社長、それは忘れて下さい!?

紺乃 藍

EX_3. Autumn Petit-Gift 前編


Side:涼花


 夜も眠れぬほどの暑さが少しずつ和らいできた八月最後の出勤日。それまで自分の仕事をしていた龍悟はおもむろにデスクから顔を上げると、傍にいた自らの秘書二人に声を掛けてきた。

「そう言えば、もうすぐボーナスの時期だぞ。そろそろ何にするか考えとけよ」

 社報誌に載せる社長の挨拶文をゴーストライティングしていた旭が、その言葉を聞いて嬉しそうに声を弾ませる。

「社長、今年もいいんですか?」
「ああ、もちろん」

 旭の問い掛けと龍悟の頷く言葉を聞いた涼花は、会議の議事録を整理する手を止めて深いため息をついた。

 今年もまた、涼花の苦手な季節が来てしまった。龍悟の秘書になるまでは好きも嫌いも感じていなかったが、強引な龍悟とノリが良すぎる旭のせいですっかりと初秋が苦手な季節になってしまった。

「私、パスするって言うのはだめですか?」
「ダメだ」
「ダメでしょ」

 泣きそうな気持ちで問いかけると、龍悟と旭にやや食い気味で却下されてしまった。思わずうう、と情けない声が漏れる。

 ちらりと自分の左手首を見ると、シルバーピンクの腕時計が今日も正確に時を刻んでいる。これは一年前の同じ時期に、龍悟が涼花に贈ってくれた時計だ。

「涼花。毎年言ってることだが、あまり難しく考えるな」

 群青色のマグカップに口を付けながら、龍悟が項垂れた涼花を優しい声で諭してくる。晴れて恋人同士となってからは、旭と同じく仕事中に涼花を名前で呼ぶことも慣れたらしい。すっかりと定着した名前を呼ばれたので顔を上げて龍悟の姿を見ると、彼は意地悪な表情をしてにやにやと笑っていた。

 難しく考えるな、と言われても困ってしまう。
 涼花にとって一年の中で最も難しい課題――それは『秋の賞与ボーナス』という一ノ宮龍悟の中にしか存在しない特別手当の内容を考えることだ。

 秋のボーナス。それは会社から賞与として支払われる夏・冬の報奨金とは別に、龍悟が自分の秘書二人のために設定した特別なお手当を示す。もちろん会社の給与や経費には一切関係ないため、ここにいる三人以外は社長秘書に特殊なボーナスが存在することなど知りもしないだろう。費用はあくまで龍悟のポケットマネーから捻出されるもので、彼いわく『日頃から己のために粉骨砕身仕事に励む秘書に対しての【正当な】報酬』らしい。

 そしてこの秋のボーナスに何が欲しいのかを考えることが、涼花の悩みの種だった。

「安物は却下するからな」
「うう……」

 龍悟に念押しされて、また呻き声が出る。

 秋のボーナスは『税抜き十万円以上のものを現物支給』と定められている。もちろん定めたのは『それなりの物を身に着けろ』『少しでも上等な物を使え』と仰せになり、今日も豪奢な椅子にゆったりと腰掛けて優雅に笑う龍悟本人だ。しかし涼花にはこの下限設定金額が恐ろしい。

 涼花の左手首の時計は、去年の秋のボーナスで龍悟からプレゼントされたもの。だが国内有名時計ブランドのウィメンズラインから選んだ時計は、実は税込みで十万円を少し超えた値段で、税抜き価格だと九万円台後半だった。それを知った龍悟に、それは規定違反じゃないか? と後から相当詰め寄られたのだ。

「今年は何にしようかなぁ」

 涼花の呻く姿を横目に、まるで夕飯の買い出しのため商店街にやってきた主婦のような口調で旭がご機嫌に呟く。彼がこのボーナスを受けるのは今年で六回目になるはずだ。

 旭が龍悟の秘書に配属されたのは彼が社長に就任してから二か月後のことで、涼花がグラン・ルーナに入社した時期と重なる。

 新入社員の涼花は知らなかったが、その頃の龍悟は慣れない社長としての業務に加え、社内の状況を把握するための作業をこなし、さらに経営する各店舗や取引先に片っ端から顔を出して挨拶周りをしていたという。そのため、今の倍以上の業務を抱えていて一時期は寝る間もないほど本当に忙しかったらしい。当然、その状況下で龍悟の秘書に抜擢された旭の業務量も凄まじく、二人ともその時の話をすると今も表情が消えて真顔になってしまうほどだ。

 そんな旭を労うために龍悟が設定したのが、この『秋のボーナス』らしい。『いつも頑張ってるから、一つだけ好きなものを買ってやる。何でもいいぞ』という龍悟の言葉に端を発しているとのこと。

 その『何でもいい』と言う言葉を聞いた旭は、当初から本当に一切の遠慮をせずに好きなものを龍悟からプレゼントされている。オーダーメイドのスーツ一式、腕時計に財布に家電。旭の自宅にあるネットゲーム専用の私用PCも龍悟がプレゼントしたものだと言う。

 唯一龍悟が却下したものは『自動車教習所に通うこと』で、これは仕事の時間が削られてしまうことが理由らしかった。つまり仕事を疎かにしなければ、本当になんでもいいということだ。

 けれど『なんでもいい』というのは、案外難しい。母が昔『父に食べたいものを訊ねると、いつも何でもいいと言うから困る』と話していたのを思い出す。『なんでもいい』は自由度が高すぎて、逆に不自由に感じてしまうのだ。

「涼花は特に早く決めてくれ。今年は誕生日プレゼントと被らないように考えなきゃいけないからな」

 またコーヒーを一口飲みながら龍悟が呟く。
 その言葉に驚愕すると同時に、涼花は更なるダメージを受けてしまった。

「それじゃ、二つになっちゃうじゃないですか? 誕生日はいいですから、本当に!」
「お前、俺に恋人の誕生日を祝うなってか?」
「!? じゃあボーナスなしでいいです!」
「えー、それだと俺がもらいにくくなるじゃん。涼花は俺の楽しみ奪うつもりなのー?」
「えええ、何でそうなるんですか! 藤川さんは普通に受け取ったらいいじゃないですか?」
「俺は一人を特別扱いなんてしないからな」
「ほらぁ」

 旭までにやにやと涼花で遊びはじめるので、また泣きたい気持ちになってしまう。

 龍悟の言う通り涼花の誕生日は九月末だ。ちなみに特別ボーナスがこの時期になったのは、偶然にも旭も九月生まれだからだ。元々は旭への誕生日プレゼントという意味合いが強いらしい。

「別に去年や一昨年と同じものでもいいんだぞ」
「ええ……? でも社長がくださるもの、どれも高品質なのですごく物持ちがいいんですよ。バッグも時計もまだ買い替える必要がありません」
「そーなんだよね。それは俺もわかる~。値段に見合った品質だからそうそう劣化しないし、高級だってわかってるから大切に使うもんね」
「それなら消耗品にすればいいだろう」
「社長。十万越えの消耗品なんて、一般人は使いませんよ」

 旭の突っ込みに、龍悟が不思議そうに首を傾げる。たまに垣間見る一般人涼花や旭御曹司龍悟の差を感じて、涼花はそっと苦笑した。

「ボーナス……。プレゼント、かぁ」

 その後も二人がああでもないこうでもないと楽しそうに話し合っている声を聞きながら、涼花はボーナスとして欲しいものと誕生日にプレゼントされたいものを考えつつ、議事録のチェック作業へと戻っていった。

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