野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 7: 野良猫は腕からするりと逃げていく(3)

* * *

「Bijoux編集部に寄ってから、そのまま打ち合わせに行ってきます」

私は席から立ち上がると、金岡編集長にそう告げて編集部をあとにした。
例の合同撮影の時、Bijoux側から借りていたものをこちらの荷物に混ぜてしまっていたことに、昨日まで気がついていなかったのだ。

返すのはいつでもいいとは言われたけれど、この業界は後回しにするとそのままになってしまうことが多い。最後まで責任を持たなくてはと、私はすぐ返しに行く約束をしていた。

Bijoux編集部はMen’s Fortの二フロア上にある。なかなか来ないエレベータを横目に、私はなまった体に鞭を打って階段をのぼった。
少し息切れしながらBijoux編集部の前に着き、名札をセキュリティーゲートにかざして入ろうとした、その時――。

「ごめんなさ……あ」

ぶつかりそうになった相手はなんと、池尻ありさ。
すぐに私から目線をはずし、そのあとなぜか意を決したようにもう一度彼女はこちらを見た。

「……あの。今少しお時間あったりしますか」

「えっ……」

「ちょっと、お話しさせてもらえないかなって」

まさか池尻ありさからそんなことを言われるとは思わず、動揺してしまう。

「あ……えっと……今Bijoux編集部に届け物をしに来たので、それが終われば少しだけなら」

咄嗟に、そう答えてしまった。
でも、本心でもあるかもしれない。怖いけれど、彼女と話をしてみたいのは事実だ。どうして私と寺ちゃんの仲を誤解して、あんなにも思いつめてしまったのか。
それに……里見君とのことも。

「ありがとうございます」

深々と頭を下げられて、面食らう。

「では、そこの休憩スペースで待ってます」

池尻ありさは廊下の突き当たりにある、自販機とソファーが置かれているエリアを指差した。

「……わかりました」

私の返答を聞くと彼女は軽く頭を下げ、カツカツと靴音を立てながら奥へと消えていく。
刹那、私は酸素を掻き集めるように息を吸い、大きく吐き出した。

「びっくりした……」

しかしこんな時間に、Bijoux編集部にどんな用事があったのだろうか。

「――ああ。池尻さんは、謝罪に来たんです」

Bijoux側のドラマ企画担当だった彼女にこっそり訊くと、そんな返答が返ってきた。

「……この間の撮影の?」

「はい。撮影の時のことがうちの社長の耳にも入ったらしくて、例のメイクさんの件もあって池尻さんの事務所にうちの社長自らクレームいれたみたいなんですよ。事務所の社長さんは早々に謝罪にいらしたんですけど、さすがに自分も謝罪に来ないとまずいと思ったんじゃないですかね」

「社長さんと一緒には来なかったんですか」

「ええ、ドラマの撮影スケジュールの都合で来れなかったようです。それで彼女が持ってきた菓子折りが、おそらく一万超えの老舗和菓子店の高級菓子だったようで、さっき編集部が軽く騒ぎになりましたよ。そういうところ、さすが池尻さんだなって」

彼女はそう言って苦笑した。
どういう意図で言ったのかはわからないけれど、彼女も池尻ありさのせいで肝を冷やした一人。たとえ嫌味だったとしても、彼女にはそれぐらい言う権利があるだろう。
こちらも長く物を借りてしまっていたことを謝罪して、私はBijoux編集部をあとにした。

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