野良猫は、溺愛する
Act 6:野良猫は傷口を舐める(1)
デスクに置かれていたスマホ二台のうちの片方が、また小さく震えた。
着信を知らせたのは、プライベート用のスマホ。いつもなら自分の鞄に入れておくのだけれど、今日は敢えて表に出している。
「はいはい……と」
手帳型のカバーを開ける。『投稿をシェアしました』の通知は、ドラマキャストのインスタグラムからだった。
今日は里見君の初出演ドラマ、『そんな恋などどこにも転がってない』の初回放送日。我が編集部はドラマの全面バックアップを公言しているため、里見君の写真や記事がアップされた時は、Men’s Fort公式SNSでの拡散を積極的に行っている。
とはいえ、編集部はギリギリの人員。誰かひとりをネット専属にするわけにはいかず、ホームページ以外のWEB業務はスタッフ持ち回りで請け負っていた。今日は初回放送日ということで、雑誌の企画でドラマにかかわっている私が担当している。
更新の通知は会社のパソコンにも届くけれど、フォローしきれない部分を自分のスマホでカバーしている、というわけだ。
また、スマホが震える。今度はドラマ公式ツイッターからの通知だ。
「あ、オフショット」
里見君と、キャストの男性若手俳優がツーショットで写っている。これは一話で出てくる場所なんだろうか。どこかのビルの壁に、ふたりでもたれながら腕組みしている。
私はさっそくそれを拡散すべく、パソコンで開いていたMen’s Fort公式アカウントから矢印が回っているマークをクリックした。
ゆうべは案の定、眠れなかった。
里見君があの晩以来私のところに来るようになったのは、本当に探りを入れるためだけだったのか――。
里見君とのこれまでの出来事から、小さなポジティブ要素を見つけては自分を落ち着かせ、なんの言葉も約束もない関係を思い出しては、ネガティブに引っ張られて不安になる、をずっと繰り返している。
結論の出ないことを考えても仕方がないというのに。
合鍵を受け取ってもらったことですら、なんの慰めにもなっていない。
里見君からは、連絡は来ていない。雑誌の撮影のあとはドラマの撮影が立て込んでいると関係者からスケジュールを聞いていたし、来なくてもおかしくはないけれど、今度こそこのまま連絡が途絶えるんじゃないかと、不安が募る。
ふと、デスクに置いている卓上の小さな鏡が目に入った。以前在籍していた女性誌の付録だけれど、鳥と草木の模様が描かれたデザインも、邪魔にならない大きさも気に入っていて、いつもはデスクで昼食を食べたあとの口元チェックに使っている。
手に取って顔を映してみると、コンシーラーでは隠しきれないクマが目の下に鎮座したうえ、ファンデーションが浮き上がっていて化粧のりも最悪だった。
「酷い顔……」
寝不足のせいか、はたまた疲れ目のせいか、鏡を見ていたら目がしょぼしょぼしてくる。
「……だめだ、コーヒー飲も」
立ち上がり、自分のマグカップを持ってコーヒーメーカーがある場所へ向かおうとすると、「伊吹もコーヒーか?」と後ろから声がかかった。
声の主は、金岡編集長。
「あ……はい」
寺ちゃんから余計なことを吹き込まれてしまったせいで、変に意識してしまう。
「俺が伊吹のぶんも淹れてきてやるよ」
持っていたカップへ、金岡編集長の手が伸びてきて焦る。
「いえいえそんな! むしろ私が金岡編集長のぶんを淹れてきますから」
「じゃ、仲良くふたりで行くか」
いつもならさして気にならない言葉も、昨日の件でやけに気になってしまう。仕事がしづらいことこの上ない。まったく、寺ちゃんめ。どうしてくれよう。
コーヒーメーカーを確認すると、誰が最後に飲んだのかガラスポットがほとんど空になっていた。
「あーもう、最後に飲んだ人は電源切るなり補充するなりしてよ……」
「確かに危ないな。安全装置がついてるから火事にはならないだろうが、うちもBijouxの編集部みたいにカプセル型のものを導入するか……」
そう言いながら、金岡編集長は手早くドリッパーをはずし、ガラスポッドを手にしている。
「ああ、それは私が……!」
「給湯室行くぞ」
慌てて金岡編集長の背中を追いかけていると、編集長の後頭部の髪がぴょんとはねているのに気づいた。普段は完璧に整えているのに。めずらしい光景に、まじまじと見てしまう。
「編集長、後頭部の髪、はねてますけど……」
私は給湯室に入ってすぐ、どうしても気になって金岡編集長に言ってしまった。
「あ、やっぱり出てるか?」
彼は頭を押さえながら、こちらに振り返った。
「はい、一か所ぴょこんと」
「まいったな……実はこれでも直してきたつもりなんだよ」
私がガラスポッドやらを洗っている隣で、金岡編集長は髪に水をつけて必死に寝癖を直している。
「直った?」
編集長は私のほうにくるりと背中を向けた。
「ああ、寝癖はそこじゃなくて……」
言いながら、私は思わず金岡編集長の後頭部に触れてしまった。
……まずい。
そう思った時にはすでに、給湯室には変な空気が流れていた。
「あっ、あ……す、すみません……昔、よく兄の寝癖を直してあげてたんで、その癖でつい……編集長に大変失礼をいたしました」
兄の寝癖を直すなんてことは過去一、二回ほどしかなかったが、ここは嘘で切り抜けるしかない。
「あ、いや、別にいいけど……で、直った?」
「はい……一応」
早くここを出たい。逃げたい。
