病夢(びょうむ)とあんぱん
病夢とあんぱん その外 ~詩島志吹のビーフシチュー~③
「どうぞ」
「・・・ありがとうございます」
和香さんが持ってきてくれた器には、並々と、美味しそうなビーフシチューが注がれていた。
もう真夜中だというのに、寒さに震える僕のために、彼らは、ビーフシチューを振る舞ってくれたのだ。
「いただきます」
すっかり冷え切っていた体に温かい食事が嬉しくて、僕は、がっつくようにスプーンに手を伸ばした。
温かい。
美味しい。
そして、温かい。
大事なことなので三回言う。
温かい。
ルウは、滑らかに喉を滑り落ちていく。よく煮込んである牛肉は、口の中でホロホロと崩れた。そこに野菜たちの甘みが絶妙に混ざり合い、まろやかな味わいを醸し出す。
「夕食の残りものですまないが、今はそれしかなくてね。口に合うといいんだけど・・・」
「美味しいです」
それしか言えなかった。
いろいろと感想は浮かんでくるけれど、それしか伝えられなかった。
うっかり口を開くと、泣いてしまいそうだ。
「それは良かったよ」
機桐さんが微笑む。
「まあ、和香さんは、私の知る限り最高のシェフだからね。きっと、君の口にも合うと思っていたよ」
機桐さんが和香さんの方を向くと、彼女もまた、嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます。ご当主様。でも、私だけでは作れませんよ。弟たちがいるからこそ、です」
「すまない、そうだったね。あの子たちにも、後でお礼を言っておかないといけないな・・・」
二人が何やら話していたが、全然、僕の耳には入ってこなかった。気が付くと僕は、ペロリとビーフシチューを完食してしまっていた。
「・・・ごちそう様でした」
「どういたしまして。良い食べっぷりだったね。おかわりはどうかな?」
僕が名残惜しそうにスプーンを置くと、機桐さんはそんな風に声をかけてくれた。
「い、いえ。大丈夫です・・・」
よっぽど夢中で食べていたのだろか?少し恥ずかしくなって、僕は俯いた。
「そうかな?遠慮しなくたっていいんだよ」
「ほ、本当に大丈夫ですから・・・。そんなことよりも」
と、僕はあからさまに話題を逸らそうと試みる。
「機桐さん、本当にありがとうございました。危ないところを助けてもらって・・・」
「いやいや、そんなに何度もお礼をされるようなことではないよ」
機桐さんは謙遜するかのように、手を小さく振る。
「それに、それこそ、私だけではできなかったことだ。君を助けるのに主に尽力してくれたのは疫芽君だし、介抱してくれたのは、そちらの和香さんだよ」
「そうだったんですか・・・。和香さんも、ありがとうございました」
と、和香さんにもお辞儀をする。
どうやら疫芽君という人にも、お礼を言っておかなければならないようだ。
「私も、大したことはしていませんよ」
と、彼女は肩を竦める。
「いつもの家事に、ちょっとおまけがついたようなものです・・・。ところで、詩島さん。安心しているところ申し訳ありませんが、大切なのは、あなたがこれからどうするか、だと思いますよ」
「・・・え?」
と、彼女のその言葉に対して、僕は面食らった表情をしてしまう。
これから、どうするか?
どういうことだ?
「確かに、そうかもしれないね・・・」
機桐さんも笑顔を引っ込め、真剣な表情になる。
「詩島君」
真剣な表情のまま、彼は僕に呼び掛けてくる。
「君は・・・君はどうしたい?」
・・・どうしたい?
どうしたい、とは?
