社長、それは忘れて下さい!?

紺乃 藍

4-8. I remember


「最近」

 シャワーを済ませてベッドに戻った涼花の身体をゆるく抱きしめながら、龍悟がぽつりと呟いた。

「お前も、少しは俺の事を気にしてくれてるんじゃないかと思い始めてたんだ」

 小さな告白に涼花の眠気が少しだけ覚醒する。顔を上げると龍悟も涼花の顔を覗き込んでいた。

「本気で嫌がってるようには見えなかったし、考えてみたら忘れて欲しいとは言われたが、嫌だとも迷惑だとも言われなかったからな」

 龍悟の考察に、涼花はなるほどと納得した。

 涼花は自分の気持ちに嘘をつくことは出来たが、龍悟自身を拒否することは出来なかった。距離を置こうとは思っていたが、自分が逃げるばかりで、龍悟に自らから離れてもらうための台詞を言ったことはなかった。

「人の気持ちを読むのは割と得意だと思ってたんだが……」
「得意なのを知っているからこそ、必死だったんです」

 必死、だった。

 プライベートでどんな事が起きようと、仕事には影響を与えたくなかった。何せ社長である龍悟の下には多くの社員が連なっている。秘書が失態を犯せば、責任を取るのは上司で、迷惑を被るのは社員全員だ。

 それは絶対にあってはならないし、龍悟の足枷にだけはなりたくなかった。だからどんなに逃げたいほど苦しくても、始業の時間から終業の時間までは必死に仕事の頭に切り替えて接した。

 龍悟自身は時間や場所で明確に境界を作らなくても、仕事とプライベートをきっちりと分けられる人だった。だから業務時間内に生じる僅かな時間やちょっとした移動のタイミングで、涼花に小さな悪戯やアプローチを繰り返してくる。そんな戯れをしても、次の瞬間には仕事の顔に戻れるのだ。

 涼花にはその切り替えが上手く出来ない。だから始業から終業まではとにかく必死で仕事の頭に切り替え、目線が合っても動揺しないよう努めた。

「全く目が合わないなら分かるが、仕事の時は恐ろしく普段通りだからな。結局、判断がつかなかったんだ」

 溜息をついた龍悟の顔をじっと見上げて『ごめんなさい』と呟く。謝罪を聞いた龍悟は笑いながら涼花の前髪を掻きあげて額にキスを落とした。

「お前は、俺の事をよく知ってるな」
「……ずっと見てきましたから」

 ぽつりと呟くと、龍悟の目がわずかに細められ、今度は頬に口付けられた。

「あの……キスは……だめでしょうか」

 先ほどから龍悟が口付けるのは頬や額ばかりだ。けれどこんなに優しい気分で過ごせる時間は、あと少し。もう夜も遅いし、朝起きたら今度は今日の事を忘れて困惑している龍悟に、ちゃんと説明しなければいけない。

 だから今日最後のつもりで訊ねたら、一瞬の間を置いて盛大な溜息をついた龍悟に、強く抱きしめられた。

「あのなぁ……俺は修行僧じゃないんだ。恋人にねだられて我慢できるほど、出来た人間じゃないからな」

 そう言って龍悟は涼花の手首を掴むと、自分の股の間にその手を引きずり込んだ。ルームパンツ越しに、涼花の指先には大きくて硬い感触が伝わり、思わず手を引っ込める。龍悟の顔を見ると、彼はまた可笑しそうに笑っていた。

「私……恋人、なんですか?」
「なんだ。自分の事を覚えていられない男は、恋人にもなれないか?」
「いえ、そうではなく……」

 寂しそうに呟いた龍悟に誤解されないよう、慌てて首を振る。

「いいんですか。私なんかが恋人で……」

 想いは通じ合ったし、そう言ってくれるのは嬉しいが、やはり根本的な解決はしていない。

 それに今日はたくさんキスしてしまった。キスと記憶の時間や量が比例するのかはわからないが、もしかしたら最悪の場合、前日の出来事を丸々一日分忘れてしまう可能性だってある。もしそうだとしたら、二人の関係どころか仕事にまで影響が出かねない。

