社長、それは忘れて下さい!?

紺乃 藍

3-5. Perfect play

「山本社長。本日は遠方からお越し頂き誠にありがとうございます。空港は混雑しておりませんでしたか?」

「高橋様、お久しぶりでございます。フランスから戻られたのですね。本日は楽しんで行って下さいね」

「土屋様。先日はお嬢様のご結婚、誠におめでとうございます。ハワイでの挙式はいかがでしたか」

「吉木 琉理亜るりあちゃんだよね? 今日はケーキ食べに来てくれたの? ふふふ……ありがとう」


 受付横で来客と挨拶を交わす涼花の様子を見ていた旭が、小さく口笛を吹く。

 旭も涼花の記憶力が良いのは知っているが、普段は些細な情報も確認を怠らないよう徹底しているので、あまりその能力を認識することはないのだろう。

 だが今日のような催し物でいつもより気忙しい時でも、何の確認もせずにすらすらと相手の名前と肩書、そして近況まで息をするように思い出せる事には改めて驚くらしい。旭が『自分には到底真似できない』と肩を竦めるので、涼花は曖昧に笑みを返した。

 GLSの新店舗オープン記念パーティーは、心地の良い快晴に恵まれた。涼花と旭の位置からは陽光が差し込む新店舗の全体が見渡せる。もちろん挨拶に来た人々と談笑する龍悟の様子もしっかりと確認できている。

 本来ならば最低でも秘書のどちらか一人は龍悟に付き従うべきだろう。だが彼が最初のスピーチを行うまでの時間、涼花と旭には別の任務が与えられた。幸い龍悟も記憶力は優れているので、秘書が傍にいなくても相手に対して失態を犯すことはない。

「るりかちゃん」
「藤川さん。るりあちゃん、です」
「るりあちゃん、これどうぞ。……ポケットごめんね」
「……いいよ」

 琉理亜という四歳の女児は、彼女の隣に立つ吉木社長の愛娘だ。吉木は生乳や乳製品を製造する乳業会社の社長で、GLSのスイーツに使用するミルクや生クリームやバターの大半は、彼の会社から仕入れている。

 旭から星形のプレートを受け取った琉理亜は、ボディーチェックをする旭の顔をじっと見つめていた。

「ありがと。るりあちゃん、美味しいケーキいっぱい食べてね」
「うん」

 ボディーチェックが終わると、琉理亜がばいばい、と手を振るので、旭も屈んだまま琉理亜に手を振り返した。

 三人が会場の波に消えたのを確認し、旭はやれやれと立ち上がる。

「悪い、秋野。助かった」
「大丈夫ですよ。藤川さんもお疲れですもんね」

 旭が礼を述べるので、涼花もいつもより少し高いヒールを気にしながら頷いた。

 今日の涼花は髪をハーフアップにまとめ、夏らしい水色のシフォンワンピースを身に纏っていた。スーツでも良かったが『折角のパーティに華がない』と龍悟と旭に呆れられたので、五分袖に膝下丈であまり華美ではないワンピースを選んだ。上から下に行くほど濃くなる水色のグラデーションに合わせ、足元はネイビーのヒールを着用している。

「磨きかかってるなぁ」
「何がです?」
「最近『可愛くなった』って言われない? あと『笑顔が素敵だね』とか」

 旭に褒められ瞠目する。来客の目があるので、あまり感情に出さないようにしようと思ったが、照れたせいで顔が少し熱くなるのを感じた。

「言われませんよ。誰にですか?」
「んー、社長とか」
「……言われないです」

 次の言葉には高いヒールから踵が落ちそうなほど動揺したが、それを気取らせないよう下半身に力を入れる。涼花の背筋がすっと伸びると旭は可笑しそうに肩を揺らしていたが、涼花は顔を背けてその様子に気付かないふりをした。

 そんなやり取りをしていると、涼花と旭が目的としている人物が到着したと知らせを受けた。雑談を引っ込めて視線を合わせると、どちらからともなく頷き合う。

 ようやくこの瞬間が訪れた。レセプションパーティー直前のこのタイミングで新たな企画を無理矢理捻じ込んだのも、全ては彼への対処を万全に期すためだ。

「ようこそお越しくださいました、杉原社長」
「君は社長秘書の……」
「秋野でございます。先日はお見苦しいところをお見せ致しまして、大変申し訳ございませんでした」

 上手く誘導されて二人の前にやってきた人物に、先日の非礼を詫びて丁寧に頭を下げる。前回と同じく秘書を連れてやってきたホテルオーナーの杉原は、涼花の言葉に一瞬たじろぐ様子を見せた。だがすぐに下卑た笑みを浮かべて、涼花の全身を嘗め回すように眺める。

