野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 3:野良猫は鈴をつける(1)

「では改めまして、かんぱーい!」

私は今、和香さんとヒロコちゃんと一緒に、出版社から二駅先の居酒屋に来ていた。
親睦会の時に和香さんが言った『今度三人で飲みに行こう』というお誘いが本当に実現するとは、正直なところまったく思っていなかった。

なにせ出版業界の仕事は残業も多いし、イレギュラーなこともよく起きる。だから事前に時間の都合をつけるのは至難の業で、おかげでこの仕事を始めてからというもの、友達もめっきり減ってしまった。

この居酒屋は全室完全個室で「内緒の話も、し放題!」とヒロコちゃんが選んでくれた場所。
私たちはグラスビールを飲みながら、しばし親睦会の時の話に花を咲かせた。私が金岡編集長に呼ばれてクライアントさんと挨拶を交わしていた間も、いろいろと面白い話があったらしい。

「あとはー……あっそうだ、週刊エメラルドの南村みなみむらさん、ついに会社の事務椅子三つめ壊したらしいよ」

和香さんはそう言って大笑いしている。
週刊エメラルドの南村さんはいろいろな面白エピソードを持っている人で、以前の編集部にいた時にも、よく話題にのぼる人だった。

私は懐かしさに浸りながら、冷やしトマトを齧る。ビネガーにでも漬けてあったのか、ほどよい酸味と甘みがトマトの味に合っていて美味しい。

「そういえば里見君のドラマって、もう撮影始まってるみたいだね」

クリスピーピザをつまみながらヒロコちゃんが唐突に口に出した話に、心臓が跳ねた。

「……ああ、うん。この間、編集部で陣中見舞いに行ってきたよ」

私がそう言うと、ヒロコちゃんは身を乗り出した。

「で、どうだった? 里見君とありさちゃんの様子は」

「んー……普通に見えたかな。少なくとも、ふたりの間に妙な空気は漂ってはいなかったと思う」

私が撮影現場に行った時は里見君と池尻ありさの絡みのシーンはなく、挨拶の時の様子しか知ることはできなかったけれど、きっとああやって何事もなかったようにお互い大人な対応をしているのだろう。

池尻ありさの様子を思い出したら、私を睨んだような顔をしていたことまで思い出してしまった。
嫌な記憶を、もう一度トマトで喉の奥に流し込んでやる。

「彼らもその辺はきちんと割り切ってるのかもね」

和香さんの言葉にヒロコちゃんは「うーん……」と曖昧な返事をする。

「一応、あれから私もモデル仲間にそれとなく訊いてみたんだけどー……」

さすが情報通のヒロコちゃんだ。その辺は毎度ぬかりないなと感心する。

「Bijouxでありさちゃんと一緒の子にもたまたま訊けたんだけどね、その子も今回の共演が気になってたらしくて、彼女に思いきって『一緒で気まずくない?』って訊いたんだって」

「それでそれで?」

今度は和香さんが身を乗り出している。

「そしたらありさちゃん『えー、全然』って、言ってたらしい。それを聞いて私も思い出したんだけど」

ヒロコちゃんはお手拭きで指先を拭いながら続けた。

「そういえばありさちゃんって、前からそういう子だったかもなって。なにかあると周りも巻き込んで大騒ぎするんだけど、それが落ち着くと周りにも当事者にも、何事もなかったように振る舞うというか」

「えー……」

和香さんの眉間に皺が寄る。

「でも彼女はいわゆる天然とかそんな感じでもなくて、計算してやってるような気がするんだよね。ある意味、したたかなのかも」

それを聞いて、今まで頭で思い描いていた彼女のイメージとは、明らかに違った印象を受けた。
モデル業界は、華やかな舞台の裏側で熾烈な生き残り競争を強いられているところがある。特に女性は、それが顕著な気がする。なんの計算もせずふわふわ浮足立った人間が、人気モデルの地位までのぼりつめられるほど、甘い世界じゃない。

「もしかしたら里見君は付き合ってた時、かなり振り回されたんじゃないかなぁ。こう言っちゃなんだけど、里見君は彼女と別れられてよかったのかもしれないね」

私はヒロコちゃんの言葉を聞いて思い出した。

「そういえば、ありさちゃんが里見君と二股かけてた相手って、誰だったの……?」

親睦会の時、和香さんに聞きそびれてからずっと気になっていた。

「あっ、そうか。その話をする前に伊吹が編集長に呼ばれちゃったんだっけ」

和香さんは「どうしようかなー」と言ってビールを喉に流し込んでいる。ヒロコちゃんも「ふふふ」と笑みを浮かべて、エビとアボカドのピンチョスを頬張った。

「ちょっと、ふたりとも意地悪しないで教えてー」

焦った声で訴えると、ふたりは大声で笑った。

「ごめんごめん、伊吹の顔を見てたら久々に意地悪したくなっちゃって」

「意地悪しなくていいですよぅ」

「伊吹は素直でかわいいからつい、からかいたくなっちゃうんだよね」

私の隣に座っていた和香さんはそう言ってひとしきり笑ってから、こちらに向き直った。

「伊吹は知ってるよね、ヘアメイクの寺嶌さん」

さらりと言われた言葉が信じられず、絶句する。
いや、もしかしたら聞き違いかもしれない。

「……伊吹? おーい」

「あ……ご、めんなさい。あまりにも意外な名前を言われたから、驚いちゃって……」

「だよねー。私も知った時は驚いたもん。寺嶌さんは遊んでそうではあるけど、彼女を相手にするような感じじゃなかったからさぁ」

やはり、聞き間違いではなかったらしい。
気持ちを落ち着けるため、私は傍らに置いていたシャンディガフをひと口喉に流し入れた。

「ただ、この話は本人に確かめたわけじゃないし又聞きだから、実は信憑性はあやしいんだけどね」

それを聞いて、私はふと合同企画の打ち合わせの時に寺ちゃんが言っていた言葉を思い出した。

『今回はちょっと……いや、かなりやりにくい』

以前、寺ちゃんに池尻ありさではない彼女がいたことは知っているけれど、それはいつ頃の話だろう。

でももし、いつの頃か池尻ありさとつき合っていて仮に別れたのであれば、あの言葉の意味は『別れた元カノがいて気まずい』とも受け取れる。まだつき合っているのだとしたら『彼女との仕事はやりにくい』というのも頷ける。さらに、寺ちゃんが里見君のことも知っていたなら、気まずいのはなおさらだ。

寺ちゃんがBijouxの仕事を降りたのも、池尻ありさとの関係で、だとすれば、話の信憑性はかなり高いということになる。

しかし、ごくごく身近な人間がふたりも池尻ありさにかかわっていたかもしれないなんて考えてもみなかったことで、まだ心の整理がつかない。
私は胸のモヤモヤを流すように、残っていたシャンディガフを一気に飲み干した。


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