野良猫は、溺愛する
Act 8: 野良猫なんかじゃない(1)
「聞いたか?」
編集部の片隅で、仕事前にコーヒーを自分のカップに注いでいると、金岡編集長が声をかけてきた。なんのことか、言われなくともわかる。すでに私のところにもあちこちからメッセージが届いているし、朝から編集部内でも軽く騒ぎになっている。
私はその前に、ネットニュースで知ってしまったわけだけれども。
「あ……朝にネットの記事で見ました」
「さっき俺んとこに、廉の事務所の社長から連絡が来たよ」
「そう、なんですか」
……思い出せ。
早く。今すぐ。普通の会話とはどんな感じだったかを。
余分な感情をひたすら排除して、排除して。私は記憶の糸を猛スピードで手繰り寄せる。
「別に悪いことじゃないし、今どきこっちにもさしてダメージはないと思いますよって言ったんだけど」
金岡編集長は自分のマグカップへコーヒーを注ぎながら、なぜか幾分楽しそうだ。
「廉は否定しているんだとさ、このこと」
「えっ。否定、してるんですか……?」
「なんだ伊吹。出版業界にいて、芸能ニュースを鵜呑みにしてるのか?」
目の前からはクスクスと笑う声が聞こえる。
それも随分な言い草だと思ったけれど、おかげで少し冷静さを取り戻せた気がする。
「いえ……陣中見舞いに行った時も、この間の撮影の時も仲良さそうにしていたんで、てっきりそうなのかなと……」
悟られないためにぽろぽろ口から勝手に吐き出された言葉は、予想以上に鋭さを持っていて、容赦なく自分を傷つけていく。
「まあ、まだはっきりとはわからないけどな。ただ、事務所に嘘をついてもいいことはないから、廉が言ってることは本当だろうと俺は思うけど」
確かに嘘をついてあとでバレたら、本人が事務所からの信用を失うだけじゃすまない。
「事務所側も今回の記事の出処がわからないらしくて、はっきりするまではノーコメントで貫くらしい。だからそれまでは多少、ご迷惑をおかけするかもしれませんって謝られたよ」
「そうですか」と言いながら金岡編集長のように笑おうとしたけれど、全然うまく笑えない。こんなことならいっそ、深刻な顔で言えばよかったと後悔した。
「……どうした? 廉のスキャンダルがそんなにショックだったのか?」
金岡編集長の冗談だって、悟られたわけじゃないって、わかってる。
動揺するな……しちゃ、いけない。
私は湧き上がったすべての感情を、無理やり胸の奥に押しこめた。
「ショックっていうか……里見君、今が一番大事な時なのにって思ったら、ちょっと心配になっちゃって」
頭をフル回転させて、絞り切ったレモンから無理やり果汁を垂らすように、なんとか絞り出す。もちろんこれも、本心であることは違いないのだけれど。
「そうだな。もし山岸蘭とのスキャンダルが本当だとしたら、ちょっと迂闊だったとしか言いようがないからな」
今度は違う痛みが胸に走った。
里見君は、本当に迂闊だ。
そして、その迂闊さを受け入れただけでなく待ち望んでしまっているのは、他でもない私自身なのだ。
調べてみると、里見君と山岸蘭の熱愛記事は週刊ナイン一社のすっぱ抜きだったようで、それがニュースサイトで拡散されたといった感じだった。確かに、ツーショットなどの写真が掲載されているわけではなく「関係者の話によると」という、お決まりの文言が書かれた文章だけだ。
両名ともまだそれほど知名度が高くないために、ニュースサイトのコメント欄には「誰?」とか「どうでもいい」といった心無いコメントもチラホラ見受けられる。
知らないならわざわざ書かなくてもいいのに、とムカつく気持ちを抑えながら、私はパソコンを閉じた。
鞄から自分のスマホを出してケースを開くと、ロック画面にはゆうべの通知がゆらゆら浮かんでいる。
既読をつけない私を、里見君はどう思っただろう。
今、なにをどう返していいのかわからず、余計に既読はつけられなくなってしまった。
「取材行ってきます」
金岡編集長にそう言って席を立ち、私は編集部をあとにした。
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