「身体は大丈夫だったのかね?」
「はい。すぐに病院へ向かって抗アレルギー薬を投与致しましたので、大事には至りませんでした」

 杉原と対峙すれば、声が震えたり嫌悪感でいっぱいになるかと思ったが、実際はそこまでの緊張はしなかった。あの日早い段階で意識を失った涼花には、龍悟や旭と杉原のやりとりがほとんど聞こえていなかったからだろう。

 あらかじめ用意しておいた回答を並べると、杉原は拍子抜けしたように『そうか』と呟いた。

 もちろん涼花には食物アレルギーなどないので、全て大嘘である。旭によると涼花は蟹のすり身が入ったお吸い物を口にしていたらしいので、更に突っ込まれたら甲殻類アレルギーだと嘯こうと決めていた。だが結局そこまで詳しくは追及されなかった。

「杉原社長。先日は会食にお招き頂き誠にありがとうございました。大変申し訳ございませんが、本日はこちらでボディーチェックを受けて頂きます」
「な、なぜだ!?」

 会話に入ってきた旭が定型文を述べると、杉原は血相を変えて拒否反応を示した。だがこの反応も予想の範囲内なので、旭はまた涼しい笑顔を作る。

「受付でご記銘頂いた際に説明があったとは存じますが、本日は宝探しゲームを予定しております。イベントの景品には本日のみの限定デザートプレートや、新店舗で使用可能なペア優待券などをご用意させて頂いております。杉原社長もぜひご参加下さい」
「そ、それとボディーチェックに何の関係があると言うんだ……!?」
「その宝探しゲームですが、万が一弊社で用意いたしました『宝』と類似したものを所持されていますと、紛らわしいことがございますので。大変申し訳ございませんが、入場前のボディーチェックにご協力頂いております」

 旭がにこやかに言い放つ。その説明は少々鼻につく口調かもしれないが、慌てふためく杉原は気にしていられない様子だ。

「ボディーチェックといっても類似品をお持ちでないか把握するためですので、貴重品を預かることはございません。万が一類似品をお持ちの場合は、そちらのみ責任を持ってお預かりして、ゲーム終了後には皆さまのお手元までお届けいたしますので、ご安心下さい」

 駄目押しにさらに言い添える。

 これが防犯上の理由でのボディーチェックなら、憤慨する人もいるだろう。今日の招待客は人の上に立ち人を動かす立場にある者が大半を占めており、プライドが高い者も多い。だがこれはあくまで、類似品の混入を防ぐための所持品確認だ。

 もちろん杉原がこのまま怒って帰るならそれでも構わない。後から何か言ってくる可能性はあるが、女性スタッフも女性招待客も多い今の状況を考えれば、ここで何かの問題が起こるより対処はずっと楽だろう。

 これが旭が企画部と協力して用意した、杉原の動きを封じるための罠だった。

 イベントの進行上、どうしてもボディーチェックを受けなくてはいけない状況を作り、彼が隠し持つ下劣な薬を奪い取る。仮に目的の物を回収できず彼がこの場を去ったとしても、今日この場で被害者を出すという最悪の事態は回避できる。どちらに転んでもこちらに利がある。そう見越して組み立てた罠なのだ。

 しかしフンと鼻を鳴らした杉原は、

「構わない。だが早くしてくれ!」

 と急にふんぞり返った。この横柄な態度に涼花も旭も一瞬怯んだが、一応ボディーチェックは受けてくれるようだ。

 旭は他の招待客よりも時間を使い、入念に杉原の身体を検めた。ポケットの中身もトレーの上にすべて出してもらう。

 だがいくら入念に確認しても、不思議なことに杉原の所持品からは薬のようなものは一切見つからなかった。

 意外な展開に涼花は内心で焦ったが、礼を言い終わればあとは杉原が身の回り品を納める様子を見守る他ない。もちろん旭の眉間にも深い皺が刻まれている。

「ありがとうございました。それでは大変申し訳ございませんが、秘書の方もお願いします」

 仕方がなく旭が告げると、杉原の後ろで縮こまっていた秘書の身体がビクリと跳ねた。そのわかりやすい変化は、涼花の目にも明らかに不審に映った。

「あぁッ、いや! こいつは別にいいだろう!?」

 だが仮にその様子を見逃していても、特に問題はなかったかもしれない。

 旭の言葉に最も反応したのは、たった今ボディーチェックを終えたばかりの杉原だった。杉原は自分の秘書が口を開く前に、周りが何事かと振り返るほどの大きな声で自分の主張を喚き始める。

「こいつは関係ない、招待を受けたのは私だ! 景品が当たってもこいつには貰う権利はないしな!」

 どう見ても自分のボディーチェックより拒否反応が強い。涼花は白々とした気持ちになったが、目の前にいる旭は涼花よりももっと白々とした表情を浮かべていた。頬の上には一体なんの猿芝居を見せられているのかと書いてある。

