シーマン

文戸玲

エントランス


 おれは今,膝を震わせながらアパートの前に立っている。
 オートロックの備わったガラス扉の向こう側には広々としたエントランスがあり,名前も知らない高級感のある観葉植物や,座り心地がよさそうなソファが置かれている。
 もちろん,おれのアパートではない。


「なんで美緒ちゃんのアパートに来たんだ? ってか,なんで知っているんだよ」
「わしゃなんだって知っとる。それより,覚悟は決まったか?」


 覚悟,そう呟いてから,水槽を持った大貴に尋ねた。


「何の覚悟だ? それに,お前は女子がポーチを持ち歩くみたいに水槽を持ってるが,そうでもしないと落ち着かないのか?」
「清介,この数日間何のために腕立て伏せしてん。サスケに出るためちゃうやろ?」
「自信をつけるためにひたすら腕立て伏せをした。ついたのは筋肉だけどな」


 言いながら,たった数日間の筋トレでは大して筋肉量が増えたわけではないのは分かっていた。
 でも,マッチョがやたら脱ぎたがったり,松本人志がぴちぴちのシャツを着たがったりする気持ちが何となくわかる。体の内側から溢れ出る自信,まとうオーラ,それが自分を大きく見せ,人の上に立つべく男の風格を醸し出しているような錯覚に陥らせるのだ!


「『陥らせるのだ!』じゃないんよ。大貴,番号押しちゃれ」


 また心の声が表に出ていたのか! 恥ずかしくて悶絶しているおれをよそに,シーマンは大貴に番号を告げた。
 大貴は興奮しながら,言われるままにインターホンが付いたオートロック解除ボタンを手際よく押している。

 ピーッ,と無機質な高い音が鳴り響くと,エントランスへと続くガラス扉が開いた。


「まさか・・・・・・オートロックを解除したのか?」


 おー,と感嘆の声をあげる大貴と,ご機嫌そうに口から泡を吐くシーマンの前立ちふさがる。


「いったいどうなってるんだよ! 無理無理!」
「急にネガティブやな。プッシュアップいっとくか」
「上半身裸の方がええかもしれんの」
「一人やったら恥ずいやんな? おれも脱いだるわ」


 大貴は水槽を床に置いて,Tシャツを脱ぎ始めた。

「待て待て。分かったから,行から服を脱ぐのはやめてくれ」


 それなら最初からそうしろよ,と楽しそうに大貴は服を着て水槽を抱え直す。水槽の中ではシーマンがひれで身体をこすりつけていた。


まさかこいつ,うろこでも落とそうとしていたのか?


 ため息をつきながら,先へと進む大貴たちの後をとぼとぼと追いかけた。


「せめてエントランスに戻って,部屋のインターホン鳴らしてから行かない?」


 そう問いかけると,大貴は階段のエレベーターに向かう途中で水槽を床におろし,Tシャツの裾に手を掛けた。


「分かった! もう何も言わないから! だから脱がないでくれ!」


 なるようになれ! 半ば投げやりになって,筋肉痛の胸筋をそらしながらエレベーターへと乗り込んだ。


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