社長、それは忘れて下さい!?

紺乃 藍

3-8. Get your warmth

 涼花の残業は十五分ほどで終了した。パーティーで交換した名刺のデータ化を終えて、スケジュール管理ソフトに予定を入力する。予定がタブレット端末にも反映されていることを確認すると、涼花は席を立って龍悟の傍に寄った。

「社長。終わりましたので、退社させて頂きます」
「ん、じゃあ帰るか」
「えっ……?」

 残業の終了を告げると、さも当然のように返答され、思わず驚いてしまう。

「家まで送ってやる」
「えぇっ? そ、そのために残ってらしたんですか!?」

 涼花の家は会社の近くだ。繁華街にも近く、駅からもさほど離れていない好立地のマンションは、ルーナ・グループに所属する社員が優先的に斡旋を受けられる物件だ。しかも住宅手当が多めに支給されるため、新人の頃から給料の範囲内でもやりくりしていける。だがそれゆえに、社員の入居数も多い。

「私の家、ここから徒歩圏内ですので……」
「それは知ってる。けど今日は薄着だし、女子なんだから危ないだろう」
「だ、大丈夫です……本当に」

 他の社員に見られるのではと思って再度断るが、龍悟は譲らない。前にも似たやり取りをしたことを思い出す。前回は今日より遅い時間であったことと、強引に話を進められてしまったことで断り損ねた。しかも結局、家まで送ってもらうこともなかった。

 だが今日は違う。まだそこまで遅い時間ではないし、今なら社長専用車の手配も出来る。涼花としては、龍悟には家まで送ってもらうより真っ直ぐ自宅へ帰ってもらう方が何倍も有難かった。

「綺麗だな」

 口で説明するより今すぐ車を手配してしまったほうが早くて確実かと考えていると、ふと声を掛けられた。顔を上げると、龍悟が涼花の顔をじっと見つめている。

「夜景ですか? そうですね、この時間にこの高さから見ると……」
「夜景じゃない」

 普段は陽が沈む頃には西日を避けてブラインドを閉じてしまうので、夜景を眺めることはあまりない。二十八階から眺める光の海はさぞ綺麗だろうと窓の外に視線を移そうとするが、龍悟はそれを遮るように涼花の台詞を奪った。

 視線を戻すと、いつの間にか龍悟との距離が縮まり、真剣な眼差しで見つめられている。

「前に言っただろう。俺のために笑えと」
「……え?」
「今日はよく笑ってたな」

 話がよく飛ぶ。
 送迎の話をしていたと思ったら夜景の話になり、今度は涼花の笑顔の話だ。何の話をしているのかも、次に何を言われるのかも分からず、龍悟の目を見つめたまま動きを止めてしまう。

 また合コンの話をされるのかと思うと、頬が引きつってしまう気がした。

「俺の言った通りだろう? お前がちょっと笑顔を見せてやれば、男共はすぐ落ちる」

 龍悟は合コンの話はしなかったが、その言葉は涼花の予想とも全くかけ離れていた。

 つい首を傾げてしまう。言った通りだろう、と言われても。

「えっと……何の話でしょうか?」
「そうだな。今日お前に言い寄った男の数が三人。息子を勧められた数が二人……で合ってるな?」
「!? か、数えてらしたんですか……? というより、見てらっしゃったんです?」
「あぁ、見ていた……ずっと」

 涼花はずっと、会場内で龍悟に姿を探されていた。基本的には傍に付き従っていたが、取引先の役員達の思惑を感知すると彼の傍から離れるよう心掛けていた。そのせいで龍悟に不便を掛けたのならば、自分は秘書失格だと焦ってしまう。

「……何でだろうな」

 龍悟がふと、疑問のような困惑のような台詞を呟く。涼花に向けてなのか、自分に向けてなのかわからない問いかけ。

「俺が笑えと言ったはずなのに、他の男に笑いかけてるのを見るのは面白くない」
「……え?」

 熱を含んだ視線と声で告げられ、涼花は全身が燃焼する気配を感じた。

 以前合コンに行くのを嫌がる素振りを見せた時と同じ、涼花の行動を律しているようでいて、誰でもない誰かを羨むような口振り。まるで嫉妬のような、少しの怒りの炎を孕んだ瞳の色。