「『あれ』を見て、君はどうしたい?と、そう聞きたいんだ」
「・・・・」
『あれ』が何を指しているのかは、はっきり分かっていた。
黒い「何か」。
怖く、恐ろしく、真っ黒い「何か」。
正直なところ、それを「知りたい」とは到底思えなかった。あんなもの、知るべきではない。これ以上、理解するべきではない。踏み入っては、いけない。
そう直感的に思わせるほどに、あの「黒」は黒々しい。
「僕は、『あれ』が何なのかを知りたいとか、『あれ』をどうにかしたいとか、そういう風には思っていません」
「そうかい?それなら・・・」
「でも」
と、僕は顔を上げる。
機桐さんが「それなら・・・」の後に何を言おうとしたのかは、分からない。
「これ以上関わらない方がいい」だったかもしれない。
「家まで送ろう」だったかもしれない。
もしくは、シンプルに「出て行きなさい」だったかもしれない。
だが、そのいずれも、僕はお断りだ。
黒い「何か」に対して抱いた感情が恐怖だったならば、目の前の男、機桐孜々に対して抱いた感情は、尊敬と憧れだ。
今まで、誰にも抱いたことのない感情を、彼に抱いた。親にも、友人にも、教師にも、上司にも感じたことがない。
心からの「尊敬」と「憧れ」を、彼に抱いたのだ。
他人の心を温かく包み込むような、そんな優しさ。
その優しさに、僕は強く心を打たれた。
彼の下で働きたい。
そして、この恩を返したい。
心の底から、そう思ったのだ。
ほんの一度助けられたくらいで、ここまで思うのはおかしいのかもしれない。出会って数時間の人間に対して、こんな風に思うのは変なのかもしれない。
それでも。
今まで、何に対しても自信を持つことができなかった僕だけど。
この気持ちだけには、自信を持てる。
「機桐さん」
僕は三度、頭を下げる。
しつこく、しつこく、頭を下げる。
「あなたの下で、働かせてもらえませんか?」
今度は、機桐さんが面食らった顔をする番だった。しばしの間、誰も口を開かない時間が生まれる。
「・・・言っておきますが、詩島さん」
と、先に口を開いたのは、和香さんだった。
「生半可な気持ちでそんなことを言っているのなら、すぐさま発言を撤回した方がいいですよ。ご当主様の下で働くのは、簡単なことではありません。『楽しそう』とか、『面白そう』とか、『今まで知らなかった世界を知ることができそう』とか、そういう興味本位で言っているならば」
今すぐ、ここから立ち去りなさい。と、彼女は厳しく、命令口調で言った。
「・・・・」
そういう気持ちが、ないわけではないのだ。
「今まで知らなかった世界」。
「今まで知らなかった人たち」。
もしかしたら、そういう場所でこそ。
自分は、上手くやっていけるんじゃないか。
そういう思いが、ないわけではないのだ。
けれど、それだけじゃない。
そうじゃないんだ。
「・・・僕は、何もできませんでした」
と、僕は語りだす。
「親の期待にも、友人の期待にも、教師の期待にも、上司の期待にも、応えられませんでした。自分の期待にさえ、僕は応えられませんでした」
でも、結局それは。
僕が「何かをしよう」と思っていなかったからなんです。
「初めて・・・初めて、本気で誰かのために働こうと思いました。機桐さんのために、僕は働きたいんです」
この思いを、失いたくない。
この気持ちを、死なせたくない。
「どうか、お願いします」
「・・・・・・」
機桐さんは、答えない。
彼は深く深く、悩んでいた。
もしくは、迷っていたのかもしれない。
「もう、戻れないかもしれないよ?」
「構いません」
「今まで君がやってきたことが、無駄になってしまうかもしれないよ?」
「構いません」
「君は・・・」
と、彼は一呼吸置く。
「君は・・・・・死ぬかも、しれないよ?」
「・・・」
一瞬の間。
「構いません」
「・・・・・・」
静寂と沈黙が、場を支配する。
「私には、取り戻したい大切なものがある」
どこか寂し気な口調で、彼は言った。
「何よりも大切なものが・・・・・。協力してくれるかな?詩島君」
「喜んで」
僕は微笑む。彼の真似をして、精一杯笑う。
僕の判断は、浅はかだったかもしれない。
僕の選択は、先走っていたかもしれない。
でも、僕はきっと、この決断を後悔したりはしない。
絶対に、後悔しない。
たとえ、死ぬことになろうとも。
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