野良猫は、溺愛する
Act 1:野良猫は擦り寄る(1)
室内には、せわしなくスタッフの声が飛び交っている。
私は撮影のために、早朝から郊外にあるハウススタジオに来ていた。
まだ夏に足を一歩踏み入れたばかりだというのに、今回は十月号の撮影でモデルも秋物を着ることになっている。スタジオの空調が肌寒いぐらいなのは、もちろんモデルたちに配慮してのことだ。
私は少し冷えてきた身体を手でさすりながら、進行表を確認する。
私、伊吹 菜津が大学を卒業して、大手出版社『銀漢社』に入社したのは、今から四年前の二十二歳の時。入社当初から女性ファッション誌の編集部に配属されていたが、約一年前に今の編集部――男性ファッション誌『Men’s Fort』――へと、異動になった。
そう改めて考えてみると、もう一年経つのか……としみじみ思う。
新しい環境に馴染むのと仕事に食らいついていくのに必死で、思い起こせばこの一年はあっという間に過ぎ去ったという感じだ。
銀漢社は、本来なら入社して三年という短いスパンでは、滅多に異動になることはない。当時、Men’s Fortのベテラン社員が急に退職することになり、新規ではなく即戦力になる人材、更に言えば社内の事情を理解している人間が欲しいという理由から、私に白羽の矢が立ったようだった。
辞令が出た時は、「なぜ私?」と不思議だったけれど、蓋を開けてみれば裏でそれを操っていた人間がいたというわけで――。
「伊吹ちゃーん、今日のスケジュールもう一回確認していい?」
私に声をかけてきたのは、ヘアメイクの寺嶌 武彦。
長めの髪にうっすら髭を生やしたワイルド系ともいえる風貌だけれど、笑った時のふにゃりとした笑顔でギャップ萌えする人が多く、現にモテる。
――そう。この人物こそが、私の異動に関して裏で糸を引いていたらしき張本人だ。
あとで本人から聞いた話によると、編集部に欠員の話が出た時「伊吹なら仕事がしやすい」と、仲が良かったMen’s Fortの編集長に私を強く推薦したらしい。
普通、人事に関しては組織的な問題もあるから、たとえ親しい人物からの助言があったとしても編集長の一存で決められる話ではない。本当に彼の推薦で私が異動になったのかはわからないけれど、本人が自信満々にそう言うのだからおそらくそうなのだろう。
「あ、そうだ寺ちゃん……じゃなかった、寺嶌さん」
「今は誰もいないんだから、寺ちゃんでいいよ、“なっつ”」
「……その木の実みたいな呼び方、いい加減やめて」
実は寺嶌さん――寺ちゃんとは、かなり長い付き合いだ。
寺ちゃんは四つ年上の兄、冬馬の同級生であり親友で、兄が小学生の時からよくうちに遊びに来ていた。それがいつからか家族ぐるみの付き合いになり、会社を経営している寺ちゃんの両親が忙しい時には、夕飯を食べたあとそのままうちに泊まっていくこともあった。もちろん、大人になった今でも付き合いは続いていて、兄を交えて一緒に飲みに行くこともある。
ただ、幼い頃から長く一緒に居過ぎたせいか、寺ちゃんと私は傍から見るとどうも友人以上の関係に見えるらしい。私が高校生になった頃から、寺ちゃんを好きな女性や寺ちゃんの彼女からすれ違いざまに睨まれたり、酷い時には嫌がらせされたりすることもあった。それは寺ちゃんが、彼女たちがいるところでも構わず、私を見つけると親しげに話しかけてきたりしていたのが原因でもあるのだけれど。
でも、これまで私は寺ちゃんに恋愛感情を抱いたこともなければ、これから先、抱くこともないと断言できる。それは多分、寺ちゃんも同じだろうと思う。
子供の頃からの付き合いで、お互いを知りすぎるぐらい知りすぎていては、もう感覚的には身内と変わりない。仮に寺ちゃんとそうなったらと想像してみると、なんだか実の兄と関係を持つようで、気持ち悪いとさえ思えてしまう。
「胡桃の殻みたいな顔してるんだから、なっつでいいだろ」
寺ちゃんはニヤニヤと意地悪そうな顔をしながら、私を軽く小突く。こういう、会えば憎まれ口を叩くところも昔から変わっていない。