 ――この熱は危険だ。
 あの日と同じように勘違いしてしまう。期待しそうになってしまう。

 きっと赤くなっているだろう顔を見られないよう俯くと、さらに距離を詰められる。そのまま近付いた龍悟の唇が、そっと涼花の耳元に寄った。

「お前は笑うと可愛いよ」

 龍悟の甘く掠れた言葉にまた囚われてしまう。ただのお世辞だとしても、そう言われて無反応でいられるほど涼花は褒められ慣れていない。ますます火照った顔色を悟られまいと思うと顔を上げられなくなってしまう。

 そっと手を伸びてきた指先が、涼花の肩に触れる。細い肩を包むレースの生地は淡いブルーで、撫でるとさらさらと風の音を立てた。

「……綺麗だ」

 夜景の話だと思っていた『綺麗だ』の台詞と、笑顔の話が唐突に結びつく。

 射止めるような捕らえるような甘美な言葉に、体温が急上昇する。薄着のはずなのに、顔を中心に全身に炎が広がったように熱い。

 思考まで焼け焦げたように、言葉が何も出てこなくなってしまう。このまま龍悟にばかり喋らせてはいけないと、熱い警告音が脳の奥から響いてくる。

 何か言わなければ、と思った涼花の脳裏に、ふと謝罪と感謝の言葉が降りてきた。それはずっと、龍悟に対して伝え損ねていた言葉だ。

「あ……あの、社長……」
「ん?」
「えっと……実は私、ずっと社長に伝え忘れていたことがあって」

 前にも同じことを伝えようと試みた。だがエリカからの連絡のタイミングが悪く、龍悟の機嫌を害してしまい、あの時は伝え損ねていた。

 もう今さらな気がするし、伝えたところで龍悟も困ってしまうかもしれない。だが涼花が勘違いをしてしまう前に、この妙に甘い空気は打ち破らなければならない。

 そう思うと、これは良い機会であるとさえ思えた。

「時間が経ってしまいましたが……私、社長にちゃんと謝罪をしようと思っていたんです」
「……謝罪?」
「はい……その……申し訳ありませんでした」

 顔の熱が少しは引いてくれているのを願いつつ、視線を上げて目を合わせる。何のことを言われたのか分からなかったようで、目が合った龍悟が一瞬眉根を寄せた。

 けれどこの機を逃したら、今度こそ永遠に謝罪も感謝も伝え忘れてしまう気がして、涼花はそのまま言葉を続けた。

「私、以前の会食の席で、社長にすごく迷惑をかけて……ひどい状態だったのに、たくさんお世話をしてもらって……」

 説明しているうちに、龍悟も何の話をしているのか気付いたようだ。涼花が言葉を切ると、また優しい顔で微笑んでくれる。涼花の話をちゃんと聞いてくれる合図だ。

「なのにそのことを忘れてしまっていて、謝罪もしていなくて……。あの時はご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」

 本来は上司を陰から支えるはずの秘書が、上司の手を煩わせることなどあってはならない。龍悟は自分の所為だと責務を感じているようだが、適当な病院に捨て置いても良かったところを、わざわざ自分のプライベート空間に招き入れてまで手厚く看護してくれた。だから責任なら十分に果たしているし、謝罪や謝礼はいくら述べても足りないほどだ。

「ほんと真面目だなぁ。お前が罪悪感を感じる必要はないだろう。あれは忘れたんじゃなくて、最初から意識がなかったんだ」

 龍悟が破顔したので、涼花は再び心を掴まれた心地を覚えた。

 確かに龍悟は前にも同じ事を言った。エリカにも同じ事を言われた。けれど、違う。

「でも私は……社長とのこと、忘れたくなかった……」

 独り言がうわ言が脳の奥に反響するのを感じ、そっと目を伏せる。

 忘れたくなかった。
 覚えていたかった。
 だって今もまだ、こんなにも惹かれている。以前と変わらず慕い続けている。

 けれど涼花は、龍悟の恋人にはなれない。龍悟はあくまで上司であり、涼花に向けられる情が愛などではなく、部下への信頼であることは感じ取っていた。

 だからたった一度の思い出だとしても、肌を重ねられて嬉しかった。それだけでも十分すぎるのに、そのまま忘れてしまうと思っていた龍悟は涼花の全てを覚えていた。そして彼はいつものように優しい笑顔で、涼花のトラウマを取り払った。それだけで涼花にとっては龍悟が運命の人のように思えたのに。

