野良猫は、溺愛する
Act 5: 野良猫はなにを考えている?(5)
寺ちゃんが指定したお店は、この三人でよく飲みに行っている馴染みの和風居酒屋だった。大将とも話しながら飲むのでいつもはカウンター席が多いけれど、今日は話の内容が内容だから、個室席に通してもらう。
この店の一番人気の厚切りハムカツがテーブルに並んだところで、兄の冬馬がスーツのジャケットを脱ぎながら怪訝そうに口を開いた。
「で、今日はなんで急に?」
「久しぶりに冬馬と飲みたかったんだよー」
寺ちゃんは嬉しそうに、ビールのグラスを兄のグラスにカチリとぶつけている。
兄は寺ちゃんをじっと見つめた。
「……なるほど。で、なにがあったんだ、てら」
寺ちゃんはがくりと項垂れ、「やっぱ敵わないなー」と力なく笑っている。
うちの兄は、人の、そういうちょっとした変化に聡い。私も学生時代、学校で嫌なことがあったりすると、顏に出していないつもりでもすぐに気づかれていたものだ。
「さすがに今日は、ちょっとしんどかったんだ……」
「だから、なにがあったんだよ」
「寺ちゃんの、いつもの女性問題。例のごとく、私も巻き込まれた」
気にしていそうだなと思い、私はわざと冗談めいた明るい声で言った。寺ちゃんは「いつものとか言うなよ」と、前髪をぐしゃりと掴んでふて腐れ気味だ。
「……今回は、ちょっとわけが違うんだよ」
「だから勿体ぶるなって。ここに呼ばれて俺だけわかんねーの、仲間はずれみたいで嫌なんだけど」
兄は文句を言いながら、たこわさを口に運んでいる。
「ううん、私もよくわかってないよ」
私がわかっているのは、池尻ありさに、寺ちゃんと私がつき合っていると思われていたということと、それによって逆恨みされていたことぐらいだ。
……あとは、里見君もこの件になにかしらかかわっていたらしい、ということ。
「学生時代ならともかく、なんで今ごろ菜津がてらの色恋沙汰に巻き込まれてるんだよ」
「私もそこは不思議なんだよね」
兄妹で詰め寄ると寺ちゃんは、はあ、と大きくため息をついた。
「……ありさは……ああ、ありさってモデルの池尻ありさのことだけど。彼女はどっかで、俺となっつが仲良さそうに話しているところを何度か見かけたらしくて」
私と寺ちゃんの接点といえば、仕事上ではMen’s Fortの現場しかない。
彼女がなぜ、どこで。頭の中に、疑問が浮かぶ。
「なにお前、池尻ありさから言い寄られてんの?」
兄は「いいじゃん池尻ありさ、美人だし」と言いながら、ビールを喉に流し入れている。
「あのな……『綺麗な薔薇には棘がある』って言うだろ。あいつはそれを地で行ってるんだよ。まあそもそも俺から薔薇に近づいたわけじゃなくて、向こうから近づいてきて俺は棘に刺されたんだけど」
「なんだ、やっぱモテ自慢か」
「違うわ、アホ」
いつものようなやり取りが目の前で展開していることに、少し安堵する。寺ちゃんはまたため息をつきながら話を続けた。
「……ありさは初めて会った時からやけに人懐っこく接してきてさ。この業界はわりとそういう感じの人間はいるから、特に気にすることなく俺も普通に接してたんだけど」
寺ちゃんはいつもなら真っ先に手を伸ばす厚切りハムカツに手もつけず、お通しのオクラの胡麻和えを、ただ箸でつついている。
「なにをどう勘違いしたのか、ありさは俺に好かれてると思っていたらしいんだ」
「……あのさ。落ちこんでるとこにダメ押しになるかもしれないけど」
兄は茄子の漬物をつまもうとしていた箸を置き、寺ちゃんのほうを向いた。
「てらは変に優しいところがあるから、昔からよく勘違いされてきただろ。それで何度も痛い目をみたことを忘れたとは言わせないぞ」
「……うん。それでなっつを巻き込んで、冬馬に何度も怒られたのももちろんよく覚えてるよ。でも今回は誓って、一切そんな素振りを見せたつもりはないんだ」
寺ちゃんはそう言って項垂れている。
「でも、断ったんでしょ……? メイクルームで池尻ありさに言ってたよね」
『俺は二度も断った』
寺ちゃんは確かにそう言っていた。
普通ならば一度断れば終わる話だろうけれど、池尻ありさの様子からして簡単には終わらせてもらえなかったのだと想像がつく。
