野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 5: 野良猫はなにを考えている?(7)

外はいつの間にか小雨が降っていた。アスファルトから立ちのぼる独特な匂いが、街中に充満している。土臭いような埃くさいような、あまりいい匂いとは言えないけれど、不思議と嫌いじゃない。

寺ちゃんと駅で別れて私たちは小走りにタクシープールに行き、兄とふたりでタクシーに乗った。兄が暮らしている家と方向が一緒だということもあるけれど、兄に早く寺ちゃんからもらったワインを渡したかった。

「菜津」

ぼんやり、窓に線を描く雨粒を見つめていた私に、兄が声をかけてきた。

「……なに?」

「お前も、なんかあった?」

やはり、兄は聡い。

「ん? なにもないよ」

笑いながら言ったつもりだったけれど、うまく笑えず、なんだか少し投げやりな言い方になってしまった。

「なにもない、って顔じゃない」

「寺ちゃんの話、聞いたでしょ。今日は年に一度あるかないかの大きい仕事の仕切りだったし、わけもわからず一方的に責められたりして、ちょっと精神的にも疲れてるだけだよ」

嘘は言っていない。

「菜津はいつもひとりで抱え込むから心配なんだ」

久しぶりに聞く私を気遣う声に、思わず泣きそうになってしまった。
兄はどちらかと言えば口数が多いほうではないけれど、昔からいつも私や家族を気遣ってくれる優しい心の持ち主だ。

「……ありがとう。でも大丈夫」

だから、気づかれたくなかった。心配をかけたくなかった。

「まあ、俺には話さなくてもいいけど、とにかくひとりで抱え込むなよ」

「……うん、わかってる」

家に着き、兄にワインを渡して、私はひとり真っ暗な部屋に戻る。
蒸し暑さに耐えかねて、部屋の照明よりも先にエアコンを入れた。

『あー涼しー』

エアコンの下の、風がよく当たる場所に、タオルで頭を拭きながら気持ちよさそうにしている、いつかの里見君の幻影が見えた。

キッチンにも、ソファーにも、ベッドにも。この家のあちらこちらには、里見君の欠片が色濃く残っている。消えても、また欠片は形を成して、別の場所に現れる。たとえ里見君がこの家に来なくなったとしても、それはきっと当分の間、ふとした時に現れ続ける。

寺ちゃんの話によると、池尻ありさが持っていた画像には、ホテルのベッドに上半身裸で横たわる里見君の姿と、その隣に今タレント活動をしている元Bijoux専属モデルの女性が写っていたらしい。

池尻ありさとはつき合っていなかったけれど、やはり“野良猫”が出入りしていたのは私のところだけではなかった、ということなんだろうか。

『俺がなっつと本当につき合ってるのか探らないと画像をばら撒くって』

さっきの寺ちゃんの言葉が、耳の奥に聞こえた。
探りを入れるだけなら、なぜ私を抱いたりしたの。

「わっ」

プライベート用のスマホを消音モードオフにした瞬間、通知音が鳴ってびっくりする。
相手は、寺ちゃんだった。

『今、電話しても大丈夫か?』

さっきまで散々話していたというのに、どうしたというのだろう。
私は部屋の明かりをつけながら、スマホに登録してある寺ちゃんの番号をタップした。

「……ああ、悪いな。そっちからかけさせて」

「ううん。それより、さっきまで一緒にいたのに電話なんて、どうしたの?」

「……いや、さっきは冬馬がいたから話しにくかったんだけど」

なにかを予感して、鼓動が緩やかに上昇していく。

「……なに?」

「里見からなっつのところに、実際なにか探り的なものはあったのか、と思って」

心臓が、小さく跳ねる。
訊かれると思っていた。
きっと寺ちゃんも兄同様、私になにかあったらと、心配してくれているのだろう。それも自分がかかわっていることだから、なおのこと。

「あー……」

話したほうがいいだろうか。
それともなにもないと、やり過ごしたほうがいいのだろうか。
私は逡巡しつつも、一度閉じた口を開いた。

「……前に里見君が酷く酔って私が家まで送っていったことがあったんだけど、トイレを貸すために一度うちに寄ったから、その時に男の気配があるかどうかぐらいは探られたかもしれない」

寺ちゃんに話せる、ギリギリのラインを探った。

「思い当たるのは、それだけ?」

「……うん、多分」

電話の向こうから、大きく息を吐くような声が聞こえる。

「ならよかった……まあ、実際俺らはつき合ってないんだから、里見になにを探られても問題はないだろうけど、なっつが傷つくようなことがあったらと心配になってさ」

傷口に塩水が染みたような、ピリリとした痛みが走る。

「……ありがと」

「里見は素直そうに見えて、なにを考えているか掴みどころのない時があるからな」

強く同意したい気持ちに駆られるけれど、ここは「そう?」と受け流しておく。

「本当に、巻き込んで悪かった」

「寺ちゃんだって、悪くないでしょ」

「まあ……うん」

わずかな沈黙のあと、寺ちゃんがこれまでの神妙な口調から打って変わり、少々呆れたように「つーかさぁ」と言った。

「なっつは、つき合ってる男はいねーの」

「えっ……な、なに、突然」

「……ああ、つき合ってる男がいたら里見に怪しまれていただろうから、それはないか」

自分から話をふっておいて、勝手に自己完結しないでほしい。

「ちょっと……バカにしてる?」

「いやいや、そうじゃなくてさ。なっつに全然男の影がないから、血の繋がってないほうの兄貴としては心配なわけですよ」

「余計なお世話」

そう言うと、寺ちゃんは電話の向こうでゲラゲラと笑った。

「誰からもお誘いはないのか?」

私は大きくため息をついてやった。

「残念ながらありません」

「ということは……まだ……ふうん……」

寺ちゃんは、ひとりでぶつぶつとなにか言っている。メンタルを心配していれば随分と元気そうじゃないかと、電話を切ってしまおうかと思ったところで「てっきりもうデートぐらいはしてるのかと思ってたんだよな」と妙な言葉が聞こえてきた。

「……は? 誰と?」

「孝太郎さん」

「コウタロウ……って誰?」

「自分とこの編集長の名前も知らないのかよ」

「はあ!?」と、自分でも驚くぐらいの大きな声が出てしまった。
普段、金岡編集長、としか呼んでいなかったから、下の名前を失念していた。

「か、金岡編集長と、ってなんで」

「いや、孝太郎さんと飲むとよくなっつの話をされるんだけどさ、ちょっと言い方が普通の仕事仲間に対する感じじゃないんだよな」

「それは寺ちゃんと私が幼馴染だって知ってるから、くだけた雰囲気で言ってるだけでしょ……」

言いながら、そう言えばこの間「決起集会だ」と言って、さしで飲みに行ったことを思い出す。
まさか……いやいや。本当にあの時はほぼ仕事の話だったし。

「だから今回、もしふたりがそういう関係になりかけてたら、仕事がやりづらいんじゃないかと思ったんだよ」

いつかの合同企画の打ち合わせで『仕事がやりづらいんじゃないか?』と、そう言えば寺ちゃんは言っていた。
その時は、里見君とのことを勘づかれたのかとヒヤヒヤしたけれど、まさか金岡編集長とのことを言っていたとは。

「ま、関係が進展した暁には三人で飲もう。お祝いしてやるよ。じゃ、今日はサンキューな」

「ちょ……っ、寺ちゃん……!」

寺ちゃんは言い逃げするように早口でそう言って電話を切った。

「もうなんなのよ……」

こっちはただでさえ、里見君のことで頭がいっぱいだというのに。
余計な置き土産までされて、今夜は眠れる気がしなかった。


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