野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 4:野良猫は住処で待つ(4)

突然後ろからかけられた声に驚き、足をとめた――と同時に、心臓が跳ねる。
私はおもむろに、後ろを振り返った。

「やっぱりそうだ」

「……里見君」

マスクを少し下にずらして照れくさそうに笑う彼に、なんとも言えない愛しさが心の奥底から込み上げてくる。
イベントの内容的には、彼がここに来ていてもまったく不思議ではなかったけれど、まさかこの場所で、このタイミングで会えるとは思ってもみなかった。

「里見君はひとり……?」

「ううん、マネージャーと一緒。でも今はマネージャーの仕事の兼ね合いで別行動中だったんだ。伊吹さんこそひとりで取材?」

「私もライターさんと一緒なんだけど、今は向こうの都合で別行動中だったの」

なんとなく、顔を見合わせて笑う。もしも、里見君も同じことを考えてくれているのだとしたら、嬉しい。

「伊吹さんはどこに行こうとしてたの?」

「あー……この辺りに。ちょっと生産系の海外企業が気になってて」

私はそう言いながら里見君に案内図を指差してみせる。

「じゃ、そこ行こうか」

「えっ、里見君もどこか行こうとしていたんじゃないの?」

「いや、俺のほうは時間潰しに目的なくブラブラしてただけだから。さ、時間がないから急ぐよ」

里見君はマスクを元通りに戻して歩き出した。私は彼の隣には並ばず、背中を追いかけるようにして数歩後ろを歩く。

「……なんで後ろにいるの」

里見君はすぐこちらに振り返り、不満げな声を漏らした。太めの黒いフレームの隙間からかろうじて見えた眉間には、うっすらと皺が寄っている。

「だって、誰の目があるかわからないし……」

「後ろを歩いているほうが不自然だよ。もし万が一誰かにバレたとしても、俺はMen’s Fortの専属モデルなんだし、編集さんと一緒に歩いてたって全然おかしくないでしょ」

言われてみればそうだ。
里見君の隣に恐る恐る並ぶと、彼は「俺、まだそこまで売れてないし、考えすぎだよ」と笑った。

とはいえ念のため、こちらにスマホを向けている人がいないかどうか、周りの様子に目を配っておく。今日は各ブランドの招待した一般客もいる。最近はSNSであっという間に拡散されてしまうから、神経質すぎるぐらいでちょうどいい。
ざっと見た感じ、スマホを向けている人も里見君の存在に気づいている人も、どうやらいなさそうだ。

「本当は手を繋ぎたいけど、そこは我慢するから」

周りをきょろきょろとしていた私の耳元で、里見君はそんなことを囁いてくる。不意打ちだったせいで身構えることもできず、思いきり顔が熱くなってしまった。
言った本人はといえば、私の様子を見て、マスクの上に拳を当ててクスクスと笑っている。

からかわれたのだとわかっても、こういう他愛もないやり取りが今は嬉しく感じる。
これがいつまでも続けばいいのに、という不毛な望みまでおまけについてはきたけれど。
程なくして目当てのソーシングゾーンに辿り着き、ふたりで各ブースを足早に見て回る。

「少し前まで、海外生産と言えば中国の一極集中だったけど、今はかなりいろいろな国で作られてるんだ……いつか、日本向けのアパレル生産国が自国でデザインもできるようになったら、今までなかったようなパターンの服ができあがるのかもしれないなー」

実際に展示されている服を手に取りながら、私は気持ちが高揚していたせいか、独り言を呟いていた。
そもそも私が出版社を志望したのは、ファッション誌の仕事がしたかったからだ。
ひとつのブランドを深掘りするのではなく、ファッション業界を外側から広く見てみたくて、ファッション誌の編集者になることが学生時代からの夢だった。

初めて配属された部署と今がたまたま自分の希望が叶った形にはなったけれど、必ずしも次も会社側が意向を汲んでくれるとは限らない。実際、同期入社の中で希望が通らなかった人も何人かいる。

「私は、Men’s Fortの編集部にいつまでいられるかな……」

アパレル業界の発展を、仕事を通してこの目でずっと追い続けられたらどんなに幸せかと思う。でも人生は得てして思いどおりにはいかない。
視線を感じて隣を見ると、里見君はなにか言いたげな顔をしていた。

「どうしたの?」

「なっちゃんは、ど……」

里見君が、人前では絶対に呼ばない呼び方で私のことを呼んだところで、彼のスマホが鳴った。少し躊躇した様子ながらも、里見君は電話に出る。
話しぶりから、どうやら電話の相手はマネージャーさんのようだった。もう戻らなくてはいけない時間なのだろう。

まだ、里見君と一緒にいたい。あと少しでいい、なにも話さなくてもいい、ただ、一緒にいさせてほしい。
どうか……私に時間をください。

「……呼ばれちゃった」

精いっぱいの祈りも、彼のその一言で虚しくちぎれていく。
里見君は人差し指でマスクを顎までずらし、苦笑した。

「……じゃ」

「……うん」

今、この瞬間も、里見君が私と同じことを思ってくれていたらいいのに。
里見君は一瞬視線をはずした後、意を決したようにこちらを見た。

「……ねぇ」

「ん?」

「明日、家で待っててもいい?」

「えっ……あ、うん……」

里見君は微笑むと、小さく手を振ってフロアを駆けていった。
私が望んでいた以上の言葉に動揺したからといって、もっと気の利いた返しはできなかったのかと、後ろ姿を見つめながら後悔する。

私は今にもふわりと浮いてしまいそうな自分の体を持て余しながら、里見君の姿が見えなくなるまで見送っていた。


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