野良猫は、溺愛する
Act 3:野良猫は鈴をつける(3)
* * *
「――ということで、よろしくお願いします」
十月号の締め切りまで二週間を切った金曜日、Bijoux側との最終打ち合わせが行われ、特になんの問題もなく終了した。
和香さんたちにあの話を聞いてから初めて寺ちゃんと顔を合わせたのだけれど、やはり寺ちゃんはこの企画の話をしている間、浮かない顔をしている……ように見える。
そう見えるだけなのか、本当にそうなのかは、もう余計なフィルターがかかった今ではわからない。
「これ、土産」
打ち合わせが終わると、寺ちゃんは私に紙袋を差し出した。上から覗いてみれば、瓶が二本入っている。
「ありがとう……これ、ワイン?」
「この間、仕事がらみで岩手のワイナリーに行ってきたんだ。一本は兄貴にわけてやって」
そう言えば、しばらく兄に会っていない。
「じゃ、お疲れ」
「あ……お疲れ様、です」
あの話を寺ちゃんに訊いてみようかと思ったけれど、コソコソ訊くのも他の人に変に思われるだろうし、寺ちゃんだって人の目があるところでプライベートなことは話しづらいだろうとやめてしまった。
近々兄貴も誘って、ワインのお礼も兼ねて寺ちゃんと久しぶりに飲みにでもいこう。
「――伊吹」
今日の打ち合わせはMen’s Fortの会議室で行われていた。テーブルを拭き、汚れた雑巾を絞っていると、デスクに戻ったと思っていた金岡編集長が給湯室に顔を出した。
「そろそろ終業時間だけど、このあとなにか仕事残ってるか?」
「えーと、ドラマ関連で一件連絡しなくてはいけない用件があるのと、原稿がふたつほど……ですかね」
「原稿は急ぎのものか?」
「まあ、急ぎと言えばそうですけど……」
金岡編集長は眉間に皺を寄せて「うーん」と唸っている。なにか他に仕事を言いつけようとしているのなら勘弁してほしい。
しばし額に手を当てて唸っていた金岡編集長は、よし、と言って顔を上げた。
「その原稿はあとで手伝ってやるから、今夜はちょっと俺につき合え」
「……はい?」
「なんだ、プライベートの予定でもあるのか?」
「い、いえ……特には」
突然のことに困惑している私の様子など構うことなく、金岡編集長は続ける。
「じゃ、仕事が終わったら一階のロビーで待ち合わせな」
「……わかりました」
そうは言ったものの、私はいったいどこにつき合えばよいのだろう。
急いで仕事の連絡を済ませ、とりあえず書かなくてはいけない原稿の資料などを鞄に突っ込むと、挨拶も早々に編集部を出てきた。
金岡編集長はすでに一階のロビーで私を待ち構えていた。
「タクシー呼んどいた」
「え、あ……はい」
ますます、どこに行くのだろうかと思いながら、ふたりで会社の目の前に止まっていたタクシーに乗り込む。
金岡編集長は運転手に飲み屋街の名前を告げた。
「あの……飲みに行くんですか?」
異動してから一年。その間、金岡編集長とさしで飲みに行ったことは一度もない。
いったいどういう風の吹き回し? もしかして、行った先に誰か他の人がいたりする……?
