野良猫は、溺愛する
Act 8: 野良猫なんかじゃない(4)
「……え?」
「前に俺が、付き合ってるやつはいないのかって訊いた時に、伊吹はそう答えたろ。『どうなんでしょう』って。関係をはっきりさせずにつき合ってるやつがいるんだって、俺は解釈したんだけど」
図星過ぎて、ぐうの音も出ない。
金岡編集長は頭を掻いた。
「……編集長の立場を飛び越えて、立ち入ったことを訊いてるのは自覚してるよ。でも……悪いな、私情が少し、混じってる」
私情、というのはやっぱりそういうことだろうか。
困った表情になっていたのか、金岡編集長は私の顔を見て苦笑する。
「いや、伊吹は内側に溜めてひとりで苦しむタイプのような気がするから、もし俺に話して少しでも軽くなることがあるなら、と思ったんだけど……俺に話せるわけないよな」
また、目の前のその人は頭を掻いた。いつも仕事の時は毅然としている編集長が、今は自信なさげなひとりの男性に見える。
「……それ、兄にもよく言われます。内側に溜める、ってこと」
「そう。俺の観察眼も捨てたもんじゃないな」
「編集長は、いつもみんなをよく見てるなと思ってますよ。そういうところも含めて、尊敬しています」
金岡編集長は、少し驚いたような顔をした。
「は……それこそ持ち上げすぎだろ」
照れ隠しのためなのか、さっきは断ったメニュー表を自ら開き、飲み物の欄を見ている。
このタイミングで言うのが適切かはわからないけれど、前々から思っていたことだ。ゴマすりでもなく、深い意味もない。
若くしてMen’s Fortの編集長に抜擢されたのも、仕事の実力はもちろん、この辺のことも関係しているのだろうと思っている。
だから、ここで適当なことを言っても、きっと見透かされる。
まだほんのり濡れていた目元を、編集長に貰っていたティッシュで拭って、私は大きく息を吐き出した。
「……編集長は、……怖く、ないですか?」
「何が?」
「相手の、本心を知ることが」
言ってから、さっき私に微妙なことを言った人に問いかける話ではなかったかもしれないと後悔する。でも、誰かに訊いてみたかった。
私は、本心を聞くのが怖くて怖くて、前へ進めずにいた。
だから“野良猫”にとって居心地のいい空間をつくれば、一日でも長く留まっていてくれるのではと、そればかりを考えてきた。
金岡編集長はメニュー表に視線を落とすと、それをぱたりと閉じた。
「怖いよ」
こちらへまっすぐに向けられた目の翳りを見て、彼が過去に負ったであろう傷が想像できた。
「でも、うやむやにして相手の気持ちを決めつけたままでいるのは、相手にも失礼だし、なにより自分の気持ちが浮かばれない」
相手の気持ちを、決めつける……。
金岡編集長は苦笑に近い笑みをこぼした。
「俺は自分勝手だからさ、どちらかと言えば、自分の気持ちをないがしろにするのが嫌なのかもしれないけど」
思わず、くすりと笑ってしまう。
「自分勝手なんですか?」
「まあね。だから今日だって、強引に伊吹をここに連れてきたし」
「確かに強引でしたね」
「悪かったなー」と言いながら、金岡編集長は笑う。
ひとしきり笑ったところで小さく息を吐き出すと、編集長は改めてこちらを見た。
「だから伊吹も、自分のことをもう少し大事にしてもいいんじゃないか? 伊吹は人のことばかり見て、自分の足元は疎かにしている気がするからさ」
「……そんなこと、ないですよ。私も自分勝手ですから」
金岡編集長はふふ、と小さく笑った。
「懸命に頑張っている伊吹には、幸せでいてほしいよ」
穏やかな笑みが、私の心の中のなにかに触れた気がした。
また、胸の奥から込み上げてくる。
「……優しいですね」
「優しいか?」
差し出されたティッシュを、今度は素直に受け取る。
「……なにせ自分勝手だからさ、俺。正直に言えば、弱ってる伊吹をこのまま連れ去りたいと思うぐらいには、よこしまな気持ちがあるよ、今。でも……そこに付け入ってもお互い幸せにはなれないしな」
大人だな、と思う。
素敵な人だな、とも思う。
もし、私が好きになったのが金岡編集長だったら、こんなモヤモヤとした気持ちを抱えずに済んだのかもしれない。
……でも、そうはならなかった。
だから今、一番大事なことは。
「そんなツラい顔してるぐらいなら、ちゃんとケリつけて来いよ」
「……そうですね」
私は、金岡編集長に深々と頭を下げた。
「いろいろと、ありがとうございます」
「また来週から、馬車馬のように働いてもらわないといけないからな」
「……頑張ります」
金岡編集長はアハハと声を上げて、楽しそうに笑っている。
心が決まってしまえば、向かう先はひとつ。
私は渋る金岡編集長に飲食代を無理やり押しつけ、先に居酒屋をあとにした。
