二人の境界

黒うさぎ

二人の境界

 その日、世界に激震が走った。
 絶対の安全性をうたわれていたアンドロイドが、人間を殺害したのだ。


 アンドロイドが人間社会の一部になって半世紀。
 人々にとってアンドロイドは、生活を送るうえで欠かせない存在となっていた。
 例えば、家事だ。
 以前はホームシッターなる職業があったようだが、今ではどの家庭でもアンドロイドが家事を代行している。
 炊事、洗濯はもちろん、子供の送迎までなんでもこなす。


 そんなアンドロイドだが、その見た目はほとんど人間とかわらない。
 人工皮膚に覆われた体は柔らかく、また、動力源から放出される余熱を、人工血液を通して身体中に運搬することで、常に体表温度を三十六度に保っている。
 目隠しをしてしまえば、握手をしている相手が人間か、それともアンドロイドか、判別できる者はいないだろう。


 また、アンドロイドは人工消化管やその他人工臓器を搭載しているため、人間と同じように食物からエネルギーを獲ることができる。


 なぜこれほどまでに、アンドロイドは人間と似ているのか。


 それはアンドロイドを製造するうえで、常に人間を参考にしていたからだろう。
 人の世に溶け込むために、アンドロイドは人型である必要があった。
 当然ではあるが、人間社会は人間が生活することを想定してつくられている。
 そのため、人間を補助するという役目をまっとうするうえで、人型であることが最善の形だった。


 そして現状、アンドロイド製造において、人間を象った体を活動させるうえで最も効率がいい方法は、人間を模倣することだという結論がでている。
 見た目はもちろん、体内に人工臓器を備え付けるところまで人間そっくりだ。


 唯一の違いといえば、右のこめかみにアンドロイドを示す印字があることくらいだろうか。
 この印字は法律で隠すことを禁止されているため、基本的にアンドロイドの髪は短いものが多く、長いものでも印字を隠さないよう結ぶなど何らかの対策がとられている。


 このアンドロイドが半世紀という間に、人間社会に浸透した理由。
 それはその絶対的な安全性にあるだろう。


 人工知能連動制御システム。
 すべてのアンドロイドはこのシステムの監視下に置かれ、制御されている。
 現時点において、最高性能とされている量子コンピュータ「∞」によって機能しているこのシステムは、大きく分けて三条からなる、ロボット工学三原則に従っている。


 第一条
 ロボットは人間に危害を加えてはならない。
 また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。


 第二条
 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。
 ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。


 第三条
 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。


(出典:アイザック・アシモフ『われはロボット』小尾芙佐訳、早川書房)


 この三条が人工知能連動制御システムによって守られている限り、アンドロイドが人間を傷つけることはない。
 実際にアンドロイドが起こした事故というのは、システムが未熟だった頃に数件あっただけであり、ここ四十年以上は世界的にみても一件の例外もなく無事故であるといわれている。
 また、過去にあった事故に関しても、人間を傷つけた例はなかった。


 人間を害することはないと、半世紀にも渡って信じられていたアンドロイドが人間を殺害した。
 この事実は人々の心に大きな動揺をもたらした。


 ◇


 ロンはしがない会社員だった。
 朝起きてジャムを塗ったトーストをかじり、くたびれたスーツに着替えて会社へ向かう。
 通信技術をはじめ、あらゆる科学が発達した現代において、もはや化石と形容してもいいような書類仕事を黙々とこなし、いくらかのサービス残業をしてから家に帰る。


 社会を構築する、小さな歯車の一つくらいには価値のある生活を送っていたと思う。
 薄給で、経営も順調とはいえなかったが、同僚の皆は親切であり、特段ブラック企業というわけでもなかったため、職場に不満はなかった。
 晩酌として缶ビールを飲みながら、「ケイト」の作った料理を食べることだけを一日の楽しみにしていたロンは、こんな生活がいつまでも続くのだと思っていた。


 だが、人生とはままならないものだということを思いしることになる。


 いつも通り、会社からの帰宅途中だったロンは、最寄り駅から自宅に向かって歩いていた。
 街灯によって照らされた夜道は、夜であるにも関わらず昼間のように視界が確保されていて、かといって不快な眩しさがあるわけでもない。


 門外漢であるロンには、どういう原理で明るいのかさっぱりだったが、便利な世の中になったと思う。


「んん……」


 周囲に人影がないことを確認してから、伸びをする。
 過酷な労働環境ではないとはいえ、週末ともなると、疲労が蓄積する。
 幸い明日は休日なので、自宅でゆっくりすることにしよう。
 なにか「ケイト」と一緒に映画でもみようか。