なるほど接待的なものかもと、心の中でため息を漏らしそうになっていると「ああ、決起集会だ」という、思ってもみなかった返答が来た。
「決起集会……ですか? ドラマ関連の?」
「そうだ……嫌か?」
「……いえ、そんな」
決起集会というなら、なぜさっきまでいた寺ちゃんを誘わなかったのだろう。それとも打診していたけど、都合がつかなかったのだろうか。
そんな疑問が頭に渦巻いているうち、タクシーは飲み屋街の入り口に到着した。通りを少し歩いて金岡編集長が「ここだ」と言ったお店は、こじゃれた焼鳥屋。扉を開けると細い通路があり、床に埋め込まれた間接照明がしっとりとした大人の雰囲気を醸し出している。
まだ早い時間だったからか店内は客がまばらで、なんだか余計に緊張感が高まってきてしまった。金岡編集長は偉ぶらず話しやすい人ではあるけれど、仮にも編集部のボス。この間のラーメン屋ならいざ知らず、さしで飲むなんて、これが緊張しないわけがない。
私たちが通されたのは、ライトアップされた庭の見える窓際の良席。デートじゃないのが少々申し訳なくなってくる。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
まずは、ビールで乾杯した。アルコールを喉に流し込んだら、少しだけ緊張がほぐれた気がする。
焼鳥屋の店内は木のぬくもりを生かした落ち着いた色味で、外観もおしゃれだとは思っていたけれど、とてもここが焼鳥屋とは思えない雰囲気だ。
こんな素敵なお店を知っているなんて、さすがモテると噂の金岡編集長だなと思いながら、私は編集長おすすめの梅肉の乗ったささみを頬張った。
「美味しい……」
「鶏もさることながら、梅肉もうまいだろ」
そう言って満足そうに微笑んだ顔は、普段から見慣れている私をもドキリとさせる魅力がある。噂だけではなく、この人は本当にモテるのだろう。
金岡編集長はバツイチだと、以前誰かが話していたのを聞いた。二十代の頃に結婚して、すぐに離婚したとかなんとか。そんなあやふやな情報だから、当然、離婚の原因までは知るはずもない。
歳はたしか、三十八歳。顎髭を生やしてはいるけれどワイルド系というわけではなく、今流行りの“モテ系おしゃれ髭”といった雰囲気。黒縁の眼鏡もそのモテ系という部分を演出している。さすが、男性ファッション誌の編集長といった風采だ。
「しかし、いいお店知ってますね、編集長」
「まあな」
「もしかして、悪いことにも使ってたりして」
冗談で言ったつもりが、どうも図星だったようだ。金岡編集長は「なんだよ、悪いことって」と言いながらも目を泳がせ、幾分動揺したような様子を見せている。
「……ま、編集長のプライベートに興味はないですけどね」
金岡編集長は「うるせー」と笑いながら言って、私の頭を軽く小突く。なんとか取り繕えたようでほっとした。
そのあとしばらくは仕事の話をして、お互い三杯目のお酒を手にした時だった。
ふと、金岡編集長は妙なことを言い出した。
「――ということで、よろしくお願いします」
十月号の締め切りまで二週間を切った金曜日、Bijoux側との最終打ち合わせが行われ、特になんの問題もなく終了した。
和香さんたちにあの話を聞いてから初めて寺ちゃんと顔を合わせたのだけれど、やはり寺ちゃんはこの企画の話をしている間、浮かない顔をしている……ように見える。
そう見えるだけなのか、本当にそうなのかは、もう余計なフィルターがかかった今ではわからない。
「これ、土産」
打ち合わせが終わると、寺ちゃんは私に紙袋を差し出した。上から覗いてみれば、瓶が二本入っている。
「ありがとう……これ、ワイン?」
「この間、仕事がらみで岩手のワイナリーに行ってきたんだ。一本は兄貴にわけてやって」
そう言えば、しばらく兄に会っていない。
「じゃ、お疲れ」
「あ……お疲れ様、です」
あの話を寺ちゃんに訊いてみようかと思ったけれど、コソコソ訊くのも他の人に変に思われるだろうし、寺ちゃんだって人の目があるところでプライベートなことは話しづらいだろうとやめてしまった。
近々兄貴も誘って、ワインのお礼も兼ねて寺ちゃんと久しぶりに飲みにでもいこう。
「――伊吹」
今日の打ち合わせはMen’s Fortの会議室で行われていた。テーブルを拭き、汚れた雑巾を絞っていると、デスクに戻ったと思っていた金岡編集長が給湯室に顔を出した。
「そろそろ終業時間だけど、このあとなにか仕事残ってるか?」
「えーと、ドラマ関連で一件連絡しなくてはいけない用件があるのと、原稿がふたつほど……ですかね」
「原稿は急ぎのものか?」
「まあ、急ぎと言えばそうですけど……」
金岡編集長は眉間に皺を寄せて「うーん」と唸っている。なにか他に仕事を言いつけようとしているのなら勘弁してほしい。
しばし額に手を当てて唸っていた金岡編集長は、よし、と言って顔を上げた。
「その原稿はあとで手伝ってやるから、今夜はちょっと俺につき合え」
「……はい?」
「なんだ、プライベートの予定でもあるのか?」
「い、いえ……特には」
突然のことに困惑している私の様子など構うことなく、金岡編集長は続ける。
「じゃ、仕事が終わったら一階のロビーで待ち合わせな」
「……わかりました」
そうは言ったものの、私はいったいどこにつき合えばよいのだろう。
急いで仕事の連絡を済ませ、とりあえず書かなくてはいけない原稿の資料などを鞄に突っ込むと、挨拶も早々に編集部を出てきた。
金岡編集長はすでに一階のロビーで私を待ち構えていた。
「タクシー呼んどいた」
「え、あ……はい」
ますます、どこに行くのだろうかと思いながら、ふたりで会社の目の前に止まっていたタクシーに乗り込む。
金岡編集長は運転手に飲み屋街の名前を告げた。
「あの……飲みに行くんですか?」
異動してから一年。その間、金岡編集長とさしで飲みに行ったことは一度もない。
いったいどういう風の吹き回し? もしかして、行った先に誰か他の人がいたりする……?
