野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 3:野良猫は鈴をつける(6)

幾分、重だるい足を引きずりながらカーテンを開けると、東の空が白んで見えた。
まだ、夜は明けたばかり。リビングには、シャワーの音だけが微かに聞こえてくる。疲れていたのか、ことが終わると気を失ったように眠ってしまった里見君が、今シャワーを浴びているところだ。

私はパジャマのまま、コーヒーメーカーに水とコーヒー粉をセットしてスイッチを押してからリビングを出る。

ゆうべ、玄関で私を抱きしめた里見君の体は、やはり少しひんやりとしていた。
もう外気温も高く、夜でも冷える時期ではないのにそう感じたということは、結構な時間あそこで私を待っていたのかもしれない。
里見君に「いつから待っていたの?」と訊いても「そんなに待ってないよ」と、はっきりしたことは教えてくれなかった。

クローゼットから外出着を取り出したついでだと、なにも特別なことではないと、私は誰にでもなく心の中で言い訳をしながら、クローゼットの中に置いていた小引き出しから少し重みのある小さなそれを取り出して、パジャマのポケットに入れた。

「あー……シャワー浴びたけど眠いー……」

浴室からリビングに来た里見君は、バスタオルを頭に被って正面から私の肩に頭をもたせかけ、寝るふりをする。

「そんなんで今日の撮影は大丈夫なの?」

「ん……今日はロケだから、現場着くまで車で寝てる」

壁掛けのデジタル時計を確認すれば、午前六時を知らせている。数時間しか寝ていないのだから、眠いのも当然だろう。
無理に来なくても……と私はまた言いそうになって、やめる。

この間は『会いたかったから』だと言ってくれたけど、次にこの言葉を発したら本当に来てくれなくなりそうな気がして、怖くなった。
相変わらず、気弱で情けない。

「朝ご飯、冷凍してたクロワッサンと卵しかないけど、いい?」

ゆうべは金岡編集長にタクシーで送ってもらったから、情けないことに家には今、そんなものしかなかった。

「全然いい」

「じゃ、ちょっと待ってて。先に顔洗ってくる」

「ん……」

里見君はドスンと勢いよくソファーに腰をおろすと、背もたれに寄りかかってもはや寝そうな体勢だ。少々心配になりながらも私は洗面所に行って手早く顔を洗い、化粧水と乳液をつけた。化粧はいつものように朝食を食べ終わってからするつもりだ。

さっき出しておいた外出着に着替える前に、私はパジャマのポケットに入れていた“あれ”を取り出す。
いつ、渡そうか。

「お待たせ」

リビングに戻ると里見君はちゃんと起きていて、ふたり分のマグカップをテーブルに用意してくれていた。
里見君が来た時用のマグカップは、陶器なのにホーローのような風合いのもの。ピンクと、水色。里見君が最初に来た時、何気なく手近にあった仕事先でもらった色違いのノベルティを使ったのだけれど、それがなんとなくペアカップのようになってしまっている。

「なっちゃんが来たら、コーヒー淹れようと思って」

「ありがと」

私は冷凍しておいたクロワッサンを軽くリベイクしている間に目玉焼きを作り、両方をお皿に盛りつけた。

「食べよう」

「いただきまーす」

焼き直しでも表面がサクッとして、焼きたてのように美味しい。

「……どうかした? なっちゃん」

「えっ……ううん。どうもしないよ」

食べることにすべての意識を向けていたはずなのに、里見君にはどこか違って見えたのだろうか。
……いや、嘘。小引き出しから取り出した時より、存在を意識してしまっている。
今、ポケットに入っている“あれ”を。

本当に渡してもいいの?
引かれたらどうする?
クロワッサンを噛みしめながら、答えの出ない問いを頭の中でぐるぐると繰り返す。

「美味しかったー。ねえ、このクロワッサン、どこの?」

里見君の声に、私は、はっと我に返った。

「あ、駅前にある『ペカンベーカリー』のだよ。冷凍する前はもっと美味しかったの」

「へえ。あそこのパン、こんなに美味しいとは思わなかった」

「じゃ、また買っておくよ」

言ってから、しまった、と思う。
自分から次を匂わせるようなことを言うなんて、と。
ドキドキしていると、里見君はこちらの心配を払拭するかのように、相好を崩した。

「うん。今度は冷凍してないの、食べてみたい」

「……わかった」

もしかしたら、今なら――今なら、言えるかもしれない。

「あの……さ」

「ん?」

里見君はコーヒーを飲み干そうとしていた手を止め、マグカップをテーブルに置いた。
私はポケットから、ようやく“あれ”を取り出す。
本当は兄に渡すためにもらっていたものだけれど、ここに来てから時間も経っているし、もういいだろう。

「……私がいない時は、これで中に入ってて」

里見君の顔が見れない。

「……待たせて、風邪引かせたら、大変だし」

言い訳をつけ加えながら、目を伏せたままカチャリと、里見君の目の前にそれを置いた。

「……それに、あんなところに、長くいた、ら、誰に目撃されるかわからないし」

声が、震えそうになってモタった。もっとさらりと言えたらよかった。

「これ……合鍵、だよね?」

喉の奥が詰まる。
「うん」と軽く返事をしようとしたのに、ひっくり返ったような、変な声になってしまった。

里見君はいつもならそういう時「なに、その声」とでも言って笑うのに、目の前からはクスリとも聞こえてこない。
彼氏でもないのに重い、と引いているのだろうか。
なおさら、顔が上げられなくなってしまった。

「あの……別に、どうしてもって――」

「いいの……?」

「――え?」

「俺が、合鍵もらっても」

恐る恐る顔を上げると、里見君は困惑したような、なんとも言えない表情をしていた。

「あ……あの迷惑だったら無理には……」

「迷惑じゃない」

合鍵を引っこめようかと手を伸ばしかけたところで、里見君が先に合鍵を掴んだ。

「俺がもらっていいなら、もらう」

急に立ち上がったのでどこに行くのかと思えば、寝室に置いていた自分の鞄を手にして戻ってきた。

「今、ちょうどいい感じの持ってたなと思って」

鞄から取り出したのは、紐がついた紫色の球状のもの。根付だろうか。里見君の手の中でリン、と小さな音が鳴った。

「鈴をつけておけば、失くさないし。それにすぐ見つけられる」

そう言いながら、さっそく合鍵に根付をつけている。

「ありがとう」

目の高さに合鍵を掲げて、里見君は微笑んだ。表情にはもう、さっきの困惑の色は滲んでいない。
里見君は、いったいどういう気持ちで合鍵を受け取ったのだろう。
でも今、それを彼に尋ねたとしても、なんとなく正直には答えてくれない気がした。


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