野良猫は、溺愛する
Act 5: 野良猫はなにを考えている?(2)
「すみません!」
ただならぬ表情に、現場には一瞬、緊張が走る。何事だろうか。
「あの、うちのヘアメイクさんが急に体調が悪くなってしまったらしくて……私が呼ばれて行った時にはすでに、アシスタントさんまで彼女に付き添っていってしまってて……ありさちゃんのメイクを始めたばかりだったんですけど」
焦りのせいか、わずかに震えた声は、今度は寺ちゃんに向けられた。
「すみません寺嶌さん、急で申し訳ないんですけど、ありさちゃんのメイクもお願いできないですか?」
「え……」
「山岸蘭さんのメイクさんは、渋滞で到着が少し遅れてるようで……」
「……いや、それは……」
「うちの仕事を降りられたことは存じ上げてます。でも……!」
慌てていたせいか、うっかり大声で内情を口走ってしまったことにBijoux側の担当者も気づいたらしく、「あああ……すみません」と余計に動揺している。
寺ちゃんは一度ため息をついてから、「こっちに」と、彼女を私たちのいたスタジオの隅に呼び寄せた。
「それはお宅の編集長からの依頼?」
「い、いえ……編集長は今、席をはずしているもので、仕方なく私の独断で……」
寺ちゃんはもう一度ため息をついた。
「あのさ。とりあえずありさのマネージャーを呼んでほしいんだけど」
「あ……す、すみません。マネージャーさんも別件のお仕事が押したために、まだ来られていないんです」
「いつ来るの?」
「まもなくいらっしゃるとは思うんですけど……」
彼女の手が震えていることに気づく。
寺ちゃんは私を見た。
「……時間、どのくらい余裕ある?」
「んー……あまりない、かな。撮影は順調に来てるけど、キャスト陣のこのあとの予定もあって、そもそも押し気味なんだよね」
寺ちゃんは取り繕うこともせず、明らかに困惑した表情を見せている。
今度はBijoux側の担当者に目を向けた。
「そもそも、体調が悪くなったメイクさんの様子はどんな感じなの?」
「今、うちのスタッフが確認しに行ってます。でも話によると、かなりフラフラだったようで……」
寺ちゃんは「困ったな……」と言って頭を抱えている。
私は疑問が湧いた。池尻ありさが寺ちゃんの元カノだとして、たとえドロドロの別れ方をしていたとしても、果たしてここまで嫌がるものだろうか、と。どちらかと言えば寺ちゃんは、仕事は仕事だと割りきることができるタイプだと思っていたのだけれど……。
ともあれ、仮に寺ちゃんがメイクを請け負うにせよ、時間が押すことは間違いない。予定を組み直さなきゃいけないかなと、私はもう一度手元にあったタイムスケジュールに目を落とした。
「仕事だし、仕方ねーよなぁ……」
私に話しかけられたような気がして顔を上げると、寺ちゃんは諦め顔でぼんやりと宙を見つめていた。
「……わかりました。ただ、あなたも一緒にメイクルームにいてくれない?」
Bijoux側の担当者は、寺ちゃんのその言葉に困ったような笑みを浮かべている。それもそうだろう、このあとのスケジュールでは彼女も他にやらなくてはいけないことがある。
でも、まずはこのピンチをなんとかしなくてはいけないと思ったのか、彼女は意を決した面持ちで「わかりました」と言って、寺ちゃんに付き添っていった。
少々気になりつつも、私はこれでどうにか先に進めると思っていた。
でも、事件が起こったのは、それからすぐ。
メイクルームから、言葉は聞き取れなかったものの、女性の金切り声のようなものが聞こえてきたのだ。
私は指示を仰ごうと金岡編集長のもとへ向かいかけて、誰かに肩を掴まれた――里見君だ。
「行ってやって、伊吹さん」
「えっ?」
「寺嶌さんのところに」
「でも……」
「いいから!」
里見君は掴んでいた私の肩をメイクルームへ送り出すように押すと、どこかへといなくなってしまった。
どういうこと……?
