野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 1:野良猫は擦り寄る(5)

『なっちゃん、俺だよー』

こちらが言葉を発する前に、ロビーのカメラに映った人物は小さく手を振りながらそう言った。

「あっ……開けるね」

声が上擦ってしまった。
程なくして、玄関のチャイムが鳴る。私は慌てて鍵を開けようとして――手をとめた。
これじゃ、待ち侘びていたと言っているようなものだ。
私は一度大きく深呼吸してから、平静を装ってドアを開けた。

「……久しぶり」

里見君はそう言って少し照れくさそうにしている。

「久しぶり、だね。いらっしゃい」

鼓動は、どくんどくんと、体全体に響き始めた。
自然に……自然に。

「上がってもいい……?」

「どうぞ」

見れば、里見君は手に袋を下げていた。靴が脱ぎにくいだろうと袋を受け取ると、中にはまたペリエが結構な本数入っていた。それと、Crystが数箱。

「もうなくなってる頃かなと思って、買ってきた」

「……ありがと」

本当は里見君の顔が見れて声が聞けて嬉しくて、今すぐ彼を抱きしめて「ずっと待ってたんだよ」と言いたくなる。

……でもそんな重い言葉を口にしたら、だめだ。
だって私は身代わり、かもしれないのだから。

「あ、カレーの匂い」

玄関にもカレーの匂いが漂っていたらしく、里見君は鼻をくんくんさせている。

「あ、今ね、カレー作ってたの」

「俺今日、めちゃめちゃカレー食べたかったんだよ!」

あまりに嬉しそうに言われて、うっかり顔がニヤけるところだった。
付き合っている相手ならここで「以心伝心だね」とか、傍から見たらバカップルだと言われそうな会話が展開するところだろうけど、そんなこと私の口から言えるはずもない。

「俺の分もあったりする?」

「あるよ、たっぷり。実は分量間違えてたくさん作っちゃって、どうしようかと思ってたところだったの」

声を弾ませないようにと気をつけ過ぎて、思いきり事務的なトーンになってしまった。
恐る恐る横目で里見君を見れば、彼はなぜか満面の笑顔で、目が合うと私の頭に大きな手を乗せた。

「以心伝心だね」

まさか、里見君がそれを言うなんて。
里見君を見つめたまま固まっていると、彼はふふっ、と小さく笑みを漏らした。

……だめだ。
自分でも、顔が熱くなっていくのがわかる。
私は里見君に「座ってて」と言って、逃げるようにキッチンへと向かった。

冷蔵庫の中にはさっき買ってきた飲み物が入っている。私はそれを取り出し、袋の中のペリエをすべて冷やした。
ぱたりと冷蔵庫を閉めるタイミングで、ため息をつく。

……危ない。もう身代わりでもなんでもいいと、思ってしまいそうだった。
そう思ってしまったら、辿り着く先は地獄しかない。

「ねえ。なっちゃんは俺が来てない間、どうしてたの?」

ふいに問われて振り向くと、里見君はソファーの背に体を預けてこちらを見ていた。

「朝から晩まで、ずっと仕事……」

事実だけれど、改めて口に出したら気が滅入ってしまった。
毎日仕事しかしていない女って、どうなんだ。これが芸能界に身を置く女性なら、エステに行ったりジムやらに通ったりと、忙しい中でも自分磨きを怠らないのだろう。
きっと、池尻ありさだって……。
私は不自然にならないように、里見君からゆっくり視線をはずした。

「……里見君は、ドラマの撮影だったの?」

声は、普通にできただろうか。きっと顏は引き攣っていたに違いない。

「いや、撮影は来週から」

「……そう、なんだ」

じゃあ、どうして来なかったの……?
自己中心的な思いが真っ先に浮かんできた自分に嫌気がさす。他にも仕事が入って忙しかったんだろうなとか、なぜ私は相手を慮れないのだろう。

そもそも、私は彼と付き合っているわけでも、約束しているわけでもない。たとえば暇だからといって、里見君がここに来なくてはいけない理由は、なにひとつないのだ。
ご飯を一緒に食べて、時折体を重ねる。
私たちは、ただそれだけの、曖昧な関係。

「俺、役者経験がないでしょ。だから演劇のワークショップに参加させてもらって、ここんとこずっと芝居の稽古してたの。他にもドラマの顔合わせとか本読みとか取材があったりして、俺も毎日家に帰るのは十二時過ぎだったよ」

胸が、ざわざわと波立つ。
顔合わせ、したのか。

『元カノと会って、どうだった?』

そんなこと訊けるはずもないし、訊きたくもない。
私はその言葉を、喉の奥ですぐに捻り潰した。

「いつも本当に努力してるよね、里見君。ドラマを撮る前に芝居の稽古をするなんて、モデルから役者になった誰からもそんな話、私は聞いたことないよ」

そう言って振り返ると、里見君は照れくさそうに微笑んだ。

「自分でも今めちゃめちゃ頑張ってるなって思うよ。役者の仕事は前からずっとやりたかったことだし、モデルだから『大根』なんだとか、言われたくはないからね」

私は、彼のこういう努力家なところが好きだ。

『俺、不器用だから、人一倍努力しなくちゃみんなに追いつけないんですよね』

私がMen’s Fortに移ってから初めて里見君と仕事をした時に、彼が目を輝かせながらそう言っていたことを今でも鮮明に思い出す。
里見君はモデルの資質があると周りの誰もが認めているけれど、本人はそれに胡坐をかくことなく、自分の立てた目標に向かって常に努力を積み重ねている。

そんなキラキラと輝いている宝石のような人が、どうして私みたいななんの取り柄もない、その辺の石ころのところへ来たのだろう。たとえばそれが、元カノの身代わりにするつもりだったとしても。
……ああ、そうか。捨てやすいからか。

「……どうしたの?」

里見君にそう言われて、手が止まっていたことに気づく。

「う、ううん、どうもしないよ。どのぐらいご飯盛ろうかなと思って」

「俺のは大盛りで」

「あはは、了解」

私は笑いながら言って、用意したお皿にご飯を盛り、温めたカレーをかける。それと買ってきたサラダに家にあったトマトを足したものをテーブルに運んで、私は里見君の右隣に腰をおろした。

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