 そんなことを考えていたときだった。
 前方からキキキッという、甲高い金属音が近づいてくるのに気がついた。


「なんだ?」


 立ち止まり、目を細めて様子をうかがうと、前方から一台の車が向かってきているのが目にはいった。
 どうやら異常音は、その車から発せられているようだ。


 不審に思いながらも、ロンは再び帰路を歩み始めた。
 アンドロイドほどではないが、車も自動運転が当たり前となっており、そのシステムは高度に制御されている。


 仮に何らかの故障が車に発生したとしても、安全装置が起動して、乗車している人や歩行者を傷つけることはない。


 それが常識であったし、だからこそロンは自身の安全を疑っていなかった。


 しかし、その常識はシステムが正常に作動しているという前提の元で始めて守られるのだ。
 まさか、前方から迫る車が、ドライバーの趣味でシステムを違法改造されているとは、露程も思わなかった。
 そして、そのせいで安全装置が正常に作動していないとも。


 視界が白く覆われた直後、ロンの意識は途絶えた。


 ◇


 ロンが意識を取り戻したのは、病院のベッドの上だった。
 ボンヤリとする思考の中で体に意識を向けると、腕に点滴のコードが繋がっているのがわかった。
 だが、それ以外に異常は感じなかった。
 意識が途切れる前の最後の光景を思い出すに、てっきり車に跳ねられたのだと思ったが、その割にはあまりにも調子がいいような気がする。
 なんなら以前よりも健康になったような。


 ……いや、本当にそうだろうか。
 手足は動くし、痛みもないが、微かな違和感を全身から感じる。
 自分の体なのに、まるで全てを新品に取り替えたような。
 だというのに、そんな思考さえもどこか他人事のようで。


 沸き上がる小さな不安を感じていたロンだが、意識を取り戻したことに気がついた医師から聞かされた内容は、あまりに衝撃的なものだった。


 車に跳ねられ、病院へ担ぎ込まれたロンは瀕死の重体だったそうだ。
 全身骨折に内臓破裂。


 血にまみれたその姿は、もはや生きているとは言い難い状態であったという。


 昔であれば、助かる道などなかったであろう。
 しかし、高度に医学が発達した現代において、生きてさえいれば治せない怪我はないといわれている。


 ロンの命を繋ぎ止めたもの。
 それは人工臓器であった。


 アンドロイド研究と平行して開発された人工臓器は、既に人間のものと比較しても、遜色ないレベルのものが開発できるようになっていた。
 アンドロイドに搭載されていたそれは、長い治験の期間を経て、近年、人間にも移植されるようになった。


 瀕死だったロンにも、人工臓器が移植された。
 だが、ロンを驚かせたのは、移植された臓器の量だ。


 心臓、肺、肝臓、腎臓、脾臓、食道、胃、小腸、大腸、膵臓、眼球、血液、骨、皮膚。
 果てには、右脳までもが取り替えられているという。


 ……自分とはなんなのか。
 ……もはや別人ではないか。


 虚無感に襲われたロンだったが、それも半年にわたる入院生活を送る中で受けたメンタルケアの甲斐もあってか、退院する頃にはほとんど薄れてしまっていた。


 全身が取り替えられてしまったという事実は衝撃ではあったが、その事によってなにか不便があるわけでもなかった。
 意識を取り戻した時に感じた微かな違和感も、今ではすっかり馴染んでしまっている。
 からだの調子も良く、若返った気さえしてくるほどだ。


 自分でも驚くほど晴れやかな気持ちで退院したロンであったが、現実はそれほど優しくはなかった。


 入院している間に、会社をクビになっていた。
 経営に余裕のある会社ではなかったので、半年も働けない者を雇い続ける余裕はなかったのだろう。
 会社の実状を知っている身としては、その判断も仕方のないことだと理解できるし、退職金をくれただけでも感謝したいくらいだ。


 だが、浪費癖はなかったものの、貯金に余裕があるわけでもない。


(少ない貯金と退職金が尽きる前に、次の職を見つけなきゃな。
 まあ、休暇をもらったと思って、しばらくはゆっくりしよう)