「なにそれ、胡桃の殻ってどういう――」
「お話し中、すみません」
ふいに後ろからかけられた声に、心臓が小さく跳ねる。
振り向くと、その声の主は涼しい顔で立っていた。
「寺嶌さん、向こうでスタッフさんが捜してましたよ」
「わ、マジ?」
寺ちゃんは「サンキュー」と手を上げながら、慌ててメイクルームへと戻っていく。
ひとりこの場に残されて、私は少しだけ身の置き所に困っていた。
目の前の彼はもう秋物の服を身に纏って、余裕を見せつけるように微笑を浮かべている。今日は『秋トレンドの着こなし術』というテーマの撮影だ。
「俺、そろそろこっちでスタンバってたほうがいいですよね、“伊吹さん”」
「あ……そう、だね。お願いします」
彼の名前は里見 廉。
今、人気急上昇中のMen’s Fort専属のモデルで、例の――野良猫だ。
里見君は、当たり前だけれど、仕事中に妙な素振りを見せることは絶対にない。恋愛経験値が低い私のほうが、よっぽど挙動不審になってしまっているんじゃないかと時々不安に思ってしまう。
「なんだかもう、お腹減ってきちゃった」
里見君はそう言って、はにかんだように笑う。笑った時、目が三日月形になるところがまたかわいい。
仕事でSNSをチェックしていると、彼に関しては『笑顔がかわいすぎる』、『笑顔の破壊力が凄まじい』という中高生の呟きをよく見かける。
本当だよね、と心の中でそれに同意しながら、私は手にしていた進行表へとなるべく自然に視線を移した。
「撮影の日は朝早いから、いつもより早くお腹すいちゃうよね。お昼ももちろんケータリング用意してるから、終わったらいっぱい食べて」
「昼も朝と同じケータリングですか?」
「ううん、昼は『クルルギ』にしたよ」
「マジですか。俺、あそこのケータリング超好き」
里見君はちょうどこちらに来たほかのモデルと、ケータリングの話で子供みたいにはしゃいでいる。そんな様子を見ていると、彼は今二十二歳で、私の四つ下なんだなと素直に思える。
うちにいる時の里見君は、なんとなく私よりも一段高いところにいて、私のすべてを見透かしているような、そんな感じがするのだ。
「準備オッケーでーす」
カメラマンのアシスタントから声がかかる。時計を確認すると、ほぼスケジュールどおりだった。
「では、始めましょうか。みなさんよろしくお願いします」
私は絵コンテを手に、カメラマンの近くへと移動する。
「よろしくお願いします」
里見君はスタッフのみんなに向かって何度か深々と頭を下げながら、撮影する場所に立った。
さっきまで、人のいい青年、といった雰囲気だったのに、カメラを向けられた瞬間、顔つきが一変する。
里見君はカメラマンの要求に従ってポーズを変えていく。彼が違う表情を見せるごとに匂いや風を感じ、背景の色まで違って見えてくるような気がするから不思議だ。
彼は、本当にプロ意識が高い。そこも尊敬しているところのひとつ。
「はいオッケーです。チェックお願いします」
いい写真が撮れているか確認するため、みんなでパソコンの前に集まる。
「服の質感もいい感じに撮れてますね」
「自然光の当たり具合もいい感じ」
スタイリストさんとそんなことを言い合いながら画像をチェックしていると、何気なく里見君が私の隣に立った。
一瞬、肩が触れ合う。
「おー、いい感じっすね」
ただ、肩が触れただけ。それだけ。でもたったそれだけのことで、私は動揺してしまっている。
今、他のことにとらわれてる余裕なんかないはずなのに。
すぐに動揺してしまう自分を窘めつつ、私はパソコンの画面に意識を集中させた。
……と、一枚の画像に目が留まる。
表情はクールだけれど、醸し出している雰囲気はどこか温かい。それは里見君の内面から滲み出たものなのだろう。
「じゃ、次の撮影に移りましょうか」
うん。写真は、これを推そう。
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