「断るというか……あいつの頭の中では、勝手に俺とつき合っていることになっていたらしくてね」
「……どういうこと?」
さすがに驚く。
私は兄と顔を見合わせた。
「仕事終わりに何度か『ご飯に行こう』って誘われて、俺は仕事上の付き合いとして誘いに乗ったわけだけど……今考えれば、それが間違いだった」
それから寺ちゃんが話してくれた内容はこうだ。
池尻ありさにご飯に誘われ、アシスタントも一緒に行こうとすると、相談事があるからと言われて仕方なくふたりきりで行くことになった。
何度目かの食事の時、「今度あそこに連れていって」とか「温泉に泊まりに行こう」とか、つき合ってもいないのに言われたことに違和感を感じていると、その帰り道には彼女から腕を組んできたという。
その日からチャットアプリのメッセージが毎日届き始めて、さすがにまずいと思った寺ちゃんは、勘違いだったらごめん、と前置きをしたうえで『俺にはつき合ってる女性がいるから』と、池尻ありさにはっきり電話で伝えたらしい。
「電話で、っていうところがてららしいな」
「本当は直接会って話したかったんだけど、予定が合うまで延ばしてると余計に誤解されそうでさ。文字だけだと間違った解釈をされるかもしれないし」
私はさっきの寺ちゃんの言葉に、引っかかりを覚えた。
「もしかして、その時に『つき合ってる女性がいる』って言って断ったから、相手が私だと勘違いされたってこと?」
「……多分な。でもその時彼女がいたのは嘘じゃねーし。しかも別れたのは、ありさからのメッセージを見られたのも原因のひとつだよ。最悪だろ?」
寺ちゃんは半年ほど前、約二年つき合った彼女に振られていた。まさか、そのことも池尻ありさが関係していたとは。
「それで話した時、ありさちゃんの様子はどうだったの?」
「電話だから表情はわからなかったけど、少なからずショックを受けてた感じではあった」
これまでも池尻ありさの恋愛は“なんとなく”始まってきたのだろうか。
そう考えてから、今の私も“なんとなく”続いているのだと気づいてしまう。
同じだ……彼女と。
この店の一番人気の厚切りハムカツがテーブルに並んだところで、兄の冬馬がスーツのジャケットを脱ぎながら怪訝そうに口を開いた。
「で、今日はなんで急に?」
「久しぶりに冬馬と飲みたかったんだよー」
寺ちゃんは嬉しそうに、ビールのグラスを兄のグラスにカチリとぶつけている。
兄は寺ちゃんをじっと見つめた。
「……なるほど。で、なにがあったんだ、てら」
寺ちゃんはがくりと項垂れ、「やっぱ敵わないなー」と力なく笑っている。
うちの兄は、人の、そういうちょっとした変化に聡い。私も学生時代、学校で嫌なことがあったりすると、顏に出していないつもりでもすぐに気づかれていたものだ。
「さすがに今日は、ちょっとしんどかったんだ……」
「だから、なにがあったんだよ」
「寺ちゃんの、いつもの女性問題。例のごとく、私も巻き込まれた」
気にしていそうだなと思い、私はわざと冗談めいた明るい声で言った。寺ちゃんは「いつものとか言うなよ」と、前髪をぐしゃりと掴んでふて腐れ気味だ。
「……今回は、ちょっとわけが違うんだよ」
「だから勿体ぶるなって。ここに呼ばれて俺だけわかんねーの、仲間はずれみたいで嫌なんだけど」
兄は文句を言いながら、たこわさを口に運んでいる。
「ううん、私もよくわかってないよ」
私がわかっているのは、池尻ありさに、寺ちゃんと私がつき合っていると思われていたということと、それによって逆恨みされていたことぐらいだ。
……あとは、里見君もこの件になにかしらかかわっていたらしい、ということ。
「学生時代ならともかく、なんで今ごろ菜津がてらの色恋沙汰に巻き込まれてるんだよ」
「私もそこは不思議なんだよね」
兄妹で詰め寄ると寺ちゃんは、はあ、と大きくため息をついた。
「……ありさは……ああ、ありさってモデルの池尻ありさのことだけど。彼女はどっかで、俺となっつが仲良さそうに話しているところを何度か見かけたらしくて」
私と寺ちゃんの接点といえば、仕事上ではMen’s Fortの現場しかない。