私は洗ったものを素早く布巾で拭くと「行きましょうか」と言い逃げるようにして、そそくさと給湯室をあとにした。
着信を知らせたのは、プライベート用のスマホ。いつもなら自分の鞄に入れておくのだけれど、今日は敢えて表に出している。
「はいはい……と」
手帳型のカバーを開ける。『投稿をシェアしました』の通知は、ドラマキャストのインスタグラムからだった。
今日は里見君の初出演ドラマ、『そんな恋などどこにも転がってない』の初回放送日。我が編集部はドラマの全面バックアップを公言しているため、里見君の写真や記事がアップされた時は、Men’s Fort公式SNSでの拡散を積極的に行っている。
とはいえ、編集部はギリギリの人員。誰かひとりをネット専属にするわけにはいかず、ホームページ以外のWEB業務はスタッフ持ち回りで請け負っていた。今日は初回放送日ということで、雑誌の企画でドラマにかかわっている私が担当している。
更新の通知は会社のパソコンにも届くけれど、フォローしきれない部分を自分のスマホでカバーしている、というわけだ。
また、スマホが震える。今度はドラマ公式ツイッターからの通知だ。
「あ、オフショット」
里見君と、キャストの男性若手俳優がツーショットで写っている。これは一話で出てくる場所なんだろうか。どこかのビルの壁に、ふたりでもたれながら腕組みしている。
私はさっそくそれを拡散すべく、パソコンで開いていたMen’s Fort公式アカウントから矢印が回っているマークをクリックした。
ゆうべは案の定、眠れなかった。
里見君があの晩以来私のところに来るようになったのは、本当に探りを入れるためだけだったのか――。
里見君とのこれまでの出来事から、小さなポジティブ要素を見つけては自分を落ち着かせ、なんの言葉も約束もない関係を思い出しては、ネガティブに引っ張られて不安になる、をずっと繰り返している。
結論の出ないことを考えても仕方がないというのに。
合鍵を受け取ってもらったことですら、なんの慰めにもなっていない。
里見君からは、連絡は来ていない。雑誌の撮影のあとはドラマの撮影が立て込んでいると関係者からスケジュールを聞いていたし、来なくてもおかしくはないけれど、今度こそこのまま連絡が途絶えるんじゃないかと、不安が募る。
ふと、デスクに置いている卓上の小さな鏡が目に入った。以前在籍していた女性誌の付録だけれど、鳥と草木の模様が描かれたデザインも、邪魔にならない大きさも気に入っていて、いつもはデスクで昼食を食べたあとの口元チェックに使っている。
手に取って顔を映してみると、コンシーラーでは隠しきれないクマが目の下に鎮座したうえ、ファンデーションが浮き上がっていて化粧のりも最悪だった。
「酷い顔……」
寝不足のせいか、はたまた疲れ目のせいか、鏡を見ていたら目がしょぼしょぼしてくる。
「……だめだ、コーヒー飲も」
立ち上がり、自分のマグカップを持ってコーヒーメーカーがある場所へ向かおうとすると、「伊吹もコーヒーか?」と後ろから声がかかった。
声の主は、金岡編集長。
「あ……はい」
寺ちゃんから余計なことを吹き込まれてしまったせいで、変に意識してしまう。
「俺が伊吹のぶんも淹れてきてやるよ」
持っていたカップへ、金岡編集長の手が伸びてきて焦る。
「いえいえそんな! むしろ私が金岡編集長のぶんを淹れてきますから」
「じゃ、仲良くふたりで行くか」
いつもならさして気にならない言葉も、昨日の件でやけに気になってしまう。仕事がしづらいことこの上ない。まったく、寺ちゃんめ。どうしてくれよう。
コーヒーメーカーを確認すると、誰が最後に飲んだのかガラスポットがほとんど空になっていた。
「あーもう、最後に飲んだ人は電源切るなり補充するなりしてよ……」
「確かに危ないな。安全装置がついてるから火事にはならないだろうが、うちもBijouxの編集部みたいにカプセル型のものを導入するか……」
そう言いながら、金岡編集長は手早くドリッパーをはずし、ガラスポッドを手にしている。
「ああ、それは私が……!」
「給湯室行くぞ」
慌てて金岡編集長の背中を追いかけていると、編集長の後頭部の髪がぴょんとはねているのに気づいた。普段は完璧に整えているのに。めずらしい光景に、まじまじと見てしまう。
「編集長、後頭部の髪、はねてますけど……」
私は給湯室に入ってすぐ、どうしても気になって金岡編集長に言ってしまった。
「あ、やっぱり出てるか?」
彼は頭を押さえながら、こちらに振り返った。
「はい、一か所ぴょこんと」
「まいったな……実はこれでも直してきたつもりなんだよ」
私がガラスポッドやらを洗っている隣で、金岡編集長は髪に水をつけて必死に寝癖を直している。
「直った?」
編集長は私のほうにくるりと背中を向けた。
「ああ、寝癖はそこじゃなくて……」
言いながら、私は思わず金岡編集長の後頭部に触れてしまった。
……まずい。
そう思った時にはすでに、給湯室には変な空気が流れていた。
「あっ、あ……す、すみません……昔、よく兄の寝癖を直してあげてたんで、その癖でつい……編集長に大変失礼をいたしました」
兄の寝癖を直すなんてことは過去一、二回ほどしかなかったが、ここは嘘で切り抜けるしかない。
「あ、いや、別にいいけど……で、直った?」
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