の身体が生命の危機にさらされた時、よく見られる現象である。
交通事故などで跳ね飛ばされたバイクの搭乗者が、スローモーションのようにはっきりと、細部まで、事故の様子を記憶していることは珍しいことではない。
むしろ、よく聞く話だ。
原理的には非常時に際して、普段は使われない右脳の機能が飛躍的に向上するという説明の仕方がある。
右脳は、直感的、映像的で瞬間的な状況判断を得意とし、非常に高速な情報の処理が可能である。
脳の情報処理速度が上がると、相対的に外界の現象の速度は遅くなる。
すなわち、時間の遅延である。
楓は特に右脳の機能が高い特殊な体質を有していた。
高速で、瞬間的な状況判断はプロレスなどにもってこいの能力である。
楓の強さの秘密のひとつでもある。
それに加え、無尽蔵の耐久力もある。
しかし、”あの時”、天才的プロレスラー神沢勇の技を楓は受け切れなかった。
立ち上がれなかった。
楓が初めて味あう屈辱だった。
いや、違う。
正確にはそれは自分自身の不甲斐なさに対する”怒り”と、その後にやってきた何とも言えぬ”解放感”の入り混じったとても複雑な感情であったはずだ。
だから、約束した。
もう一度リングに帰ってくると、再びここで闘おうと誓って、再起に賭けた。
二年にも及ぶ苦しいリハビリと、一年間の更に壮絶なトレーニングの日々が甦る。
苦しくて意識を失いそうになる度に勇の顔を思い出した。
力一杯、闘っている時の何とも幸福そうな表情。
そして、楓の身体を壊してしまった時に見せた、自分の技や力を全て解放して闘える相手を失ってしまった悲しみと孤独。
強すぎることが、どれほどの孤独をあの子にもたらしたのか、楓には想像もつかない。
楓を引退に追い込んでしまった後の勇の無惨な姿は彼女でさえ直視できなかった。
可愛そうなのはあの子だ。
誰かが、あの子の技を全て受けてやらないといけない。
私がもう一度、あの子の技を受けてやらないといけない。
そんな想いが楓を支え続けた。
今は、秋月玲奈という友達もできた。
でも、楓の復帰によって勇の心は完全に解放されるだろう。
お姉さんも少し混ぜて欲しいわ。
闘える相手がたくさんいた方が楽しいでしょう。
勇との約束を果たすことが、いつしか楓自身を支えて、解放してくれることになるだろう。
限りない慈しみと共感が楓の内に生まれた。
「………ワン………ツゥ………」
マットを叩く音が聞こえる。
楓は反射的に全身を使って跳ねるように肩を浮かした。
危なかった。
もう少しで、スリーカウントが入るところだった。
森谷美奈子の瞳は、信じられないものでも見たように、いっぱいに見開かれて、拳は怒りで震え始めていた。
瀕死のはずの楓がカウントスリー寸前で返してきたからだ。
楓に言わせると冗談ではないと言いたかった。
これぐらいでやられる柳沢楓ではない。
だが、美奈子は何故か、すぐに次の技を掛けることができなかった。
すでに二十回以上もジャーマンを繰り出し、しかもその前にジャイアントスイングを十回以上も回し、裏投げをまで使っている。
もう、美奈子には威力のあるフィニッシュホールドはない。
それに加えて、三十秒以上も動き続ければ、身体の中の酸素が全て空になってしまっているのだ。
動けるはずもない。
意識がはっきりしてくると、楓の心はとても冷酷な戦闘マシーンのように相手を分析し始めた。
意外とこの子、体力ないみたいね。
というより、回復が遅すぎるわ。
心の中で呟く。
この言い方は少し意味がちがう。
楓に比べてない、というだけだ。
新人としては、普通のプロレスラーとしても充分すぎる耐久力を持っている。
そして、今のダメージなら、楓が受け損なわなければ全く問題ないことがはっきりしてしまった。
美奈子の今の技と力では楓を倒すことはできない。
さっきはただ、不意を突かれただけだ。
「どうしたの? もう技はないの?」
楓はゆっくりと立ち上がる。
「ほら、投げてみなさい」
圧倒され、震えながら美奈子が投げようとする。
「うぁっ!!」
全く力の抜けた楓の身体を美奈子は必死に投げ続けた。
死にもの狂いの表情で、楓を投げ抜いた美奈子はマットにへたり込む。
彼女にもう闘う力は残されていなかった。
微笑みをたたえながら、楓がむくりと起き上がる。
「技は一撃必殺じゃないと駄目よ」
楓は優しい視線を美奈子に注いでいた。
美奈子が叫ぶ。
「どうして、どうしてよ!」
何気ない仕草で、美奈子の腰をホールドすると、楓は平凡なサイドスープレックスの体勢に入った。
角度も厳しくない、平凡な技である。
一閃。
技の瞬間がほとんどの人々には見えなかった。
おそらく、誰にも何が起こったのさえ分からなかったはずだ。
鈍い音がして、美奈子の身体は完全にのびていた。
その結果を見届けることもなく、楓は自分のコーナーへとさっさと帰ってしまった。
コーナーポストを背にして、両手でロープを掴んで、軽く身体をもたれかけた。
レフリーが慌てて駆け寄り、美奈子の頬を叩いていたが、すぐにゴングを要請した。
柳沢楓のノックアウト勝ちであった。
結局、楓が使った技は最後のサイドスープレックスのみである。
楓は相手を受け潰して勝利を収めたことになる。
前代未聞の闘い方だろう。
試合が終わって、楓はロープに身体を預けてひと息ついた。
ブランクもあったし、流石に疲労がどっと出て、身体のいたる所に痛みを感じはじめていた。
その時、異変は起こった。
楓たちとは反対側のコーナーから、数人のレスラーが凶器を振りかざして乱入してきた。
「どうやら、真打ちの登場ねえ。楓、もう、それをはずしてもいいわよ。思いっきりやってきなさい」
セコンドの神沢恭子が目配せした。
「はい!」
凄味のある柳沢楓が、今、ベールを脱ごうとしていた。
< 第二章 完 >
「現代アクション」の人気作品
書籍化作品
-
-
55
-
-
20
-
-
89
-
-
439
-
-
516
-
-
104
-
-
59
-
-
125
-
-
1978
コメント