俺の弟

黒うさぎ

俺の弟

「エースケ、ちょっとこっちにこい」


 呼びかけに足を止めたエースケだったが、カイトのことを一瞥しただけで再び歩きだし廊下の先へと姿を消していった。


「全く、相変わらず無愛想なやつだなあ。
 誰に似たんだか」


 手の中にある爪切りをカチカチと鳴らす。
 エースケの爪切りはカイトの担当なのである。
 以前は母さんや親父が切っていたこともあったが、毎回祭りのような大騒ぎだった。
 エースケは爪切りが苦手なのだ。
 普段は大人しいエースケだが、爪を切られると分かった途端、頭が割れそうなほど大きな声でなき始める。
 嫌がるエースケをみると心苦しくなるが、それでもどこかに引っ掻けたりすると危ないので爪は切らなくてはならない。
 毎回四苦八苦しながら爪を切っていた。


 そんなある日、カイトがエースケの爪を切ることになった。
 どうしてそういう流れになったのかはよく覚えていない。
 カイトが申し出たのか、はたまた母さんがやらせようとしたのか。
 とにかくエースケの爪を切ることになったカイトは床に胡座をかくと、小さなエースケを足の上にのせた。


 いつもの大騒ぎを見ているカイトとしてはいつなき出すか気が気ではなかったのだが、結果からいうとその心配は杞憂だった。
 どういうわけかいつもなら爪切りを見せるだけでなき出すエースケが、カイトの膝の上で大人しくしていたのだ。
 ぎこちない手つきでカイトが爪を切り終わるまで、エースケが暴れることはなかった。


 それからというものエースケの爪切りはカイトの担当となった。
 両親、とくに母さんは自分よりもカイトに懐くエースケに複雑な感情を抱いていたようだが、それでもエースケのことを考えてカイトに爪切りを一任してくれた。


 その頃からだろう。
 カイトがエースケのことを本当の弟のように可愛がるようになったのは。


 ◇


 エースケがうちに来たのは、カイトが8歳のころだった。
 おぼろげな記憶ではあるが、生まれてまもないエースケを抱いた母さんが、親父と一緒に帰ってきた日のことは憶えている。


「カイト、お前は今日からお兄ちゃんになるんだ」


 親父にそういわれた。
 初めはどう接したらいいのかわからなかった。
 突如としてうちに現れた、己よりも小さな存在に戸惑いが隠せなかったのだ。
 親父や母さんに可愛がられる姿を見ていると、なぜだか寂しい気持ちになった。
 本来ならあそこにいるのは自分のはずなのに。
 幼いながら、カイトは疎外感を覚えていたのかもしれない。


 しかしながら、そのエースケに対する薄暗い気持ちはすぐになくなった。
 ある日、母さんに「カイトくんも撫でてみる?」といわれた。
 正直、撫でたいとは思わなかった。
 なんというか、得体の知れないものに対する恐怖心のようなものがあったのだ。
 だが、笑顔をこちらに向ける母さんを見ると、どうにも断れなかった。
 恐る恐る小さな頭に手を伸ばした。
 手のひらにほのかな温もりを感じる。


「優しく撫でてあげてね」


 母さんの忠告を聞いて、手の力を抜きゆっくりとエースケの頭を撫でた。
 サラサラとした手触りが気持ちよかった。
 ゆっくり、ゆっくり頭に乗せた手を往復する。
 するとエースケが心地良さそうな声を漏らしたのだ。
 その瞬間、カイトの中でエースケに対する嫉妬心が消え失せ、家族の一員として迎え入れる心の準備が出来た。
 この簡単に壊れてしまいそうな小さな存在は自分を害するものではない。
 自分が守ってあげなくては。
 そう思えるようになったのだ。


 ◇


 エースケがうちに来てからもう6年もたつ。
 カイトとしてはもっと可愛がりたいのだが、その気持ちは一方通行のようだ。
 その愛情が鬱陶しいのだろう。
 話しかけても無視されるなんて日常茶飯事である。
 だが、エースケに嫌われているのかというとそんなことはないと思う。
 ふらっと現れたかと思うといつの間にかカイトのベッドで寝ていることがある。
 どうやら自分のよりもカイトのベッドの方が落ちつくらしい。
 過剰に構われるのは嫌だが、同じ時、同じ空間を共有するのはやぶさかではないようだ。
 エースケもお年頃なのだ。
 兄としてはもう少しスキンシップをしたいところだが、最近では自身のベッドで眠るエースケの姿を眺めるのもいいものだと思えるようになった。
 なにも可愛がることだけが愛情ではないだろう。
 寂しい気持ちがないといえば嘘になるが、今の距離感がちょうどいいのかもしれない。


 ◇


 ある日、庭でエースケとボールで遊んでいたときのことだった。
 エースケにキャッチボールは無理なので、カイトが転がしたボールをエースケが捕まえるという遊びだ。
 100円ショップで買ったプラスチック製の軽いボールをエースケに向かって転がす。
 初めは普通に転がしていただけだった。
 元気にボールを追いかけるエースケの姿を見ているとそれでも十分に楽しくはあったが、しかしながらカイトとしては少し刺激が足りなかった。
 そこで転がすボールの速度をあげたり、ボールをバウンドさせて投げたりもした。
 エースケも楽しそうにボールを追いかけていたと思う。


 そこでやめておけばよかったのだろう。
 だが興がのり始めたカイトはボールを思いきり上に投げたのだ。
 使っているのは野球ボールではなく、ペコペコしているプラスチック製のボールだ。
 例え直撃したとしてもエースケが怪我をすることはないという判断だった。


