シーマン

文戸玲

健司さん


「名前は?」
「祐輔です」
「そうか,健司だ」


 今かよ,と心の中でツッコミを入れながら,おれも健司さんの名前を把握していなかったことに気付く。心のツッコミが口に出ていなかったかとどきりとしたが,どうやら心配はなさそうだ。

 自己紹介,というにはあまりにもそっけないお互いの紹介が終わったところで,健司さんは手を伸ばす。
 やばい,と思って思わず目をつぶる。手を伸ばしては叩かれる。この出来事を何度繰り返すつもりだと,刷り込みのように体に染みついてしまっていた。

 ところが,今度は空気を震わす乾いた音が聞こえない。
 そっと目を開けると,健司さんと祐輔くんはがっちりと手を握り合っている。握手だ。


「本当に,すみませんでした」
「いや,こちらこそ,手を挙げて悪かった。絶対にやってはならないことだ。祐輔くんが警察にでも突き出すというのなら,従おう」
「とんでもございません。どんな償いでもしようと思っています」
「そうか・・・・・・。おれがどうして祐輔くんを殴ったか,分かるか?」


 祐輔くんは,黙り込んだ。
 そして,しばらく考え込んで,言葉を選ぶようにしていった。

「ぼくのことが許す得ないからです。社会のルールから逸脱して,逃げるような男が許せないからです。自Bんでもそう思い・・・・・・」
「息子を愛しているからだ」


 しんと静まる。喫煙スペースの向こう側の公園で,お父さんと子どもの遊ぶ声が無邪気に響いている。


「君も,君たちも人の親になれば分かる日くる。我が子を大切に思わない親は,いない。人を傷つけてはいけない,どんな時も手を挙げてはいけない,そんなことはどんな馬鹿でも知っている。それでも,我が子を思って手を出してしまう。親というのは,そういうものなんだ」


 「自分がしたことを正当化しているみたいだが,そうじゃない」と,健司さんは改めて祐輔くんに詫びを入れて続ける。


「いいか,親を悲しませたらいけない。おれは,大貴の命に別状はないと聞いて心底ほっとした。でもな,祐輔くん。君にも親がいるんだ。君が傷つく姿は見たくないし,人を傷つけた罪を一生背負いながら,何よりもきつい重りを引きずりながら暮らす姿を見たい訳がない。今回のことを,運が良かったと思わうに,変わってほしい。親の顔を思い出してみろ。親も人間だからな,理不尽なことをいったり,心が疲れて手を挙げてしまうこともあるかもしれん。でも,愛情を与えたいと心底思っているんだ。それがうまく表現できなかったり,自分の心の弱さに負けてつい傷つけてしまう人もいるが,腹を痛めて生んだ我が子は何よりも宝なんだ」


 顔も知らない大貴の母親が浮かぶ。きっと,健司さんも同じひとぉ思い浮かべているに違いない。


「ぼく,変わります」


 男泣きをしながら祐輔くんは誓う。
 雲の切れ間から日が差し,後光のように喫煙所を照りつける。こんなに美しい喫煙所が,他にあるだろうか。


「こんな化け物みたいな生き物を,待合室に置いといたらみんなたまげてまうやろ」


 いつの間にか,鼻を真っ赤にはらした大貴が入口に立っていた。
 なぜか,水槽の中にいるシーマンも泡を吐き出しながら泣いている。


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