この場合、おそらくはBijouxのスタッフが確認しに行くのが筋だ。Men’s Fort側の私がでしゃばるのは、あまりよろしくない。
とはいえ、さっきの寺ちゃんの様子を考えると心配にもなる。
私は迷いながらも、寺嶌さんの様子を見てくると金岡編集長に断りを入れたうえで、メイクルームへと向かった。
メイクルームの入り口まで来ると、戻ってきていたらしいBijouxの編集長がちょうど中から出てきたところだった。どうだったのだろうと彼女に視線を向ければ、苦笑されてしまう。
「なんでもない、ってありさに追い出されちゃって……寺嶌さんに迷惑をかけたんじゃないかと思って状況を見に来たんだけど、埒が明かないし、仕方なくいったん出てきたの」
やはり寺ちゃんと池尻ありさの間に、なにかトラブルがあったのだろうか。
「中にBijouxのスタッフさんは……」
「一緒に入ったって聞いていたんだけど、なぜか寺嶌くんとありさのふたりしかいなくてね。どこにいったのかしら」
Bijouxの編集長が追い出された状況で私がすんなり中に入れるとは思えないけれど、とにかくやれることはやってみなければ、この状況は変わらない。
「私が寺嶌さんに事情を訊いてきます」
威勢よく言ったものの、少しドキドキする。
メイクルームの扉をノックしてみると、中から寺ちゃんの「はい」という声がした。
「伊吹です、入りますね」と言って、ゆっくりドアノブを捻る。恐る恐るメイクルームに入ってみると、鏡の前の椅子に座っていた池尻ありさがこちらを鬼の形相で見ていた。寺ちゃんも怖い顔で腕を組んでいる。
「なにか、あったの……?」
ふたりを交互に見ながら、寺ちゃんに尋ねる。
「…………いや」
「みんな、なにかあったのかと心配……」
私がそう言いかけたところで、
「あんたのせいでしょ!」
と、なぜか池尻ありさの矛先がこちらに向いて面食らった。
ただならぬ表情に、現場には一瞬、緊張が走る。何事だろうか。
「あの、うちのヘアメイクさんが急に体調が悪くなってしまったらしくて……私が呼ばれて行った時にはすでに、アシスタントさんまで彼女に付き添っていってしまってて……ありさちゃんのメイクを始めたばかりだったんですけど」
焦りのせいか、わずかに震えた声は、今度は寺ちゃんに向けられた。
「すみません寺嶌さん、急で申し訳ないんですけど、ありさちゃんのメイクもお願いできないですか?」
「え……」
「山岸蘭さんのメイクさんは、渋滞で到着が少し遅れてるようで……」
「……いや、それは……」
「うちの仕事を降りられたことは存じ上げてます。でも……!」
慌てていたせいか、うっかり大声で内情を口走ってしまったことにBijoux側の担当者も気づいたらしく、「あああ……すみません」と余計に動揺している。
寺ちゃんは一度ため息をついてから、「こっちに」と、彼女を私たちのいたスタジオの隅に呼び寄せた。
「それはお宅の編集長からの依頼?」
「い、いえ……編集長は今、席をはずしているもので、仕方なく私の独断で……」
寺ちゃんはもう一度ため息をついた。
「あのさ。とりあえずありさのマネージャーを呼んでほしいんだけど」
「あ……す、すみません。マネージャーさんも別件のお仕事が押したために、まだ来られていないんです」
「いつ来るの?」
「まもなくいらっしゃるとは思うんですけど……」
彼女の手が震えていることに気づく。
寺ちゃんは私を見た。
「……時間、どのくらい余裕ある?」
「んー……あまりない、かな。撮影は順調に来てるけど、キャスト陣のこのあとの予定もあって、そもそも押し気味なんだよね」
寺ちゃんは取り繕うこともせず、明らかに困惑した表情を見せている。
今度はBijoux側の担当者に目を向けた。