「前に俺が、付き合ってるやつはいないのかって訊いた時に、伊吹はそう答えたろ。『どうなんでしょう』って。関係をはっきりさせずにつき合ってるやつがいるんだって、俺は解釈したんだけど」
図星過ぎて、ぐうの音も出ない。
金岡編集長は頭を掻いた。
「……編集長の立場を飛び越えて、立ち入ったことを訊いてるのは自覚してるよ。でも……悪いな、私情が少し、混じってる」
私情、というのはやっぱりそういうことだろうか。
困った表情になっていたのか、金岡編集長は私の顔を見て苦笑する。
「いや、伊吹は内側に溜めてひとりで苦しむタイプのような気がするから、もし俺に話して少しでも軽くなることがあるなら、と思ったんだけど……俺に話せるわけないよな」
また、目の前のその人は頭を掻いた。いつも仕事の時は毅然としている編集長が、今は自信なさげなひとりの男性に見える。
「……それ、兄にもよく言われます。内側に溜める、ってこと」
「そう。俺の観察眼も捨てたもんじゃないな」
「編集長は、いつもみんなをよく見てるなと思ってますよ。そういうところも含めて、尊敬しています」
金岡編集長は、少し驚いたような顔をした。
「は……それこそ持ち上げすぎだろ」
照れ隠しのためなのか、さっきは断ったメニュー表を自ら開き、飲み物の欄を見ている。
このタイミングで言うのが適切かはわからないけれど、前々から思っていたことだ。ゴマすりでもなく、深い意味もない。
若くしてMen’s Fortの編集長に抜擢されたのも、仕事の実力はもちろん、この辺のことも関係しているのだろうと思っている。
だから、ここで適当なことを言っても、きっと見透かされる。
まだほんのり濡れていた目元を、編集長に貰っていたティッシュで拭って、私は大きく息を吐き出した。
「……編集長は、……怖く、ないですか?」
「何が?」
「相手の、本心を知ることが」
言ってから、さっき私に微妙なことを言った人に問いかける話ではなかったかもしれないと後悔する。でも、誰かに訊いてみたかった。
私は、本心を聞くのが怖くて怖くて、前へ進めずにいた。
だから“野良猫”にとって居心地のいい空間をつくれば、一日でも長く留まっていてくれるのではと、そればかりを考えてきた。
金岡編集長はメニュー表に視線を落とすと、それをぱたりと閉じた。
「怖いよ」
こちらへまっすぐに向けられた目の翳りを見て、彼が過去に負ったであろう傷が想像できた。
「でも、うやむやにして相手の気持ちを決めつけたままでいるのは、相手にも失礼だし、なにより自分の気持ちが浮かばれない」
相手の気持ちを、決めつける……。
金岡編集長は苦笑に近い笑みをこぼした。
「俺は自分勝手だからさ、どちらかと言えば、自分の気持ちをないがしろにするのが嫌なのかもしれないけど」
思わず、くすりと笑ってしまう。
「自分勝手なんですか?」
「まあね。だから今日だって、強引に伊吹をここに連れてきたし」
「確かに強引でしたね」
「悪かったなー」と言いながら、金岡編集長は笑う。
ひとしきり笑ったところで小さく息を吐き出すと、編集長は改めてこちらを見た。
「だから伊吹も、自分のことをもう少し大事にしてもいいんじゃないか? 伊吹は人のことばかり見て、自分の足元は疎かにしている気がするからさ」
「……そんなこと、ないですよ。私も自分勝手ですから」
金岡編集長はふふ、と小さく笑った。
「懸命に頑張っている伊吹には、幸せでいてほしいよ」
穏やかな笑みが、私の心の中のなにかに触れた気がした。
また、胸の奥から込み上げてくる。
「……優しいですね」
「優しいか?」
差し出されたティッシュを、今度は素直に受け取る。
「……なにせ自分勝手だからさ、俺。正直に言えば、弱ってる伊吹をこのまま連れ去りたいと思うぐらいには、よこしまな気持ちがあるよ、今。でも……そこに付け入ってもお互い幸せにはなれないしな」
大人だな、と思う。
素敵な人だな、とも思う。
もし、私が好きになったのが金岡編集長だったら、こんなモヤモヤとした気持ちを抱えずに済んだのかもしれない。
……でも、そうはならなかった。
だから今、一番大事なことは。
「そんなツラい顔してるぐらいなら、ちゃんとケリつけて来いよ」
「……そうですね」
私は、金岡編集長に深々と頭を下げた。
「いろいろと、ありがとうございます」
「また来週から、馬車馬のように働いてもらわないといけないからな」
「……頑張ります」
金岡編集長はアハハと声を上げて、楽しそうに笑っている。
心が決まってしまえば、向かう先はひとつ。
私は渋る金岡編集長に飲食代を無理やり押しつけ、先に居酒屋をあとにした。
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