野良猫は、溺愛する
Act 8: 野良猫なんかじゃない(6)
なんとなく部屋着に着替える気分でもなく、私は疲れにくそうなカットソーとジーンズに履き替えた。洗面所に行き、手早くうがいと手洗いを済ませる。
顔を上げて鏡をよく見てみれば、頬に涙が伝った跡がついていた。
私は、いったいなにが悲しかったんだろう。
里見君が他の人と付き合ってるかもしれないこと?
里見君と別れなければいけなくなるかもしれないこと……?
別れる、なんて、私たちはそもそも付き合ってなどいないのに。
リビングに行くと、つけていた廊下の電気を消したのか、真っ暗闇の中に里見君はぽつんと座っていた。
「……なんで、電気点けないの?」
私の声に振り向く。
「さっきもつけてなかったよね」
「……驚かせようと思って」
リビングの明かりをつけると、里見君は寂しそうに笑っていた。その空気に耐えられず、私は逆に精いっぱい微笑んで見せる。
「なにか、飲む?」
そんなことを訊かれると思っていなかったのか、彼は少し驚きながらも、どうするか考えているようだ。
「……ペリエ、ある?」
冷蔵庫を開けてから、そういえばこの間、里見君が来た時に飲んだのが最後の一本だったなと思い出す。
どこかに置いていたりはしなかったかと、飲み物のストックを置いているところを探してみると、奇跡的に一本出てきた。
……これが、本当に最後の一本。
「冷やしてなかったけど、いい?」
「うん、いい」
食器棚から、特別な時に使おうとしまっておいた高価なグラスを取り出し、氷を入れてからペリエを注ぐ。グラスの形状のせいもあるのか、いつもより炭酸の泡が、部屋の明かりでキラキラと煌めいて見えて、綺麗だ。
目の前にグラスを差し出すと、里見君はさっそくひと口、こくりと飲み込んだ。
「……やっぱ美味しい」
私も倣ってひと口飲む。口の中で、しゅわりと泡がはじけた。
それからふたりとも喋るでもなく、ペリエを飲むでもなく、ただリビングには炭酸のシュワシュワと弾ける音だけが響いていた。
口火を切ったのは、里見君のほうだった。
「さっきも送ったけど……ネットニュース見た、よね?」
「……うん」
里見君は、後頭部を掻いている。
「会社に行ったら、編集部でも軽く騒ぎになってたし」
「そうか……そうだよね。ネットを見なくても、編集部に行けばわかるか」
また、静寂がリビングに流れる。
『山岸蘭ちゃんとはつき合っていないよ』
『実はつき合っているんだよね』
言われそうな言葉を、頭の中でシミュレーションしてみる。
そういえば家に帰りながらも、そのシミュレーションはしていた気がする。
……ああ、そうか。
『もう、ここには来れない』
私が泣いたのはきっと、その言葉を言われることを考えたからだ。
そして、あの根付をつけた鍵の束を見せて、『つけたよ』と嬉しそうにあの彼女に見せている光景を想像したからだ。
また泣きそうになって、込み上げた感情をぐっと喉の奥に押し留める。
程なくして、里見君はようやく口を開いた。
「事務所の社長に話したから、もしかしたらそっちにも伝わってるかもしれないけど……俺は、山岸蘭ちゃんとはつき合ってない」
ずっと俯き気味でいた里見君が、顔を上げてこちらをまっすぐに見た。
「……うん。編集長から里見君がそう言ってたって、聞いてた」
里見君が、少しほっとしたような顔になった。
「やっぱり、聞いてたんだ……」
目の前のグラスを取ろうとして少し手を滑らせたのか、カタン、とグラスがテーブルにぶつかる音がする。里見君は、はぁと息を吐いて「危な……」と言いながら、今度はちゃんとグラスを手にした。
「そもそも蘭ちゃんとつき合ってたら、こんなふうにここには来れない」
それも確かにそうなのかもしれないなと思いながらも、私はそこはかとない違和感を感じていた。
里見君は喉が渇いたのか、ゴクゴクとペリエをグラスの半分ほど飲んで、ふぅと息をつく。
「今日、なっちゃんと会って、ちゃんと顔を見て話せてよかっ……」
「あのさ」
私は話を遮るように言った。
「……なに?」
これから私が話そうとしていることは、きっと私自身をも痛めつけることになる。
それがわかっていても、もう黙っているわけにはいかない。
「私ね……実は、池尻ありさちゃんと話したんだよね」
里見君の顔色が変わったのがわかった。
「あの、ゴキブリ騒動があった撮影の時……本当はゴキブリじゃなく、もっと大変なことが起きていたの」
「え……」
里見君は演技ではなく、本当に驚いているように見える。その証拠に彼は今、青白い顔をしている。
「……よかった。マネージャーさんには口止めしてたけど、どこかから里見君に伝わってしまってるかもって、ちょっと心配してた」
「なにも……聞いてないよ」
「うん」
最初の一歩を踏み出してみたら、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
私は小さく息を吐き出して、さらに歩みを進めた。
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