「そもそも、体調が悪くなったメイクさんの様子はどんな感じなの?」
「今、うちのスタッフが確認しに行ってます。でも話によると、かなりフラフラだったようで……」
寺ちゃんは「困ったな……」と言って頭を抱えている。
私は疑問が湧いた。池尻ありさが寺ちゃんの元カノだとして、たとえドロドロの別れ方をしていたとしても、果たしてここまで嫌がるものだろうか、と。どちらかと言えば寺ちゃんは、仕事は仕事だと割りきることができるタイプだと思っていたのだけれど……。
ともあれ、仮に寺ちゃんがメイクを請け負うにせよ、時間が押すことは間違いない。予定を組み直さなきゃいけないかなと、私はもう一度手元にあったタイムスケジュールに目を落とした。
「仕事だし、仕方ねーよなぁ……」
私に話しかけられたような気がして顔を上げると、寺ちゃんは諦め顔でぼんやりと宙を見つめていた。
「……わかりました。ただ、あなたも一緒にメイクルームにいてくれない?」
Bijoux側の担当者は、寺ちゃんのその言葉に困ったような笑みを浮かべている。それもそうだろう、このあとのスケジュールでは彼女も他にやらなくてはいけないことがある。
でも、まずはこのピンチをなんとかしなくてはいけないと思ったのか、彼女は意を決した面持ちで「わかりました」と言って、寺ちゃんに付き添っていった。
少々気になりつつも、私はこれでどうにか先に進めると思っていた。
でも、事件が起こったのは、それからすぐ。
メイクルームから、言葉は聞き取れなかったものの、女性の金切り声のようなものが聞こえてきたのだ。
私は指示を仰ごうと金岡編集長のもとへ向かいかけて、誰かに肩を掴まれた――里見君だ。
「行ってやって、伊吹さん」
「えっ?」
「寺嶌さんのところに」
「でも……」
「いいから!」
里見君は掴んでいた私の肩をメイクルームへ送り出すように押すと、どこかへといなくなってしまった。
どういうこと……?
この場合、おそらくはBijouxのスタッフが確認しに行くのが筋だ。Men’s Fort側の私がでしゃばるのは、あまりよろしくない。
とはいえ、さっきの寺ちゃんの様子を考えると心配にもなる。
私は迷いながらも、寺嶌さんの様子を見てくると金岡編集長に断りを入れたうえで、メイクルームへと向かった。
メイクルームの入り口まで来ると、戻ってきていたらしいBijouxの編集長がちょうど中から出てきたところだった。どうだったのだろうと彼女に視線を向ければ、苦笑されてしまう。
「なんでもない、ってありさに追い出されちゃって……寺嶌さんに迷惑をかけたんじゃないかと思って状況を見に来たんだけど、埒が明かないし、仕方なくいったん出てきたの」
やはり寺ちゃんと池尻ありさの間に、なにかトラブルがあったのだろうか。
「中にBijouxのスタッフさんは……」
「一緒に入ったって聞いていたんだけど、なぜか寺嶌くんとありさのふたりしかいなくてね。どこにいったのかしら」
Bijouxの編集長が追い出された状況で私がすんなり中に入れるとは思えないけれど、とにかくやれることはやってみなければ、この状況は変わらない。
「私が寺嶌さんに事情を訊いてきます」
威勢よく言ったものの、少しドキドキする。
メイクルームの扉をノックしてみると、中から寺ちゃんの「はい」という声がした。
「伊吹です、入りますね」と言って、ゆっくりドアノブを捻る。恐る恐るメイクルームに入ってみると、鏡の前の椅子に座っていた池尻ありさがこちらを鬼の形相で見ていた。寺ちゃんも怖い顔で腕を組んでいる。
「なにか、あったの……?」
ふたりを交互に見ながら、寺ちゃんに尋ねる。
「…………いや」
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