「大変申し訳ございませんが、ボディーチェックは会場に入られる皆様全員にお願いいたしております」

 コホンと咳払いをした旭の言葉に、秘書の目がウロウロと泳ぎ出した。杉原はまだ何か言いたそうにしていたが、周囲の視線を集め出した事に気付いたらしい。騒ぐと目立つと思ったのか、彼の言動はだんだんと勢いを失い、あとは落ち着かない様子でその場で足を踏み鳴らすだけになった。

 秘書は秘書で、縮こまったままオロオロと視線を彷徨わせるだけだ。四十代半ばの痩身の男が身を縮ませて狼狽える様子は憐憫を誘う姿だったが、ここで可哀そうだからと通すわけにもいかない。

 ボディーチェックを後に回し、秘書の前にトレーを差し出すと、彼は杉原の顔とトレーの上を忙しなく見比べた。しかしやがて観念したのか、ポケットの中身を少しずつトレーの上へ移し始める。

 涼花や旭や行き交う人々の視線を受けながら秘書がもたもたとポケットの中身を出すと、そこには意外なものが紛れ込んでいた。

「あの……失礼ですがこれは?」

 トレーの上に出されたのは手の中に収まるほどの小さなガラス瓶だった。

 瓶そのものも透明だが、中に入っている液体も透明だ。小瓶は底が平らになっており、中には馬毛のような細くて茶色い刷毛が入れらている。刷毛の一方は蓋の裏と接続し、もう一方は透明の液体に浸された状態だ。

「マニキュア……ですね」

 涼花がトレーを覗き込みながら頷く。旭はピンとこないらしいが、女性の涼花が見ればこれはどうみてもマニキュアのボトルにしか見えない。

 旭がトレーの中にあるそれを摘み上げようとすると、秘書ではなく杉原が手を伸ばしてきた。だがあまり大袈裟に取り上げるような素振りをすれば、杉原が怒り出してしまいそうだった。だから旭は、半歩だけ身を引くことで杉原と自然に距離を取った。

「これは、社長のものでしょうか?」
「えっ、あ、いや……そうだ! ……いや、違う!」

 杉原は明らかに動揺したように発言を二転三転させる。狼狽えた彼は旭と目を合わせないように顔を背けたが、このマニキュアが『当たり』であることはもはや疑いの余地がなかった。再度トレーの上を確認するも、彼の所持品には明らかに怪しいマニキュアボトル以外に、特別変わったものはないのだ。

「そ……それはさっき、店の外で拾ったんだ!」

 思い出したと言わんばかりに、杉原が突然大声を出した。その場にいた人々の視線が一気に集中すると、彼はまた言葉を詰まらせた。

 杉原は咄嗟に口をついて出た言い訳をさらに信憑性の高い主張にしようと言葉の引き出しを開閉していたが、その間に涼花と旭のアイコンタクトは終わっていた。

「杉原社長、拾って下さっていたのですね」
「え? ……は?」
「実は私、先ほど会場入りした際に、入り口でバッグを開けてしまって。その時に持っていたマニキュアを落としてしまったみたいなんです」
「あぁっ、いや! これは違……!」

 涼花は口の端をわずかに上げ、目を細めただけの作り笑いを張り付ける。怒気が含まれた笑顔に気圧された杉原が一歩後退すると、後ろにいた秘書の肩に身体をぶつけてしまう。だが涼花は構わずさらに一歩前進すると、おもむろに杉原の手を取った。

「気付いて探しに行こうと思っておりましたが、開場時刻になってしまったので探しに行けずにいたんです。本当にありがとうございます」

 涼花は怒りの感情を胸の奥に押し込み、今度は優しい微笑みを浮かべた。先程の作り笑いとは違う、心からの笑顔だ。

 杉原社長、ちゃんとボロを出してくれてありがとうございます。

 という心の声は間違っても外に出さないよう、感謝の気持ちだけを前面に押し出す。

「つ、次から気をつけたまえよ」

 涼花の笑顔を見た杉原は一瞬呆気に取られたように惚けたが、すぐに赤くなった顔を隠すように、覚束ない足取りで会場の奥へ逃げて行った。どうやらこれ以上ゴネても自分には分が無いと悟り、小瓶の回収を諦めたらしい。

 残された秘書が一瞬遅れて動き出す。旭はトレーの中身を全て引き渡すと、二人分の星形プレートを秘書の目の前に差し出した。

「宝を発見されましたらこちらと交換になりますので、どうぞお持ちください。長々とお手間を取らせてしまい大変申し訳ございませんでした。本日はどうぞ楽しんで行って下さいね」

 杉原の秘書は手を震わせながら星形のプレートを受け取ると、上司の背中を追って慌ただしく会場の波へ消えていった。

 旭は掠め取った小瓶を上着のポケットの中に落とすと、

「涼花は九十五点」

 と涼花にしか聞こえない音量でそっと呟いた。


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