彼女がなぜ、どこで。頭の中に、疑問が浮かぶ。
「なにお前、池尻ありさから言い寄られてんの?」
兄は「いいじゃん池尻ありさ、美人だし」と言いながら、ビールを喉に流し入れている。
「あのな……『綺麗な薔薇には棘がある』って言うだろ。あいつはそれを地で行ってるんだよ。まあそもそも俺から薔薇に近づいたわけじゃなくて、向こうから近づいてきて俺は棘に刺されたんだけど」
「なんだ、やっぱモテ自慢か」
「違うわ、アホ」
いつものようなやり取りが目の前で展開していることに、少し安堵する。寺ちゃんはまたため息をつきながら話を続けた。
「……ありさは初めて会った時からやけに人懐っこく接してきてさ。この業界はわりとそういう感じの人間はいるから、特に気にすることなく俺も普通に接してたんだけど」
寺ちゃんはいつもなら真っ先に手を伸ばす厚切りハムカツに手もつけず、お通しのオクラの胡麻和えを、ただ箸でつついている。
「なにをどう勘違いしたのか、ありさは俺に好かれてると思っていたらしいんだ」
「……あのさ。落ちこんでるとこにダメ押しになるかもしれないけど」
兄は茄子の漬物をつまもうとしていた箸を置き、寺ちゃんのほうを向いた。
「てらは変に優しいところがあるから、昔からよく勘違いされてきただろ。それで何度も痛い目をみたことを忘れたとは言わせないぞ」
「……うん。それでなっつを巻き込んで、冬馬に何度も怒られたのももちろんよく覚えてるよ。でも今回は誓って、一切そんな素振りを見せたつもりはないんだ」
寺ちゃんはそう言って項垂れている。
「でも、断ったんでしょ……? メイクルームで池尻ありさに言ってたよね」
『俺は二度も断った』
寺ちゃんは確かにそう言っていた。
普通ならば一度断れば終わる話だろうけれど、池尻ありさの様子からして簡単には終わらせてもらえなかったのだと想像がつく。
「断るというか……あいつの頭の中では、勝手に俺とつき合っていることになっていたらしくてね」
「……どういうこと?」
さすがに驚く。
私は兄と顔を見合わせた。
「仕事終わりに何度か『ご飯に行こう』って誘われて、俺は仕事上の付き合いとして誘いに乗ったわけだけど……今考えれば、それが間違いだった」
それから寺ちゃんが話してくれた内容はこうだ。
池尻ありさにご飯に誘われ、アシスタントも一緒に行こうとすると、相談事があるからと言われて仕方なくふたりきりで行くことになった。
何度目かの食事の時、「今度あそこに連れていって」とか「温泉に泊まりに行こう」とか、つき合ってもいないのに言われたことに違和感を感じていると、その帰り道には彼女から腕を組んできたという。
その日からチャットアプリのメッセージが毎日届き始めて、さすがにまずいと思った寺ちゃんは、勘違いだったらごめん、と前置きをしたうえで『俺にはつき合ってる女性がいるから』と、池尻ありさにはっきり電話で伝えたらしい。
「電話で、っていうところがてららしいな」
「本当は直接会って話したかったんだけど、予定が合うまで延ばしてると余計に誤解されそうでさ。文字だけだと間違った解釈をされるかもしれないし」
私はさっきの寺ちゃんの言葉に、引っかかりを覚えた。
「もしかして、その時に『つき合ってる女性がいる』って言って断ったから、相手が私だと勘違いされたってこと?」
「……多分な。でもその時彼女がいたのは嘘じゃねーし。しかも別れたのは、ありさからのメッセージを見られたのも原因のひとつだよ。最悪だろ?」
寺ちゃんは半年ほど前、約二年つき合った彼女に振られていた。まさか、そのことも池尻ありさが関係していたとは。
「それで話した時、ありさちゃんの様子はどうだったの?」
「電話だから表情はわからなかったけど、少なからずショックを受けてた感じではあった」
これまでも池尻ありさの恋愛は“なんとなく”始まってきたのだろうか。
そう考えてから、今の私も“なんとなく”続いているのだと気づいてしまう。
同じだ……彼女と。
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