社長、それは忘れて下さい!?

紺乃 藍

3-6. Fall in hand


 龍悟がスピーチを終えて控室に戻ると、旭が『社長は四十点』と教えてくれた。一体何の点数かと思ったが咄嗟の演技力の点数らしい。

 涼花が満点に五点足りなかったのは、イントロダクションの作り笑いが真顔すぎて一瞬ヒヤリとした分の減点だそうだ。けれどその後、一転して満面の笑顔を見せるというギャップ技を披露したので、旭の採点では高得点となったようだ。

「社長はそんなに酷いんですか?」
「そりゃもう、肝が冷える程だよ」
「お前たちにはスピーチを頑張った上司を労う優しさがないのか?」

 龍悟が不満そうに唇を尖らせる。

 涼花と旭も、壁際に控えて龍悟のスピーチはちゃんと聞いていた。しかし龍悟が艶と気品のある声音に巧みな表現を乗せ、絶妙な間合いとしなやかなジェスチャーを駆使し、ユーモアのある冗談を交えて華麗な挨拶をさらりとこなすのはいつもの事だ。真似をしようとして出来るものではないが、龍悟からは『頑張った』という程の気合いも疲労も感じない。

「社長、お疲れ様でした」

 子供のような口振りで拗ねるので素直に労うと、龍悟が満足したように涼花に微笑んだ。

 それはさておき、と旭が話を区切り、回収した透明の小瓶をポケットから取り出す。用意された水差しの隣にその小瓶を置くと、龍悟が訝しげに小瓶を睨んだ。

「ん? これ女子が使う、爪に塗るやつだろ?」
「やっぱりそうなの? けどこれ、色ついてないけど?」

 宇宙の成り立ちから微生物の構造まで何でも知っていそうな龍悟にも、苦手分野があるらしい。同じく釈然としない様子の旭と同時に視線を向けられ、涼花は『なるほど』と納得した。涼花も仕事の関係上あまり凝ったネイルはしていないが、幸いなことに親友がネイルサロンの経営者だ。色々と教えてもらっているので、人並み程度には知識がある。

「透明のものもあるんですよ。ベースコートやトップコートといって、色を着ける前の下地や、色を着けた後の保護とか補強に使うんです」

 涼花は置かれた小瓶を手に取ると、蓋を反時計回りに動かしてみた。キュ、キュ、と音を立てながら蓋が回転すると、中で刷毛もくるくると回る。

 神妙な顔で涼花の行動を見守る龍悟と旭の目の前で蓋を引き抜いてみる。だが液体は予想していたほど粘度がなく、薄めたように水っぽい。

「やはりネイル剤ではないようですね。匂いも違います」
「こら、不用意に嗅ぐんじゃない」

 重力に従って水滴がほとんど落ちた刷毛に鼻を近づけてみるが、ネイル剤特有の強い匂いはせず、ほとんど無臭に近い。龍悟に制止されて慌てて顔を離すと、小瓶の蓋を閉めてテーブルの上に戻した。

「なるほどな。液体だったとは想像してなかった」
「てっきり錠剤か粉末剤だとばかり思っていましたからね」

 龍悟が椅子の背もたれに背中を預けて、深い息を吐いた。旭も肩を竦めて両手を挙げると同意を示す。もちろん涼花も同感だ。『薬』と聞いた時点で、錠剤か粉末剤かカプセル剤のいずれかだと、勝手に思い込んでいた。

 涼花が体調不良になり龍悟に看護された夜、旭が料亭に残って飲食物を回収し、成分調査まで行っていたことはかなり後になってから聞かされた。

 旭が言うには、固形物は回収出来たが液体や食器までは手が回らず、結果疑わしい成分はほとんど検出されなかったらしい。店の従業員に話し、宴席やトイレのゴミ箱も検めさせてもらったが、怪しい薬包も見つからなかった。だから回収できなかったビールの中に、薬剤が溶け出してしまったというのが龍悟と旭の予測だった。

 だからボディーチェック時の旭のポケットには、様々な粉末や錠剤が入っていた。怪しい薬剤が見つかったら、杉原の目を盗んですぐにすり替える予定だったのだ。

 無論ポケットがパンパンになるとあまりにも怪しいので、一般にありふれている薬に似たものを厳選して用意した。杉原が製薬会社の名前が入ったフィルムやケースをそのまま使用しているとは考えにくかったので、こちらもそれに合わせて、何も記入されていない透明や半透明の袋に、何の効果もない小麦粉の玉や粉を詰めていた。

 万が一用意したものと個数が合わなかったり、明らかに色や形が異なるものを検出した場合を想定して、宝探しゲームの『宝』はアメやチョコレートに設定した。白色以外の薬剤が杉原の所持品から出てきたら『類似品に該当するので一旦預かる』という設定を作り、一度控室に戻ってからポケットに仕込み損ねた色や形状のものとすり替えられるように、入念に保険をかけていたのだ。

 あとはこれらを掻い潜った杉原が『持病の薬なので絶対に手放せない』と言い出さないことを天に祈ってボディーチェックに挑んだが、予想は大幅に外れ、予想より容易く獲物は旭の手中に落ちた。

 龍悟が小瓶を摘み上げ、中の液体の存在を確かめるようにふるふると振る。水より粘度が高くネイル剤より薄い液体は、小瓶の中で波を立てて揺らめいた。

「なるほどな。人目を盗んで刷毛でグラスや食器に塗れば、周りにも気付かれにくい。万が一目についても、ただの水滴だと思うか」

 龍悟が心底呆れたような、けれど反面、感心したような声を漏らす。その言葉には涼花も唸るしかない。

「このようなものが塗られてるなんて、全く気付きませんでした」

 恐らくこの薬は、箸かビールのグラスに塗られていたのだろう。だが海鮮料理を味わう箸に水滴がついていても、結露したビールグラスに水滴がついていても、それを疑問には思わない。おまけに変な味がするわけでもないのだ。