 龍悟は怖いぐらいに完璧だった。暗闇の中で誰かのぬくもりを求めていた涼花に、龍悟は溢れんばかりの笑顔と可能性を向けてくれた。そしてその二つを涼花の両手に握らせて『恋愛をしろ』と無理な要求した。

 無理に決まっている。
 だってまだ、こんなにも。

「……すき」

 なのに――。

「それは……」
「…………え?」
「どういう意味で言っている?」

 ふと低い声が耳に届く。数秒遅れて顔を上げると、少し照れたように口元を押さえた龍悟が、困った顔をして涼花の瞳を見つめていた。涼花は瞠目したが、その直後に自分の失言に気が付いた。

(し、しまった……!)

 心の中の秘め事のつもりが、声になって外に出ていたらしいことに、かなりの時間が経過してから気付く。

 自分では何処から何処までを口走っていたのかわからない。けれど龍悟の反応を見れば、余計な言葉を口にしたのは明らかだ。

「俺の勘違いじゃない、という認識でいいのか?」

 涼花は自分の発言を取り消そうと慌てたが、龍悟はすぐにその手首を掴まえて、自分の傍にぐっと引き寄せた。

「秋野? 忘れたくないんだろう? ……何故だ?」

 龍悟の整った顔が眼前に迫って、思わず顔を背ける。詰め寄られた涼花に逃げ場はなく、訂正も誤魔化しも間に合わない。

「え、いえ……それは」
「ここまで言っておいて、言わないつもりなのか?」

 責められるように問われ、頭が真っ白になってしまう。迂闊にもほどがある。これまでの三年間、表に出さないようにひた隠しにしてきた想いを、まさか自分で暴露してしまうなんて。

 ――あぁ、もうここにはいられない。
 この想いを知られる訳にはいかなかった。

 来週から気まずい思いをしながら、そして気まずい思いをさせながら仕事が出来るほど涼花の神経は図太くない。だがキッパリ振られたからといって即座に頭を切り替えられるほど心の構造も簡単ではない。

 こうならない為にずっと隠してきたのに。陰の存在として誠心誠意尽くせるだけで、幸せだったのに。満足していたのに。

「秋野?」

 呼ばれて視線を上げると、龍悟は笑っていた。楽しそうでいて慈しむような、優しい笑顔で。

 その笑顔にまた見惚れそうになる。勘違いしそうになる。

 龍悟から離れるために、掴まれた手首を引っ込めようと力を込める。けれど涼花の初動を感じた龍悟が一瞬早く指先に力を込めたせいで、わずかな抵抗も形にならなかった。

 そのまま数秒、数十秒と時間が過ぎる。じっと見つめ合ったまま、何も言えないまま、身体の温度だけがじわりと上昇していく。

 龍悟は涼花の口から答えを聞きたかったようだ。けれど涼花が硬直して動けなくなってしまったことを確認すると、ふっと表情を崩して微笑んだ。

「もういい、わかった。お前が言えないなら、俺が言ってやる」

 その宣言に怯んだ涼花は、そこから一歩でもいいから下がろうとした。龍悟の瞳に宿った温度に気が付くと、思わず逃げたくなってしまった。

 けれど結局、それは適わなかった。龍悟は手首を掴んでいた手と逆の手で涼花の腰を掴むと、そのまま力を込めてきた。開こうとした距離が、逆にあっという間に縮まってしまう。

「俺にはお前が必要だ。部下としてももちろんだが、それ以上にもっと傍に置いておきたくなった。俺はお前が――」

 龍悟の指先が涼花の顎の下に添えられ、そっと視線を誘導される。腰に回された大きな手に力が込められると、いつもより高いヒールの上でさらに踵が持ち上がる。

 首に触れられたくすぐったさを感じる暇もなく、涼花の唇はそっと塞がれていた。

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