なるほど接待的なものかもと、心の中でため息を漏らしそうになっていると「ああ、決起集会だ」という、思ってもみなかった返答が来た。
「決起集会……ですか? ドラマ関連の?」
「そうだ……嫌か?」
「……いえ、そんな」
決起集会というなら、なぜさっきまでいた寺ちゃんを誘わなかったのだろう。それとも打診していたけど、都合がつかなかったのだろうか。
そんな疑問が頭に渦巻いているうち、タクシーは飲み屋街の入り口に到着した。通りを少し歩いて金岡編集長が「ここだ」と言ったお店は、こじゃれた焼鳥屋。扉を開けると細い通路があり、床に埋め込まれた間接照明がしっとりとした大人の雰囲気を醸し出している。
まだ早い時間だったからか店内は客がまばらで、なんだか余計に緊張感が高まってきてしまった。金岡編集長は偉ぶらず話しやすい人ではあるけれど、仮にも編集部のボス。この間のラーメン屋ならいざ知らず、さしで飲むなんて、これが緊張しないわけがない。
私たちが通されたのは、ライトアップされた庭の見える窓際の良席。デートじゃないのが少々申し訳なくなってくる。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
まずは、ビールで乾杯した。アルコールを喉に流し込んだら、少しだけ緊張がほぐれた気がする。
焼鳥屋の店内は木のぬくもりを生かした落ち着いた色味で、外観もおしゃれだとは思っていたけれど、とてもここが焼鳥屋とは思えない雰囲気だ。
こんな素敵なお店を知っているなんて、さすがモテると噂の金岡編集長だなと思いながら、私は編集長おすすめの梅肉の乗ったささみを頬張った。
「美味しい……」
「鶏もさることながら、梅肉もうまいだろ」
そう言って満足そうに微笑んだ顔は、普段から見慣れている私をもドキリとさせる魅力がある。噂だけではなく、この人は本当にモテるのだろう。
金岡編集長はバツイチだと、以前誰かが話していたのを聞いた。二十代の頃に結婚して、すぐに離婚したとかなんとか。そんなあやふやな情報だから、当然、離婚の原因までは知るはずもない。
歳はたしか、三十八歳。顎髭を生やしてはいるけれどワイルド系というわけではなく、今流行りの“モテ系おしゃれ髭”といった雰囲気。黒縁の眼鏡もそのモテ系という部分を演出している。さすが、男性ファッション誌の編集長といった風采だ。
「しかし、いいお店知ってますね、編集長」
「まあな」
「もしかして、悪いことにも使ってたりして」
冗談で言ったつもりが、どうも図星だったようだ。金岡編集長は「なんだよ、悪いことって」と言いながらも目を泳がせ、幾分動揺したような様子を見せている。
「……ま、編集長のプライベートに興味はないですけどね」
金岡編集長は「うるせー」と笑いながら言って、私の頭を軽く小突く。なんとか取り繕えたようでほっとした。
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