野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 7: 野良猫は腕からするりと逃げていく(6)


「あの、里見君……人がいるところで、さっきみたいな言い方は……」

ロケバス近くの木陰で、私は周りに気を配りながら小声で窘める。

「心配だから心配って言って、なにがいけないの」

めずらしく怒ったような口調で返されて、面食らってしまった。
……確かに、すべては心配をかけた私がいけないのだ。

「……ごめんなさい……心配かけてしまって」

「……いや、興奮して俺も……ごめん……」

里見君は決まりの悪そうな顔をして、頭を掻いている。

「今日会った時から元気なさそうだったから、ずっと気になってて……」

そんなに気にかけてくれていたのかと、本当なら嬉しいはずなのに、心は天気とは裏腹に靄がかかったままだ。

「そっか……仕事に集中しなくちゃいけないのに、余計なことを気にさせてごめんね。ずっと暑さが続いてたし、多分夏バテかなー」

そう言って私は、精いっぱい笑ってみせる。自然、だっただろうか。

「……ねえ、本当は――」

「伊吹さーん!」

遠くから私を呼ぶスタッフの声が、里見君の言葉を遮る。
漫画なら今、頭の上あたりに、しん……という擬音がつきそうだな、なんて変に冷静に思ってしまった。園内は賑やかなはずなのに、ここだけ音を失くしてしまっているみたいだ。

「……ごめん、呼ばれちゃった」

「……うん」

なにを言いかけたのか、なにを言われるところだったのか。
たとえそれが他愛もない話だったとしても、今、里見君の口から発せられる言葉を聞くのが、怖くてたまらない。
私はロケバスの陰から顔を出した。

「はーい、今そっちに行きますー!」

私がそう言ったからかスタッフはロケバスの手前で待ってくれていて、こちらに来る気配はなくほっと胸を撫で下ろす。
私は改めて、里見君のほうに向き直った。

「里見君は私たちがここからいなくなったら、こっそり着替えに行ってきてね」

「…………うん」

釈然としない、と言った顔の里見君を置いて、私はスタッフのもとに駆け寄った。


* * *

逃げても、なにも解決しないことはわかっている。
彼がうちに来るようになってからずっと、私は里見君との関係をはっきりさせることから逃げてきた。
本当はこの、曖昧なまま続いている状況が嫌なくせに、はっきりもさせたくないなんて、矛盾。我儘。自分がこんな狡い人間だったとは知らなかった。

今日は私の体調のせいで周りに迷惑をかけてしまったし、早く寝なければと思っていたけれど、『恋コロ』の放送日だったことをスマホのアラームで思い出した。
いつもならアラームなんて鳴らなくても、頭の片隅にはずっと里見君のドラマのことがあったというのに。余裕がなくなると、大事なことすら頭から消えてしまうんだなと悲しくなってしまった。

今日は第四話。『恋コロ』は深夜帯のせいか全八話と短く、物語も中盤を迎えていた。

『あなたは私の彼氏じゃないでしょ!』

思いがけず、ひよりのセリフが刺さる。

『……あんたの彼氏だって言えるなら、とっくに言ってる』

ミツジは家族に闇を抱えている設定だ。ひよりとつき合うことによって、彼女がつらい思いをするんじゃないか、というミツジの心配と思いやりから来ているセリフなのだけれど、それによってすれ違っていくふたりが悲しい。

ドラマも終わり、始まる前に淹れてすっかり冷めきったカモミールティーを呑み込む。ティーバッグを取り除くのを忘れていたから、余計な苦味が口いっぱいに広がった。

「にが……」

こんな苦味は、早く取り除きたい。
私はキッチンへ行き、マグカップを軽く濯いでからそれにミネラルウォーターを注いだ。マグカップに口をつけようとした瞬間、ふと、里見君がいつも使っているマグカップが視界の隅に映る。

「あなたは、私の彼氏じゃないでしょ……か」

ひよりがどんな気持ちでミツジにその言葉を投げつけたのか、今の私には痛いほどわかる。
日本のみならず海外でも活躍する売れっ子モデルのミツジと、奨学金でなんとか大学に通えている自分とはなにもかもが違いすぎる。それにそもそも、相手は一般人じゃない。そんな釣り合うはずのない自分を気にかけるのはやめてほしいと、心とは裏腹でも、ひよりだって言ってしまいたくもなるだろう。

「ほんと、期待させないでほしいよね……」

懐くはずのない美麗な野良猫が擦り寄ってきたから、私はあとのことも考えず嬉しくて舞い上がってしまった。
……いや、嘘。常に頭にはあった。でも里見君を思う気持ちがどんどん膨らんで、見ないふりをするようになった。

こんなにも彼を好きになる前に、「もうここに来ちゃだめだよ」と私は“野良猫”に言わなければいけなかったのだ。どんなに扉の外で鳴いても、開けてはいけなかったのだ。

そろそろ寝ようかとソファーに戻ったタイミングで、スマホが着信を告げてドキリとする。こんな時間に連絡をよこすのはひとりしかいない。
見れば案の定、里見君からだった。

『話したいことがあるんだけど、もう寝た?』

既読をつけずに、通知に現れたそのメッセージを何度も何度も読む。
話したいことって。

私の様子についてだとしても、里見君本人のことだとしても、どちらにせよ、いつものように取り繕える自信はない。
私は既読をつけず、そのまま寝室へと向かった。

翌日。
私は、里見君がおそらくゆうべ話したかったであろう内容を、ネットニュースで知ることになる。 


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