野良猫は、溺愛する
Act 4:野良猫は住処で待つ(5)
* * *
「あれ、もう帰るの?」
「ちょっと今日は、はずせない予定がありまして……」
「ああ、いいんだ。区切りもついてるし、伊吹はいつも遅くまで仕事してるんだから、早く帰ったって誰も文句言わないよ。俺もただ、めずらしいなと思って声をかけただけだから」
「すみません、ありがとうございます……」
「プライベートも大事にしないとな。この業界にいる人間なら特に」
編集部の先輩のありがたい言葉にもう一度お礼を言うと、私は早足で会社をあとにした。
今日はどこに寄って帰ろう。
いつもはちょっとお高くて躊躇しちゃう食料品店にでも足を伸ばしてみようか、それともいっそのこと美味しそうなお惣菜でも買おうかと、駅ビルの中を歩き回る。
ふとガラスに映った自分の顔がにやけていることに気づいて、慌てて口を引き結んだ。
買い物を終えてマンションに着き、部屋の鍵を開けると、玄関にはリビングの明かりが漏れていた。それだけのことで、胸が騒ぐ。
この部屋で誰かが待っているなんて、初めてのことだ。
ドアが開いた音で気づいたらしく、中からパタパタとスリッパの音が近づいてくる。
「おかえり」
「……ただいま」
里見君とこんな挨拶を交わすことになるなんて、一年前は想像もしていなかった。
彼はもう、Tシャツとハーフパンツの部屋着に着替えている。
「お邪魔してました」
「……うん」
里見君も照れくさかったのか、はにかんだような笑みを浮かべている。それを見たら私まで恥ずかしくなって、思わず俯いてしまった。
「荷物、運ぶよ」
「あ、うん。ありがとう」
買ってきた食料品の袋を渡すと、里見君はそれを持って先にリビングへと歩いていく。私は彼の姿が見えなくなってから、ふー、と大きく息を吐き出して、いったん気持ちを落ち着けた。
「お惣菜買ってきたんだ?」
キッチンへ行くと、里見君は袋の中を覗いていた。
「忙しくてもいつも自分で作ってるのに、めずらしいね」
「ああ、うん。一品ぐらいは作ろうと思ってるけど、里見君がお腹減らしてるんじゃないかと思って」
「うん、めっちゃ減ってる。あ、ポテサラだ」
「ここのデリのポテトサラダ美味しいから、買ってきちゃった」
初めは自分で作ろうかと思ったけれど、ポテトサラダは意外と手間がかかるものだ。今日は時間がかかるものは全部、デリで買ってきた。
「俺、なっちゃんの作るポテトサラダも食べてみたい」
「作ったことなかったっけ?」
「ない」
「じゃ、今度……」と喉まで出かかって、慌てて蓋をする。
いつも、次を匂わせる言葉を使うのは、躊躇してしまう。「食べてみたい」と言われたのだから、言ってもよかったのかもしれない。けれど、でも。
「今度作ってよ」
「……うん」
『今度』
里見君は、私が使わずにいる言葉を、いともたやすく使ってくる。
その言葉が私にとってどれだけの重みがあるかなんて、考えもせずに。
野良猫は、気ままだ。もしかしたら、彼が顔を出しているのはここだけじゃないかもしれないのだ。そう一瞬でも考えてしまうのは、この関係が曖昧なまま続いているから。
里見君が、そんな最低な人間だなんて思いたくはないのに、不安が心を歪ませる。
いつになったら、はっきりさせられるのだろう。もうグダグダ、同じことばかり考える自分の思考にいい加減疲れてきた。
ふとリビングに目をやると、テーブルにはドラマの台本とスマホ、キーホルダーのついた鍵の束が置かれていた。束の中には、この前渡したうちの合鍵も見えた。里見君が言ったとおり、あの時つけていた紫の根付が目印になっている。
他にも、どこかの合鍵があったりして……。
「……ああ。今セリフ、頭に入れてたの」
里見君は私の視線の先を見たのだろう。
なんとなくかわいい言い方に、ぐるぐる考えていることがどうでもよくなってくるから呆れてしまう。
実はそれが里見君の手なのでは……?