「少量でもかなり強力なんだろうな」

 龍悟は『気付かなかった涼花に落ち度はない』とフォローしたつもりだったが、その台詞に旭が目を輝かせた。

「へえ、そんなに強力なんですか?」
「おい、旭。変なとこだけピックアップするな」
「いやいや、そうは言いますけど、男なら当然興味ありますよ」
「劇薬に興味を持つんじゃない」
「社長、どうです? 試しに飲んでみては」
「おお、いいぞ。お前が今夜俺の部屋に泊まって、俺と添い寝してくれるならな」
「嘘です、冗談です、ゴメンナサイ」

 とんでもない会話を繰り広げる龍悟と旭に、涼花は自分の存在を極限まで薄めるよう努める。

 いつも思うが、このテンションとこのテンポの会話の中に入っていける気は微塵もしない。間違ってもこちらに会話を投げないでくれと切に願う。

「まぁ、とにかく……これもラボに回して詳しく成分調査してもらおう」

 一通り騒いだ後で龍悟がそう結論付けたので、涼花は消していた気配をそっと戻して時計を確認した。スピーチが終わり少し休憩の時間を挟んだが、龍悟はこの後のプログラムもこなさなければいけない。

「社長、そろそろ会場に戻りませんと」
「そうだな。……旭、抜けれるか?」
「はい。一度社に戻ります」

 ポケットに仕込んでいた薬袋の全てを鞄の中に突っ込みながら、旭が頷いて返答する。薬を模した粉玉や粉末は全て無駄になってしまったが、結果を考えれば努力は無駄ではなかったと思う。

 旭はすっかり秘書の顔に戻ると、龍悟の手から小瓶を受け取り、小麦粉が詰められた鞄を携えて控室を出て行った。残された涼花は立ち上がった龍悟の前に立つと、胸元に指先を寄せる。

 今日の龍悟はいつものビジネススーツではなく、三つ揃いのフォーマルスーツを身に纏っている。正装の姿はいつも以上に身体のラインが際立ち、男性美と独特の色気を醸し出している。涼花の指先がポケットチーフの位置を正すと、龍悟が満足したように頷いた。

「秋野は大丈夫だったのか?」

 だが龍悟が訊ねたのは自分の身だしなみではなく、涼花の心労だった。

 龍悟は当初、一度嫌な思いをした涼花を杉原の前に立たせることに強く反対した。大事な秘書を傷つけるような真似はしたくないと説かれたが、最後は『女性が犯罪に遭うかもしれないのに見過ごせない』という涼花の意思を尊重してくれた。

 事実、涼花が受付横に配置されたことで旭のボディーチェックが円滑に進み、不自然なく目的のものを得ることに成功したのだ。

「はい、特に問題はありません。ちゃんと回収できてよかったです」

 涼花が頷くと、龍悟も安心したように『そうだな』と呟いた。

 時計を確認すると、そろそろ宝探しゲームが始まる時刻になっていた。一度退いていた主催者が再び会場に姿を現すにも丁度良い頃合いだろう。

「私は覚えていないのですが……吐き気がするんでしたよね?」
「秋野は吐かなかったぞ?」
「いえ、そうではなく……」

 逆ならば兎も角、秘書の吐瀉物を社長に処理などさせられる訳がない。人の良い龍悟なら気にせず世話を焼くだろうが、涼花は絶対に嫌だ、と首を振りつつ、考えている事とは別の言葉を口にした。

「お客様が口にして万が一嘔吐でもされたら、新店のイメージが台無しです」

 飲食店経営者の秘書らしく至極真っ当な意見を述べたつもりだったが、龍悟は一瞬目を丸くしたあと、突然豪快に笑い出した。

「はっはっは! それもそうだな」
「笑い事ではありません」

 当然、龍悟もその可能性には気付いていただろう。実際のところ涼花は嘔吐しなかったらしいが、同じ薬物を口にして吐いてしまう人がいてもおかしくない。

 招待客が体調を崩すことは最も避けるべきだが、新店のオープン記念パーティーの真っ最中に騒ぎが起これば、イメージは絶対によろしくない。場合によっては保健所の立ち入り調査にまで発展する事案だ。

 ようやく笑いが収めた龍悟が、涼花の顔を覗き込むように身を屈める。今日は涼花が高めのヒールを履いているので、並ぶといつもより顔が近い。龍悟はその距離をさらに詰めるように顔を近付けると、涼花の耳元に小さな呟きを零した。

「お前に何もなかったなら、俺はそれだけで充分なんだけどな」

 そのまま押し付けた頬で涼花のこめかみを撫でる。まるで大型犬が自分の所有物に匂いを移すように。

「おっと、セクハラだな」

 だが涼花の頬に触れた龍悟は、何かに気付いたようにすぐに離れていく。そして自分の行動に少しだけ照れたような笑顔を浮かべると、涼花の肩を軽い調子でぽんと叩いた。

「俺の付き添いもいいが、折角だしケーキも食えよ。甘いもの好きだろ?」

 龍悟が優しい言葉を残して歩き出すので、涼花も慌てて後を追う。

 急なスキンシップに驚いたせいで心臓がばくばくと音を立てている。小さな触れ合いが嬉しい――けれど今は仕事中だ。

 動揺を悟られないよう姿勢と感情を正すと、いつものように先を歩く龍悟の背中を追って、涼花も控室を後にした。

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