「お前、まだわかってないらしいな」

 涼花はそう考えたが、呆れた顔をした龍悟は涼花の頬をむに、と摘まんではにかんだ。

「好きだ、涼花。――恋人になるのに、他の理由なんて要らないだろう」

 耳元で低く囁かれる。甘い刺激に思わず首が引っ込むと、半身を起こした龍悟に上から覆い被されて唇を重ねられた。そのまま角度を変えて、何度も深いキスが繰り返される。

「私も好きです……龍悟さん」

 離れた瞬間に早口で告げるだけで、恥ずかしくなってしまう。けれど龍悟は耳元で『知ってる』と呟くと、涼花の照れごと愛おしむように肌の上に指先を滑らせた。





   *****





 翌朝。スマートフォンのアラームが聞こえたので、涼花はそっと目を覚ました。

 いつもと同じアラームなのに、微妙に聞こえる方向が違う。そっと目を開けると隣で龍悟が眠っていたので、驚いた。一気に覚醒してあたりを見回すと、すぐにここが龍悟の寝室であると気付く。

 シャワーを浴びた後にリビングから寝室へ移しておいたスマートフォンは、ベッドキャビネットの上に乗せられていた。手を伸ばしてアラームを止めていると、隣で龍悟がもぞもぞと動き出した。

「おはよう、ございます……」

 涼花が恐る恐る訊ねると、龍悟は少し寝ぼけた様子で『あぁ』と低く呟いた。続いて大きな欠伸を一つ零すと、目線だけで涼花の顔を見つめてきた。

「社長、あの……」
「……涼花。呼び方、戻ってる」

 涼花は昨日の経緯を話さなければいけないと覚悟を決めたが、その言葉は龍悟に遮られた。聞こえた言葉に驚いて、思考と動作がゆっくりと停止する。

「全部覚えてるぞ」

 ようやくベッドの中で姿勢を変えた龍悟は、枕の上に頬杖をついて涼花の顔を眺めながら、楽しそうにそう言った。

 龍悟は涼花が説明をする前に『覚えている』と言った。しかもその前に涼花の名前を呼び、『呼び方が戻っている』と社長と呼んだことを訂正してきた。

「ほんと……に?」

 信じられない気持ちで呟く。

 まだ夢の続きなのかもしれないと思う。なぜなら昨日はたくさん抱き合って、たくさんキスをした。優しい言葉を囁かれ、甘い声で名前を呼ばれて、ただひたすらに幸福な時間を過ごした。

 そのすべてを、龍悟は忘れていないと言う。

「俺が嘘をついてると思うのか?」

 この時点で龍悟の言葉が本物だと、頭の中ではわかっていた。たがにわかには信じられない。固まった涼花に小さな苦笑を零すと、龍悟は楽しそうに何かを数えだした。

「オレンジの次はラベンダーで……昨日は、ピンクだっただろう」

 龍悟がベッドの中で頬杖をついたまま笑う。何の話か分からずに首を傾げると、背中に手を回した龍悟がベッドの下に落ちた何かを指先の感覚だけで探り始めた。

 すぐにベッドの下から目的のものを引き上げた龍悟は、拾ったものを口元に擦り寄せた。

「ほら、当たってる」

 彼が唇を寄せたのは、涼花が昨日身に着けていた下着だった。龍悟は楽しそうに、上目遣いで涼花を見つめる。

 龍悟は確認する前に当たりの宣言をしたが、言われて視線を下げると、確かに涼花の下着は薄い桃色の生地にピンクや赤の小花が周囲を縁取った、可愛らしい色のものだった。涼花は思わず叫んでしまう。

「社長……! それは! 忘れて下さい!」

 だから呼び方戻ってるって言ってるだろ、と龍悟の言葉が重なった。

 涼花はこの時はじめて龍悟の記憶がすべて消えて無くなればいいと本気で思ったが、その後も龍悟が涼花の下着の色を忘れることはなかった。


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