なんて考えたら、ちょっと自嘲気味の笑いが出てしまった。
「……なに?」
「あ……ううん。この間セリフの読み合わせした時の、自分の棒読み具合を思い出しちゃって」
咄嗟にごまかす。
「別に、そんな酷くなかったよ」
そう言って、里見君は後ろから私を抱きしめた。
いつもの香水の香りはせず、ボディソープの匂いがする。
「シャワー、浴びた?」
「あ、うん、ごめん。午前中、撮影ですごく汗かいて我慢できなくて、さっき勝手にシャワー借りちゃった」
仕事が終わって、まっすぐここへ来たのか。
「謝らなくていいよ。勝手に使ってくれていいから」
「ありがと」
ぎゅっと力を込めて抱きしめられる。もう何度もされていることなのに、まだドキドキする。
「私こそ、汗くさいかも」
里見君が鼻を鳴らしたような気がした。
「んー……ちょっとする、かな」
「えっ、やだ」
慌てて腕の中から抜け出そうとするけれど、里見君はなかなか離してくれない。必死にもがいていると里見君は楽しそうに笑った。
「気にしなくていいよ。俺、なっちゃんのどんな匂いも好きだし」
「そういうことじゃなくて、私が嫌なの……! 先にシャワー浴びてくるっ」
体を屈めて彼の腕の中から抜け出し、洗面所に駆け込んだ。
服を脱ぎ、水栓のハンドルを回してから――いろいろ気づく。
「お惣菜、そのままにしてきちゃった……冷蔵庫に入れなきゃいけないものもあったのに」
それもだけれど、それより。
『俺、なっちゃんのどんな匂いも好きだし』
さっきは里見君の腕から逃げ出すことに精いっぱいで流してしまったけれど。
「また……あんなこと」
小さく呟いた言葉は、シャワーの音が掻き消していく。私はザアザアと天井から降る雨に、顔を向けた。
その言葉を簡単に使わないでほしい。たとえ、意味のない『好き』であったとしても。
私なんて、里見君への気持ちが積もりすぎて、戯れな言葉すらも吐き出せなくなってしまっているというのに。
いっそのこと、この重苦しい気持ちごと洗い流されれば苦しくなくなるだろうか。
そう考えてから、思い直す。
やっぱりこの愛おしい気持ちまで、流れてほしくはない。
「あれ、もう帰るの?」
「ちょっと今日は、はずせない予定がありまして……」
「ああ、いいんだ。区切りもついてるし、伊吹はいつも遅くまで仕事してるんだから、早く帰ったって誰も文句言わないよ。俺もただ、めずらしいなと思って声をかけただけだから」
「すみません、ありがとうございます……」
「プライベートも大事にしないとな。この業界にいる人間なら特に」
編集部の先輩のありがたい言葉にもう一度お礼を言うと、私は早足で会社をあとにした。
今日はどこに寄って帰ろう。
いつもはちょっとお高くて躊躇しちゃう食料品店にでも足を伸ばしてみようか、それともいっそのこと美味しそうなお惣菜でも買おうかと、駅ビルの中を歩き回る。
ふとガラスに映った自分の顔がにやけていることに気づいて、慌てて口を引き結んだ。
買い物を終えてマンションに着き、部屋の鍵を開けると、玄関にはリビングの明かりが漏れていた。それだけのことで、胸が騒ぐ。
この部屋で誰かが待っているなんて、初めてのことだ。
ドアが開いた音で気づいたらしく、中からパタパタとスリッパの音が近づいてくる。
「おかえり」
「……ただいま」
里見君とこんな挨拶を交わすことになるなんて、一年前は想像もしていなかった。
彼はもう、Tシャツとハーフパンツの部屋着に着替えている。
「お邪魔してました」
「……うん」
里見君も照れくさかったのか、はにかんだような笑みを浮かべている。それを見たら私まで恥ずかしくなって、思わず俯いてしまった。
「荷物、運ぶよ」
「あ、うん。ありがとう」
買ってきた食料品の袋を渡すと、里見君はそれを持って先にリビングへと歩いていく。私は彼の姿が見えなくなってから、ふー、と大きく息を吐き出して、いったん気持ちを落ち着けた。
「お惣菜買ってきたんだ?」
キッチンへ行くと、里見君は袋の中を覗いていた。
「忙しくてもいつも自分で作ってるのに、めずらしいね」
