儀式~百襲媛疾風伝~

坂崎文明

さらば、私のいとしい人 

温羅うら、ごめんなさい。大和のために、あなたを止めないといけません」

大和朝廷最強の巫女、百襲媛ももそひめは朱色の豪弓を引きしぼった。
しゅをかけて古代道術による術式も施してある必殺の神弓である。
外れることはおそらく、ない。

吉備国の鬼ノ城に立て篭もる最強の鬼神<温羅>、百済の皇子とも言われている彼は百襲媛の想い人であり、讃岐で秘かに子供をもうけた深い間柄であった。

「姉さま……」

異母弟の稚武彦命わかたけひこのみことは彼女の苦悩する横顔に言葉をかけることはできなかった。
古代道術を駆使して猛威を振る温羅を止める呪力をもつのは百襲媛しかいないことを熟知していた。

異母兄である五十狭芹彦命いさせりひこのみこと(後の吉備津彦)率いる大和朝廷軍全軍の勝利と命運がかかった一弓である。
個人的感傷でもはやどうすることもできなかった。
引き返せないほどの兵の犠牲をすでに支払っていた。

左手の親指を小刀で切って血潮で紅を引く。
イザナギ流の古代道術、弓矢必中の呪術儀式である。

「さらば、私のいとしい人」

囁くようにつぶやいて、百襲媛は神矢を放った。
紅い閃光のような神矢が一直線に温羅の呪力の源である青い左目を貫いた。
崩れおちる鬼神を見届けると、百襲媛も大地に膝から崩れるように手をついた。
一筋の涙がこぼれる。
血潮で描かれた赤い口紅が美しく、心なしか物悲しく見えた

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