野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 5: 野良猫はなにを考えている?(4)

そのあとは、大変だった。
私自身、事情がよく呑み込めていなかったために、Bijouxの編集長や金岡編集長にどう説明すればいいのかわからず、とにかくありさちゃんが取り乱しているので、寺嶌さんにメイクをしてもらうのは困難だ、とだけ伝えた。

その辺はもうすでにBijoux側で緊急に手配していたようで、程なくして代わりのヘアメイクさんが現場に到着した。

そもそも急に体調を崩したヘアメイクさんは、池尻ありさから「美容にいいドリンクがある」となにかを飲まされた数十分後に、急にふらつきを覚えたらしい。騒動のあと会社常駐の保健師に話を聞きにいくと「はっきりとした確証はないけれど、もしかしたら飲み物に睡眠薬かなにかが混ぜられていたのかもしれない」という驚きの診断結果が伝えられた。

撮影と取材を終えられたのは、予定の時間から二十分ほど過ぎた午後六時少し前。あれだけの騒ぎがあってもその程度のロスですんだのは、企画を失敗させたくないという担当者たちの意地だったと思う。そこだけは、誇りたい。

幸い、池尻ありさ以外のキャストは誰ひとりあの部屋にはおらず――というより、池尻ありさがうまいこと言って人払いしたようだけれど――なにが起きていたのかは、キャストには一切知られていない。

そうは言っても、あの騒ぎでなにもなかったというのはあまりに不自然なので、事情を知るものの間で話し合い、メイクルームにゴキブリが出てパニックになった、ということにした。まだ撮影も残っているのに、キャスト同士が変な空気になってはいけないからと、金岡編集長の提案だ。集まっていた企業の方々に、会社の衛生管理が少々疑われてしまいそうだけれど、この際致し方ない。

この件も含め、改めて両編集部で報告の場を設けることとなり、今日の打ち上げ的な会食は急遽中止となった。私としても正直そんな気分ではなかったから、中止になって良かったと胸を撫で下ろしていた。
……のだけれど。

「伊吹」

片づけも終わり、そろそろスタジオを引き上げようかという段階で、私は寺ちゃんに呼び止められた。

「ん?」

「このあと、ちょっとつき合え」

「えっ」

「打ち上げがなくなったんだから空いてるだろ」

そう言われてしまうと、断る理由がない。

「それは、そうだけど……」

「このまま帰るのは後味悪すぎるんだよ……それに、さっきのことをなっつにもちゃんと説明したいし」

私はこのまま帰りたいの、ひとりになりたいの、なんて言えるはずがない。理由を問われるに決まっている。
でも一方で、いったいなにがどうなっているのか、結局あのあとどうしたのか、ちゃんと訊きたいという気持ちもあった。
ただそれは、私のこのぐちゃぐちゃな心が整理できてからにしてほしかった。

「なっつだって、一方的にありさにあんなこと言われて、気分悪いだろ」

「まあ、それは……でももう、こういうシチュエーションには慣れましたし」

「それは……本当、ごめん。毎度巻き込んで悪いと思ってる」

寺ちゃんはいつになく、酷く申し訳なさそうにしている。
落ちこんでいる寺ちゃんを見ていたら、今、彼をひとりにしてはいけない気がしてきた。彼は一見どっしり構えていそうに見えて、意外と繊細な神経の持ち主だ。それによく考えれば、私も誰かと話していたほうが気が紛れるのかもしれない。ひとりで考えていたら、良からぬ方向に考えが及びそうだ。

「……わかった。でも、お兄ちゃんも一緒でもいい?」

寺ちゃんとふたりきりで飲みになんか行って、また誰かに誤解されるのは、さすがに勘弁だ。

「おう、構わないよ。俺も冬馬と久しぶりに会いたいし。俺から連絡してみるよ」

「うん。じゃ、お願い」

軽く手を振って、寺ちゃんと別れる。
編集部に戻り、私は鞄の中にあるスマホを二台取り出した。まずは仕事用のスマホをチェックして、それからプライベート用のスマホを手にする。

……怖い。
もし、里見君からなにかメッセージが来ていたら……?
それが、あまりいい内容でなかったら……?

その瞬間、スマホが小さく震えてドキリとする。
指先の震えを感じながら、恐る恐る手帳型のケースを開けると、チャットアプリの通知が来ていた。
相手は、寺ちゃんだった。

「冬馬、来れるって」

その一文にほっとする。
続いて送られてきた待ち合わせ場所と時間を確認してから、私は「了解」と返事をした。


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