社長、それは忘れて下さい!?

紺乃 藍

EX_2. Sunrise and Black-Dragon ④


「旭、っていい響きだなぁ」

 ふと窓の外を見ながら、龍悟がぼんやりと呟いた。旭も柔らかな椅子に腰を埋めたままだったが、龍悟の意外な言葉を聞くと意図せず笑い声が零れてしまった。

 そう言われたのは、二回目だ。長年付き合っている恋人に『旭』は『朝日』の意味だと教えた時にも、同じことを言われた。

「父が海上自衛官なんです」
「へえ、なるほど。旭日旗か」
「はい。ちなみに弟が昴で、妹が茜です」
「そこは空なんだな、海じゃなく」
「意味不明ですよね」

 そんな他愛のない話をして束の間の休憩を楽しんでいたが、ふと龍悟が思い出したようにその場に立ち上がった。

「ところでお前、いま時間あるか?」

 龍悟の言葉を聞いた旭は、ようやく自分の立場を思い出してその場に立ち上がる。何か急用かと思って龍悟の顔を見るが、彼は相変わらず笑顔のままだ。ただし今まで旭をからかったり、名前の話をしていた時とは違う。明らかに何かを企んでいる顔だ。

 何かよからぬことに巻き込まれる予感がした旭は、たった今まで上司の席で寛いでいた無礼も忘れて、龍悟の提案を聞くことさえ拒否した。

「ないですよ。あるわけないですよね。デスクの上見えてます?」
「見えてる見えてる。残念だが、俺とお前は今日も残業確定だ」

 だが龍悟は豪快に笑いながら、現実を担いで旭の後を追いかけて来る。事務処理については安西は驚くほどポンコツなので、いても使い物にならない。だから彼女は、備品の追加や確認、明日のスケジュールのチェックを済ませるとほぼ定時に退社してしまう。定時を過ぎれば残された龍悟と旭は手分けして書類の処理を行う。そんなサイクルをひたすら続ける毎日だ。

「総務の新人に、面白い子がいるんだ」

 龍悟は旭の言葉などまるで気にした様子もなく、自分がどこからか仕入れてきた話を旭に語り始めた。

「すごい記憶力の持ち主だそうだ。新人研修の担当者が舌巻いてたらしいぞ」
「ええ? き、記憶力って……」

 龍悟の言葉に、そんなことに感動する感覚がよくわからない……とつい呆れてしまう。

 グラン・ルーナ社には今年も例年とほぼ同じ数の社員が新しく入社してきた。彼らや彼女らは配属された部署での仕事の合間に、社会人としての基礎知識や接遇、そして各部署の仕事の進め方をレクチャーされながら一人でも仕事が出来るように教育されていく。

 六月中旬ならようやく社会人基礎のフェーズが終わり、各部署の細かな仕事を覚えるフェーズへ移行していく頃だろうか。

「新人研修で、マジカルナンバーセブンってやったか?」

 龍悟が少し緩めていたネクタイを締めながらそんなことを訊ねてくる。

 一瞬何のことか分からなかったが、自分の新人研修の頃の記憶を手繰り寄せ、言われてみればゲーム感覚でグループワークをやったことを思い出す。マジカルナンバーセブンとは『無作為の数字を覚えるというタスクにおいて、人間の作業記憶の限界は七桁程度である』というものだ。もちろん多少の誤差や個人差はあるだろう。

「お前、何桁まで覚えられる?」
「普通に八桁が限界ですよ。頑張って電話番号覚えても、090か080のどっちだったか忘れてしまうので」
「俺は十三桁覚えられるぞ」
「社長はそうでしょうとも」

 一緒に仕事をし始めて知ったが、龍悟は驚くほど記憶力が良い。恐らく十年ぐらい経ってから、先ほど話した旭の弟や妹の名前を訊ねても龍悟は一瞬で思い出すのだろう。

 だが彼は人間の記憶力が本来そこまで発達していないことをちゃんと知っている。だから旭が八桁までしか覚えていられないと言っても別に馬鹿にしたりはしない。そして、だからこそ自分と同じほど記憶力がいいという新人の存在に興味が湧いたのだろう。

「ほら。どんな奴か見に行くぞ、旭」
「!」

 一応、社長らしくしようと言う事だろうか。六月も半ばを過ぎて暑さも増してきているのに、しっかりとジャケットを羽織ってボタンを閉じた龍悟は、振り返りながら旭の名前を呼んだ。

 思わず見惚れてしまう。

 彼は立ち姿も座る姿も歩く姿も完璧だが、振り返る瞬間の姿も優雅で気品がある。いや、むしろ背中に感じる強いオーラを取り払い、人懐こい笑顔を向けるこの瞬間が、もっとも彼を魅力的に感じる瞬間かもしれない。その姿のまま下の名前を親しげに呼ばれると、旭じゃなくても驚くし、照れるし、嬉しいだろう。

 初めて名前を呼ばれたことが嬉しい、と顔に出てしまったらしい。龍悟は旭の顔を見ると、フフッと意地の悪い笑顔を浮かべた。

「ついて来ないのか? 来ないと俺の椅子に座って寛いでたこと、安西にバラすぞ」
「社長、それは忘れて下さい」

 あまり素を出さないように生きてきたつもりだったが、どうにも彼の前では上手くいかない。旭の人生の中では、これほど思い通りにならない相手は二人目だ。

 一人目もそうだったが、こういうタイプを相手にしても自分が上手く立ち回れないことは知っている。だったら相手のわがままに付き合う方が気が楽だ。何より旭自身が、そのわがままに付き合いたいと望んでいる。

「ついて行きますよ。……そう決めましたからね」

 呟きながら旭も執務室を後にする。
 最初に出会ってからまだそう時間は経っていないのに、今日も自分のペースに旭を巻き込んで振り回す『気高く優雅な黒龍』の後を追うために。


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