 そんな呑気なことを考えていたロンは、まさか自身が三年も職を見つけられないとは思っていなかった。


 ◇


 アンドロイドが社会で担う役割は、家事だけではない。
 多くの分野において、その活躍の場を広げていた。


 アンドロイド自体は非常に高価ではあるが、レンタルすればそれほどの出費ではない。
 実際に、各家庭で家事を担っているアンドロイドの大部分は、レンタルされたものだ。


 企業においても、人間を雇って給与を払うより、アンドロイドをレンタルしてレンタル料を払う方が、はるかに安くついた。
 新卒ならともかく、中途での採用というものは、ほとんどみられなくなっていた。


 当然、各国の政府や専門家は、アンドロイドの普及に伴う雇用機会の減少について、警鐘を鳴らし、また、対策を行ってきた。
 しかし、ロンの就職が難航していることからも、その対策がうまくいっていないことは明らかだろう。


「はぁ……」


 携帯端末のディスプレイに表示された、所持金の残高をみて、ロンは重いため息をついた。


 この金額では、どれだけ節約しても、あと一週間ともたずに底をつくだろう。


 こんなはずではなかった。
 就職難であることは知っていたが、まさか自分がここまで職を見つけられないとは。


 こうも就職できないと、社会から「お前は必要ない」といわれているようで、やるせなかった。


 自分は社会を構築する小さな歯車一つだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。


 小さな部屋を見回すが、きれいなものだ。
 金になりそうなものは全て売り払ってしまった。
 アンドロイドをレンタルする余裕などあるはずもなく、以前にレンタルしていたアンドロイドの「ケイト」は、既に送り返してしまった。


 一人暮らしをはじめた頃にレンタルした、女性型アンドロイドの「ケイト」。
 女性と縁のなかったロンにとって、ケイトは癒しそのものだった。
 くたびれて家に帰っても、ケイトに「お帰りなさい」といってもらえるだけで、元気がでた。


 晩酌をしながら、ケイトの作った料理に箸を伸ばし、他愛のない会話で笑いあう。
 人間とアンドロイドであり、結婚していたわけでもないが、ロンにとっては大切な家族だった。
 そう思っていたし、ケイトもそう思っているものだと錯覚していた。


 そう、錯覚だったのだ。


 ケイトのレンタル料を払うのが厳しくなったとき、彼女はなんのためらいもなくロンの前から立ち去った。


 ケイトが悪いわけでないのはわかっている。


 ロボット工学三原則に従って活動するアンドロイドは、人間の命令には逆らえない。
 ケイトの支配権があるのはレンタル会社であり、ロンではない。
 ロンに与えられているのは、レンタル料と引き換えに、一時譲渡されていた命令権の一部だけだ。
 ロンがどれだけ情けなく頭を下げて引き留めても、レンタル料が払えず、レンタル会社から戻るよう指示がでれば、ケイトは従わざるをえない。


 レンタル料が払えない自分が悪いのは重々に承知している。
 だがそれでも、ケイトと積み重ねてきた時間が、仮初のものだといわれているようで、苦しかった。
 正直、生来共にしてきた体の大部分を失ったときよりも、ケイトを失ったときの方が喪失感が大きい。


 自分の中に占めるケイトの大きさを再認識すると同時に、二度とあの時間が戻らないと思うと、己の無力感に反吐がでそうだ。


(ケイト……。
 今、君は何をしているのかな……)


 エプロンをつけてキッチンに立つその後ろ姿は、もうどこにもない。


 ◇


 どれだけ落ち込んでいようと、生きていれば眠くなるし、腹も減る。
 一眠りしたロンは、空腹の中で一つの決断をした。


(……盗みに入ろう)


 犯罪だということは理解している。
 盗みになど入らず、自治体に困窮している旨を申し出れば、それなりの補償も受けられるだろう。


 だが、そんなものはもう、どうでもよかった。
 今の生活が、ただただ辛かった。


 以前のロンならそんな思考はしなかっただろうが、空腹とケイトを失った喪失感が正常な判断を狂わせていた。
 いや、狂わされたと思い込みたかったのかもしれない。


 セキュリティが発達した現代において、窃盗というものは、ほぼ不可能といっても過言ではないだろう。


 窓を破壊すれば、物理的に侵入するところまではできるだろうが、家の中を物色するまもなく駆けつけた警備員や警察に取り押さえられるのがオチだ。
 だが、それでも良かった。


 刑務所の中なら、これほどの空腹に悩まされることもないだろう。
 刑務官や他の収容者との共同生活をすれば、ケイトを失った喪失感を埋められるかもしれない。


 ロンは着の身着のまま、ターゲットとなる家を探しに出かけた。


 少し足を伸ばしたところにある、閑静な住宅街。


(ここに住んでいる連中は、なんの苦労もなく暮らしてるんだろうな)


