少女格闘伝説

坂崎文明

第8話 帰ってきた少女3

先に動いたのは美奈子だった。

するするとなにげない様子で、間合いに入るといきなり蹴りを放ってきた。

ローキックである。

二、三発いいのが、楓の両足に入った。

楓も定跡通りに、膝を少し曲げて、足を浮かせて丁寧に防御する。

衝撃を巧みに逃がしている。

柳に雪折れなしという、諺がある。

空手などの試し蹴りで、バットを三本ほどまとめて、固定して折るというデモンストレーションがあるが、実はあれはコツさえ掴めば意外とたやすく折れるものだ。

しかし、風になびく柳のあのか弱い枝を折ることは、かなり難しい。

力が分散されるからだ。



それでも美奈子の蹴りは、新人離れした威力を持っていた。

同期のレスラーで美奈子の蹴り技を三発以上受けて、立っていられる者はほとんどいない。

楓はそんな蹴りを平然と受け流している。

体力、耐久力もさることながら、基本の技術力の高さは群を抜いている。

勇には分かるが、観客はそんなことに気づかない。

およそ三年のブランクは、プロレスファンの頭から柳沢楓の名を消し去るのに十分な長さである。

名前も知らないレスラーを応援するファンはいない。



突如、美奈子の左足が加速して、楓の側頭部を襲った。

美しい軌跡は残像さえ残さない。

綺麗なハイキックだ。

楓が右手のガードを下げたわずかな隙を逃さず、美奈子の足が跳ね上がったのだ。

ノーガードでまともにくらってしまった。

楓の身体がロープに吹っ飛ぶ。

大げさな演技に見えるが、楓の意識は既に飛んでいるに違いない。

本能的な回避行動が働いて、楓の身体はロープの間からリング下に滑り落ちた。

半ば無意識の行動である。



20カウント以内に生還できなければ、そこで勝負はついてしまう。

リングアウト負けだ。

だが、楓の魂は夢の中をさまよい、一向に還ってくる気配はなかった。

「まずいわ」

神沢勇の表情はいつになく厳しかった。

「どうして?お得意の演技じゃないんですか?」

風森怜が不思議そうに尋ねた。

「確かに、いつもならそうかも知れないけど。いくら楓先輩が受けの達人でも、ノーガードで頭へまともにくらったら、ひとたまりもないわ。そんなに甘い蹴りではないわ」

怜は動揺した。


柳沢楓は、受け身に関してはスペシャリストである。

試合中にその特性を生かして、いわゆる”死んだふり”をすることによって試合を盛り上げ、逆転を演出したのは一度や二度ではない。

まさに千両役者、『逆転の魔術師』の仇名は伊達じゃない。

が、今回だけは勝手が違った。

回り込んだカメラが、うつ伏せに倒れている楓を捉えた。

リング下の楓の身体はぴくりとも動かない。

無情にも、アウトカウントは続く。

「楓先輩! 立ってください!」

勇は、闇の中で輝くブラウン管に向かって叫んでいた。

テレビの試合画面の中には、そんな声は届くはずもなかった。

頭では分かっていても、口が自然に動いていた。

「こんなんで負けたら承知しないですよ! 私ともう一度、試合をして下さい! 約束したじゃないですか!」

だが、勇の願いは、むなしく虚空に消えてゆく。


いつしか。

勇の心は『あの日』へと遡行していた。

勇とのプロテストで肩を砕かれた楓は、ベットの上から勇に優しい言葉をかけた。

「あなたは気にしなくていいのよ。私の受け損ないよ。もう、泣くのはやめて」

勇の止まらない涙を楓は指先でぬぐった。

一瞬、顔をしかめる。

おそらく、激痛が走ったのだろう。

彼女の肩は厳重なギブスで固定されていて、少しでも動けば、常人には耐えられないほどの痛みがあるはずだ。

だが、楓はすぐさま表情を元通りに戻して、勇のことをいたわった。

慈しみと包容力。

楓の心には憎しみのかけらもない。



いっそのこと、激しく憎んでくれれば勇の心は反対に安らいでいたかも知れない。

柳沢楓は憎まず、ひがまず、逃げず、何事もいつも正面から受け止める少女であった。

しなやかであるが、強靭な精神をもつ彼女は、周りからみれば、なんて馬鹿正直なんだといわれるほど不器用な選手だった。

だが、それゆえに今の彼女があるし、勇はそんな楓のことが好きだったはずだ。


『あの』プロテスト時もそうではなかったか?

しだいに開かれてゆく勇の心と身体が、『あの』技を出させたのではないか?

一生に一度、出せるかどうかわからない程の最高威力をもつ、ジャーマンスープレックスホールドを。

「楓先輩、立ってください!」

もう何度目かの叫び声は、すっかりかすれてしまっていて、勇の声はがらがらになりつつあった。

勇の興奮は、いつも冷静なはずの怜の心さえも揺さぶった。

無駄だと判っていても、釣りこまれるように声が出ていた。

ふたりの心の叫びは、楓には届きはしないように見えた。

          

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