野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 6:野良猫は傷口を舐める(2)

夜。早々に夕食を済ませ、私はいつもよりだいぶ早めにシャワーを浴びた。もう真夏がそこまで近づいているからか夜も気温が高いままで、シャワーをいつもよりぬるくしても、浴室を出た瞬間から汗が噴き出してくる。
髪を拭いたタオルを首にかけながら、冷蔵庫を開ける。ひんやりした冷気が、火照った顔に気持ちいい。

「あと二本……か」

悩んだけれど、ドラマを観ながら飲むのはどうしてもペリエにしたかった。
私は里見君が買ってきてくれた緑色の瓶を手にすると、お気に入りのグラスを持ってリビングのソファーへと腰かける。
テーブルに置いていたスマホには、ドラマ公式SNSからスタート前最後の通知が届いていた。

「今晩十一時からいよいよスタートです。みなさん、テレビの前で全力待機ですよー!」

更新された動画には、里見君のほかに山岸蘭と池尻ありさも映っていた。
こんなふうに画面越しで観る里見君は、やっぱり芸能人で、よく知っているはずなのに知らない人のようにも思える。だからなのか、姿を見ても胸の痛みを感じずにすんでいる。

動画の下に羅列されたハッシュタグには『いよいよあと一時間』、『ワクキュンあります』などのほかに、『今日はキャスト全員で一話を鑑賞』と書かれていた。

「そっか……みんなで観るんだ」

きっとあの時はああだったこうだったと言いながら、賑やかに観るのだろう。
言葉にできない気持ちを持て余しながら、私はグラスにペリエを注ぎ入れた。しゅわりと躍る気泡が、グラスの表面でパチパチと弾ける。

ライトに照らされてキラキラしているそれは、まるでテレビの中の世界みたいだ。煌びやかで、華やか。自分のいる場所とは、なにもかもが違う。
グラスをぼんやり見つめていると、突然スマホが甲高い音を鳴らしてドキリとした。

「なんだ……アラームか」

そういえばドラマの開始時間を忘れないようにと、設定していたことを思いだす。

「……今、メッセージなんて来るはずないのに」

私はひとりで苦笑しながら、テレビをつけた。
里見君扮するミツジは、海外でも活躍する売れっ子モデル。なのに、なぜか安アパートに住んでいる。しかも、普段はむさくるしい恰好に変装していた。ひょんなことから隣に住む主人公のひよりと知り合いになり、顔を合わせれば憎まれ口を叩く間柄となる。

『こんな時間からお出かけですか』

『そういうあんたも、今日もコンビニ飯ですか』

あ、ここ……。
以前、里見君に頼まれて、台本の読み合わせをしたところだ。
知っているシーンが出てくると、なんとなくドキドキしてしまう。

里見君はあの読み合わせの時以上に、いい芝居をしていた。全然、ヘタなんかじゃない。山岸蘭も子役出身だけあって、かなりの演技力だ。

「私の棒読みセリフとは大違い……」

読み合わせの時を思い出して、恥ずかしくなる。
そのうち、山岸蘭扮するひよりに好意を寄せる男性なども現れ、私は純粋にドラマにのめり込んでいった。

『自分から行動を起こさねーでどうすんだよ。いつまでも受け身でいたら、望むほうになんか進まない』

ドラマの終盤、ミツジのセリフにドキリとする。
いつまでも受け身でいたら、望むほうになんか進まない――。

いったい、私はいつまで受け身でいるつもりなのだろう。
受け身でいたって、里見君が目の前から消えてしまうのなら、一か八か、本心をぶつけてもいいのかもしれない。そう思うのに、その一歩が踏み出せない。

ふと気がつけば、もう次回予告が流れていた。
『恋コロ』は純粋にドラマとして面白く、もう次が待ちきれなくなっている。ミツジの、モデルの仕事に対する真摯な姿勢は、里見君そのもののようにも感じた。

私は居ても立ってもいられず、スマホを手に取る。今、彼が仕事中だということは、よくわかっている。でもドラマを観終わった瞬間のこの気持ちを、どうしても里見君に伝えておきたくなった。

送信ボタンを押し、氷が解けてぬるくなったペリエを飲み干す。
片づけも終え、メイク用品が入った引き出しからパックを取り出して荒れかけていた肌に乗せると、なんとなくそのままソファーに横になってしまった。

「横になったらだめ。このまま寝ちゃう……」

自分への忠告も虚しくウトウトしかけた頃、スマホの着信音が鳴って飛び起きた。

「も……もしもし」

「……もしかして、寝てた?」

里見君の声が、優しい。

「ちょっとだけ、ソファーでウトウトと……」

「エアコンの温度下げたままで寝たら、風邪引くよ」

まるでどこかで見ていたかのような指摘で、苦笑する。私は二十五度設定のままだったリビングのエアコンをとめた。

「さっそくの感想、ありがとうございます」

里見君が、電話の向こうで丁寧に頭を下げている図を想像してにやけてしまう。

「ごめんね、仕事中なのに」

「ううん。ちゃんとリアタイしてくれたんだなって、めちゃめちゃ嬉しかった」

電話の背後に、微かにざわつく声が聞こえた。

「今、電話してて大丈夫なの……?」

「ん、ちょっとなら。すぐに戻らないといけないけど」

「なんか、ごめんね」

「さっきから、ずっと謝ってるね」

そう言って、里見君は笑う。

「俺が、声が聞きたかったの」

「……えっ」

「……あ、やっぱり呼ばれた。こっちこそごめん。じゃ、おやすみ」

私が「おやすみ」と言い終わらないうちに、電話は切れてしまった。きっと誰かが近くに来てしまったのだろう。そんな気配も感じ取れた。

「まさか、電話をかけてきてくれるなんて……」

里見君は、特に変わった様子はなく、いつもと同じように思えた。

『俺が、声が聞きたかったの』

聞き間違いではなかった、はず。

「そんなことを言われたら、都合のいいほうに考えてしまうじゃない……」と、ここにはいない里見君に文句を言ってやる。
ふと時計に目をやると、パックしてから二十分以上が経過していて驚いた。

「やだ! 乾燥して皺になっちゃう!」

慌ててパックを顔から剥がし、頬を手のひらで押さえて美容液を肌に浸透させながら、里見君の言葉もジワリと心に沁み込ませた。


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