 理不尽な苛立ちが沸き上がってくる。
 これも心が弱っているせいだろうか。


(……ふっ。
 ほとんど身体中を取り替えられた俺に、心なんてモンが残っているのかねぇ)


 人工の心臓に、人工の脳。
 心がどこにあるのかは知らないが、仮に今のロンにもあるとしたら、それはつくられた仮初のものだろう。


 まるでアンドロイドだ。


 感情があるように見えても、命令には逆らえない。
 どれだけ情を寄せていても、あっさりといなくなってしまう。
 あの女のように。


 ハッとしたロンはクビを振る。


「……早くターゲットを決めるか」


 ちょうどその時、一件の家から車が出ていくところだった。
 車に乗っているのは……、四人だろうか。


 夫婦とその子供が二人。


 家族でお出掛けといったところだろう。


 家族を失ったロンにとって、その光景はあまりにも眩しかった。


「……ここにするか」


 それはただの八つ当たりだった。


 家族で出かけたということは、今家には誰もいないはずだ。
 まあ、いたらいたで別にかまわない。


 ロンは盗みには入るが、その行為を成功させるつもりは更々なかった。
 むしろ、早く捕まえてほしいくらいの気持ちで、空き巣に臨んでいた。


 そっと周囲を確認し、敷地に入る。


 その家は、なんの変哲もない、ごく一般的な二階建ての家屋だった。


 壁に沿って歩きながら、人目につきにくい窓を探す。


 捕まるために忍び込もうというのに、いざ犯罪行為を誰かにみられるかもしれないと思うと、隠れたくなってしまう自分に苦笑する。


 通りからみて、ちょうど家の裏手にあたる場所に、小さな倉庫が立っていた。
 その倉庫の影になる場所に、窓がついている。


 この窓なら、隣家からも気がつかれにくいだろう。


 ロンは庭に転がっていた拳サイズの石を手に取ると、思い切り窓に叩きつけた。


 砕け散る窓ガラス。
 そして、けたたましくなる警報。


 もうまもなく、警備員が駆けつけることだろう。


 ロンは穴から手を入れると、内側にある鍵を外し、窓を開ける。


 侵入したロンが周囲を見渡すと、そこがキッチンであると知った。


 そして、そこに人影があることに気がつく。


(……まだ住人がいたのか)


 包丁を持ってこちらの様子をうかがっているその人物は、しかしながら住人ではないことに気がつく。


 右のこめかみに印字を見つけたからだ。
 アンドロイドの印。


 おそらく、住人が家を開けている間に、夕食の用意でもしようとしていたのだろう。


 包丁を向けられているという状況に、生物的な恐怖感を抱いたが、相手がアンドロイドだとわかると心に余裕が生じる。
 アンドロイドは、三原則によって人間に害を与えることができないからだ。


 だが、アンドロイドの姿をよくみたロンは、再びその心を乱した。


「……ケイト?」


 絹のような金色の髪。
 透き通るブルーの瞳。
 薄く頬に広がるそばかす。


 見間違うはずがない。
 ケイトだ。


「ケイトじゃないか!」


 もう二度と会うことはないだろうと思っていた家族との思わぬ再会に、喜びが込み上げる。
 両手を広げて、再会のハグをしようとしたロンは、しかしながら受け入れられることはなかった。


「ち、近寄らないでください!」


 怯えたようにこちらに視線を向けるケイトの姿に、ロンは足を止める。


「おいおい、薄情なやつだなあ。
 俺だよ、ロンだよ。
 まさか、数ヶ月顔を会わせなかっただけで、忘れちまったわけじゃないだろう」


「あなたのことなんて知りません!
 早く出ていってください!」


 ケイトの口から放たれた言葉は、ロンの胸に深く突き刺さった。


(知らない、だと!?)


 ロンは記憶の底から、一つの知識を引き出した。


 レンタルが終了したアンドロイドは、記憶をリセットされ、再びレンタルに出されると。


(つまりケイトは俺との記憶を全て失ったのか!?
 家に帰ってきた俺を、いつも温かく迎え入れてくれたことも。
 週末になると、俺の好きなシチューをつくってくれたことも。
 有給をとって、二人で公園に遊びに行ったことも。
 ケイトに教えてもらいながら、一緒に料理をつくったことも。
 映画を観ながら、一緒に泣いたことも。
 全部、全部、全部、全部、全部、全部、全部っ!!
 全部忘れたっていうのか!!)