 眩しい日差しに目を細めながらカイトとエースケは小さくなっていくボールを仰ぎ見た。
 縮小が止まり、重力にしたがって落ちてくるボールを目で追いかける。
 あっという間に落ちてきたボールは――――――。


「あっ……」


 カサッという音とともに庭に生えている松の上に落下した。


 呆然と立ち尽くすカイトとエースケ。
 ボールが乗っかっているのは4mほどの位置だろう。
 木を登ってとろうにも枝が細く、カイトの体重に耐えられるか怪しい。
 梯子があれば届くだろうが、あいにくそんなものは我が家にはない。
 後出来ることといえば運良く風で落ちてくるのを祈ることだけだろう。
 つまりお手上げということだった。


「ごめんな、エースケ」


 楽しく遊んでいたのに、カイトがふざけたせいでその時間が終わりになってしまった。
 申し訳ない気持ちで一杯になり、ポロッと謝罪の言葉が口を出た。
 小さくなるカイトの様子をエースケはただ黙ってじっと見ていた。


 ◇


 その日の晩。


「エースケ、ご飯だぞ」


 カイトの声が響く。
 いつもならすぐに顔を出すエースケだが、どういうわけか今日は姿が見えない。


「?
 エースケ、おーいご飯だぞ」


 再度呼びかけてみるが、カイトの声が虚しく消えていくだけで、一向にエースケが姿を見せる気配はなかった。


 こういう日がないわけではない。
 寝ていたりして気がつかないことがあるからだ。
 ただ、今日はどうにも胸騒ぎがした。
 何かエースケに悪いことが起こっている気がする。


「っ……!」


 不安に駆られたカイトは家中を探し回った。
 エースケの寝る部屋やカイトのベッドなどいそうな場所を手当たり次第に見て回ったが、どこにもエースケの姿はなかった。


「いったいどこにいったんだ?」


 得体の知れない不安に心を蝕まれていく。


(もしもエースケに何かあったら……)


 そんな縁起でもない思考が脳内を駆け巡る。


(どこだ、どこだ、どこだ。
 どこにいる、エースケッ!)


 鼓動が早くなり、冷や汗が背中を濡らす。
 呼吸が苦しい。


 その時だった。


(―――――――)


「?」


(―――――――)


「この声はっ!」


 カイトは慌てて声のする方へと走り出した。
 聞き間違えるはずがない。
 あの声はエースケのなき声だ。


 履き潰した靴の踵を直すことすらもどかしく思いながら、カイトは家の扉を開けた。


「――――――」


「エースケッ!」


 エースケの声がする方へと視線を向ける。


 するとそこには木の上で震えているエースケの姿があった。


「エースケ!
 お前なんでそんなところに。
 いや、そんなことは今はいい。
 エースケ、今助けてやるから、そこでじっとしてろよ」


 急いで木に駆け寄ると、どうにかよじ登ろうと足をかける。
 しかしながら、カイトに木登りの経験なんてなかった。
 一歩目は体を持ち上げることができたものの、そこからの登りかたがわからない。
 強引に体を持ち上げようにも、華奢なカイトにそんな筋力はなかった。


(くそっ!
 こんなことなら筋トレでもしておけばよかった)


 しかし今そんなことを嘆いていても仕方がない。
 いったいどうすれば。
 このままではエースケがいつ足を滑らせるかわからない。


「ゴメン、エースケ。
 親父を呼んでくるからもう少しだけ待っていてくれ」


 自分一人で考えていたって埒が明かない。
 親父なら何かエースケを助けるためのいいアイディアを考えつくかもしれない。


 エースケに背を向け、家の中にいる親父の元へ駆け出そうとしたそのときだった。


「あっ……」


 まるでスローモーションのようだった。
 足を滑らせたエースケが木の上から落ちていくのがコマ送りのように見える。
 慌てて手を差し出そうとするが、体が思うように動かない。
 ひどく緩慢な動きで伸ばされていく己の腕をもどかしく思う。


(くそっ、届かないッ!)


 差し出した手をすり抜けるように、地面に吸い込まれていくエースケ。


 考えたくもない数瞬先のエースケの姿が脳裏をよぎる。


(ダメだ、ダメだ……)


 どれだけ心の中で叫ぼうとも時間を止めることはできない。
 カイトの嘆きも虚しくその時は訪れる。


 前傾姿勢のまま落下したエースケは――――――。


 スタッと着地すると「ニャーゴ」と一鳴きした。


 何事もなかったかのように足元へすり寄ってくるエースケの姿を見て、カイトは体の力が抜けるのを感じた。


「エースケ、お前なあ……。
 今まで木に登ったことなんてなかっただろ。
 心配させるなよ、まったく」


 少し乱暴に小さな頭を撫でる。


 その手つきが嫌だったのか、エースケはカイトの手の下から脱け出すと、トテトテと歩いていく。
 そして目当てのものの元までくると、前足で器用に転がして寄越した。


「……お前、まさかこれをとるために木に登ったのか」


「ニャーゴ」


 それはカイトが木の上に乗せてしまったボールだった。


 体の底から温かな気持ちが湧き上がってくるのを感じた。


「エースケ~!」


 我慢できずにエースケに飛びつくと、ぎゅっと抱きしめる。
 腕の中でエースケが苦しそうな声を漏らしているが、少しの間だけ我慢して欲しい。


 このいじらしい弟を可愛がるのをやめるのはもう少し後でもいいかもしれない。
 エースケの体温を感じながらそう思った。






 俺の弟  完



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