「ああ、うん。一品ぐらいは作ろうと思ってるけど、里見君がお腹減らしてるんじゃないかと思って」
「うん、めっちゃ減ってる。あ、ポテサラだ」
「ここのデリのポテトサラダ美味しいから、買ってきちゃった」
初めは自分で作ろうかと思ったけれど、ポテトサラダは意外と手間がかかるものだ。今日は時間がかかるものは全部、デリで買ってきた。
「俺、なっちゃんの作るポテトサラダも食べてみたい」
「作ったことなかったっけ?」
「ない」
「じゃ、今度……」と喉まで出かかって、慌てて蓋をする。
いつも、次を匂わせる言葉を使うのは、躊躇してしまう。「食べてみたい」と言われたのだから、言ってもよかったのかもしれない。けれど、でも。
「今度作ってよ」
「……うん」
『今度』
里見君は、私が使わずにいる言葉を、いともたやすく使ってくる。
その言葉が私にとってどれだけの重みがあるかなんて、考えもせずに。
野良猫は、気ままだ。もしかしたら、彼が顔を出しているのはここだけじゃないかもしれないのだ。そう一瞬でも考えてしまうのは、この関係が曖昧なまま続いているから。
里見君が、そんな最低な人間だなんて思いたくはないのに、不安が心を歪ませる。
いつになったら、はっきりさせられるのだろう。もうグダグダ、同じことばかり考える自分の思考にいい加減疲れてきた。
ふとリビングに目をやると、テーブルにはドラマの台本とスマホ、キーホルダーのついた鍵の束が置かれていた。束の中には、この前渡したうちの合鍵も見えた。里見君が言ったとおり、あの時つけていた紫の根付が目印になっている。
他にも、どこかの合鍵があったりして……。
「……ああ。今セリフ、頭に入れてたの」
里見君は私の視線の先を見たのだろう。
なんとなくかわいい言い方に、ぐるぐる考えていることがどうでもよくなってくるから呆れてしまう。
実はそれが里見君の手なのでは……?
なんて考えたら、ちょっと自嘲気味の笑いが出てしまった。
「……なに?」
「あ……ううん。この間セリフの読み合わせした時の、自分の棒読み具合を思い出しちゃって」
咄嗟にごまかす。
「別に、そんな酷くなかったよ」
そう言って、里見君は後ろから私を抱きしめた。
いつもの香水の香りはせず、ボディソープの匂いがする。
「シャワー、浴びた?」
「あ、うん、ごめん。午前中、撮影ですごく汗かいて我慢できなくて、さっき勝手にシャワー借りちゃった」
仕事が終わって、まっすぐここへ来たのか。
「謝らなくていいよ。勝手に使ってくれていいから」
「ありがと」
ぎゅっと力を込めて抱きしめられる。もう何度もされていることなのに、まだドキドキする。
「私こそ、汗くさいかも」
里見君が鼻を鳴らしたような気がした。
「んー……ちょっとする、かな」
「えっ、やだ」
慌てて腕の中から抜け出そうとするけれど、里見君はなかなか離してくれない。必死にもがいていると里見君は楽しそうに笑った。
「気にしなくていいよ。俺、なっちゃんのどんな匂いも好きだし」
「そういうことじゃなくて、私が嫌なの……! 先にシャワー浴びてくるっ」
体を屈めて彼の腕の中から抜け出し、洗面所に駆け込んだ。
服を脱ぎ、水栓のハンドルを回してから――いろいろ気づく。
「お惣菜、そのままにしてきちゃった……冷蔵庫に入れなきゃいけないものもあったのに」
それもだけれど、それより。
『俺、なっちゃんのどんな匂いも好きだし』
さっきは里見君の腕から逃げ出すことに精いっぱいで流してしまったけれど。
「また……あんなこと」
小さく呟いた言葉は、シャワーの音が掻き消していく。私はザアザアと天井から降る雨に、顔を向けた。
その言葉を簡単に使わないでほしい。たとえ、意味のない『好き』であったとしても。
私なんて、里見君への気持ちが積もりすぎて、戯れな言葉すらも吐き出せなくなってしまっているというのに。
いっそのこと、この重苦しい気持ちごと洗い流されれば苦しくなくなるだろうか。
そう考えてから、思い直す。
やっぱりこの愛おしい気持ちまで、流れてほしくはない。
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