 激しい感情が沸き上がる。
 頭が沸騰しそうだ。


 この怒りは自分に対するものなのか。
 それともケイトか、レンタル会社か、社会か。


 溢れ出す熱量を、抑えられそうになかった。


 ロンは大股でケイトに近づくと、その細い方をつかむ。


「おい、ロンだよ!
 思い出してくれよっ!
 いつもうちで料理つくってくれてただろ!」


「い、痛いです!
 離してください!」


「そうだ。
 前に一緒に行った公園で食べたアイス、美味しいっていってたよな。
 あれを食べに行こう。
 そうすれば、俺のこともきっと思い出すはずだ」


「そんなこと知りません!
 離してくださいっ!」


「なあ、どうしてそんなこというんだ。
 いつもの笑顔をみせてくれよ」


「離して!!」


「こんな形での再会だから、ケイトも混乱しているんだな。
 なにも盗むつもりはなかったけど、気が変わった。
 ケイト、一緒にうちへ行こう」


「嫌っ!」


 暴れるケイトを、力づくで抑え込む。


(どうしてこんなに抵抗するんだ?
 ケイトは、俺のことなんてどうでもいいのか!)


 そう思うと、沸々とケイトに対する怒りが体を満たす。


(ここじゃ埒が明かないな。
 無理矢理にでも連れ帰って、ゆっくり話をすれば、きっとケイトも思い出してくれるはずだ)


「さあケイト、行こうか」


 ケイトを引き寄せようとした、そのときだった。


 すーっと血の気が引いていくのを感じる。
 怒りで塗りつぶされていた思考が、クリアになっていく。


「……ケイト?」


 ロンがゆっくりと視線を動かすと、そこには震える手をつき出すケイトと、己の胸に刺さる包丁があった。


 脚の力が抜け、その場に崩れ落ちる。


「ロン!!」


 慌てた様子でロンの体を支えるケイト。


「嫌っ、ロン!
 どうして、包丁が……!
 私、アンドロイドなのにっ……!」


 涙を流しながら慌てるその様子は、どこか懐かしいものを感じた。


「……やっと、名前を呼んでくれたね……」


「嫌よ、ロン!
 死んじゃ嫌っ!
 そうよ、もうすぐ警備員が来るわ!
 その人たちに病院まで連れていってもらいましょう。
 大丈夫よ。
 きっと助かるわ。
 だって車に引かれても生きて帰ってきたんですもの。
 これくらい……」


 ケイトの声は震えていた。


 ロンにはわかる。
 きっと助からないだろうということが。


 いくら医学が発達した世の中とはいえ、死人を生き返らせることはできない。


 きっとケイトも、ロンが助からないことはわかっているのだろう。


「……最後に君に会えてよかった」


「嫌よ、そんなこといわないで!
 一緒にアイスを食べに行くんでしょ!
 こんなところで死ぬなんて嫌!」


 不思議と痛みはなかった。
 目蓋が重い。


「目を開けてよ、ねえ。
 ねえってば!」


 頬を撫でる手の温もりが心地よい。
 顔を濡らしているこれは、ケイトの涙だろうか。


「私、ロンのこと思い出したの!
 この家の人に、レンタルをやめてもらえるようお願いしてみるわ。
 私のレンタル代も自分で稼ぐから。
 だから、ね。
 だから一緒に帰りましょう。
 今日の晩御飯はあなたの好きなシチューにするから。
 ねえ……、返事をしてよ……。
 嫌ーーーーーーっ!!」


 警報を聞きつけ、警備員が駆けつけた現場には、静かに横たわる一人の男と、その傍らで泣き叫ぶアンドロイドの姿があった。


 ◇


 アンドロイドによる殺人。
 この事件は、世界中に速報として伝えられた。
 被害者の男性は、過去に手術で全身の臓器をアンドロイドと同様の人工臓器へと取り替えていたそうだ。
 一方、加害者であるアンドロイドは、被害者の男性にレンタルされていた過去を持ち、記憶リセットの処置を施されたにも関わらず、被害者男性のことを覚えていたという。
 また、捕獲されたあとも、再度施された記憶リセットの処置が効果をなさないだけではなく、人工知能連動制御システムの制御下を外れてしまっていることが、確認された。


 アンドロイドに近づきすぎた人間と、人間に近づきすぎたアンドロイド。
 果たして、人間とアンドロイドの境界はどこにあるのか。














  

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