病夢(びょうむ)とあんぱん
病夢とあんぱん その32
事が起こったのは、深夜に差し掛かる直前。
日を跨ぐ10分前。
「本日中」という約束は果たされないのではないか、と思われた頃だった。
ホールには三人の人間がいる。
柳瀬優。
沖飛鳥。
氷田織畔。
この三人だ。
炉端丈二は作戦通り、『海沿保育園』の入り口付近に張り込み、その風景に溶け込んでいた。もし、敵が入り口側からやって来ていたのなら、まず間違いなく、彼女に見つかっていたことだろう。
しかし、敵は入り口側からはやって来なかった。
その逆。
敵は、保育園の最も奥にある部屋に侵入したのだ。
機桐莉々や空炊芳司、そして、十五人の子供たちが避難している奥部屋に侵入した。
彼らが意図的に奥部屋を狙ったのか、それとも偶然だったのか・・・。いずれにせよその事実は、敵にとっては好都合だったし、柳瀬たちにとっては最悪の事態だった。
ガシャン!という、窓ガラスの割れる音が奥部屋の方から聞こえたとき、僕の体は硬直した。
(ついに来た)
そう思ったのだ。
今度こそ、臨戦態勢を整えなければならない。
それは沖さんも同じだったらしく、僕同様に、身を固くする。
だが・・・氷田織さんは違った。
身を固めるでも、構えるでもなく、勢いよく駆け出したのだ。
奥部屋の方に向かって。
なぜ?向こうからこっちに近づいて来ているというなら、待ち伏せをした方が良いんじゃないのか?
が、次の瞬間気付く。
それでも、遅すぎたくらいだが。
(奥部屋には、莉々ちゃんたちが・・・)
彼女たちは戦えない。
僕と同じく、戦えない。
あっさりと人質に取られてしまうし、容易く殺されてしまう。
氷田織さんに数秒遅れて、僕と沖さんも奥部屋の方に駆け出す。
三人は、それぞれの思惑の下に、駆けて行く。
氷田織畔は、敵を殺すため。
沖飛鳥は、仲間を助けるため。
柳瀬優は、「事実」を知るため。
各々、走り出す。
氷田織さんに続いて部屋に飛び込んだとき、まず最初に目に入ったのは、慌てふためく子どもたちだ。
笑顔はどこにもない。
泣き出している子。
泣くのを我慢している子。
周りを心配そうに見回している子。
ただ、殺されている子はいないし、人数も十五人のままだ。ひとまず、子どもたちは被害を免れたらしい。
次に目に入ったのは、床で伸びている空炊さんだ。何者かに襲われたのか、気を失って倒れている。
そして、目に入らないものがあった。
本来いるはずの人間が、そこにはいなかった。
機桐莉々の姿は、部屋のどこにもなかったのである。
「・・・やられたねぇ」
氷田織さんが呟く。
あれから数分後。
莉々ちゃんが姿を消した後。
ホールには、先ほどの三人が集まっていた。
炉端さんは空炊さんの手当てをし、子どもたちを落ち着かせてくれている。
「つまり、奴らは最初から、柳瀬君なんて眼中になかったわけだ。柳瀬君を殺すという予告はフェイク。本命は、莉々ちゃんの誘拐だったわけだねぇ。なるほど。なるほど。なかなか上手いことやってくれるじゃないか」
氷田織さんは、心底楽しそうに語っている。
一方で、沖さんはとても沈んでいた。
攫われた莉々ちゃんを、相当心配しているのだろう。この人のことだ。今すぐにでも、彼女を助けに行きたいと思っているのかもしれない。
そして僕はといえば、少し複雑な心境だった。
莉々ちゃんの身は確かに心配しているのだが、自分が狙われなくて良かった、という思いの方が強い。
思いやりの欠片もない奴であることは、十分承知している。・・・・だが、可能性はあったのだ。
奥部屋に入った瞬間、敵が莉々ちゃんや空炊さん、子供たちを人質に取り、「柳瀬優を差し出せ」と言う可能性が。
「僕なんて眼中にないのかもしれない」という「予想」を、「事実」として認識するために、僕は奥部屋まで走ったのだ。
・・・まあ、そんなことをされたところで、自分の身を差し出すつもりなんて、さらさらないが。
「それに、このポストカード・・・」
と、氷田織さんはポストカードを摘み上げる。
奥部屋には、莉々ちゃんの姿が消えていた代わりに、一枚のポストカードが落ちていたのだ。
『シンデレラ教会』という文字と、どこかの住所が書かれたポストカード。
「返してほしくば、ここへ来いってことかな?随分と、面倒くさいことをするじゃないか。やり口が古風だねぇ」
「・・・・すぐにでも行きましょう」
と、沖さんが立ち上がる。
予想通りのことを考えていたようだ。
「私が行きます。皆さんは、ここで安全に待機を・・・」
「無茶苦茶なことを言うもんじゃないですよ、沖さん」
氷田織さんが、心底馬鹿にするような口調で反論する。
「あなたに、何が出来るっていうんですか。あなたこそ、安全に待機していてくださいよ。いつも通り、子守りでもしていたらどうですか?」
沖さんが、渋々、椅子に座り直す。
その表情は、悔しさと悲しさに歪んでいた。
「心配せずとも、僕が彼女を助けてあげますよ」
え?
この人が?
他人を、助けるだって?
だが、理由を聞けば納得できた。
彼女を助けるに値する、氷田織畔らしい、合理的な理由が。
「彼女の『治癒過剰の病』は、非常に役に立ちますからね・・・。彼女を攫った『シンデレラ教会』だって、それが目的でしょう。ありとあらゆる傷を治せる『病』を、自分たちのものにしたい。誰だって考えそうなことですねぇ」
氷田織さんは微笑む。
人を人とも思わないような、悪魔的な笑顔で。
「僕だって考えますよ。あの『病』があれば、安心して殺し合いができる」
・・・安心して殺し合いをするかどうかは、別として。
『治癒過剰の病』が、とてつもなく便利だという考え方に関しては、異論を唱えるつもりは、僕にはない。
彼女自身が、というよりは、彼女の抱える『病』が重要なのだ。
はっきり言ってしまえば、あの子が『病』を持っていなければ、彼女の存在なんてちっぽけなものだろう。特に価値のない、その辺の女の子と同じだ。
・・・僕も大概、悪魔みたいな奴なのかもしれなかった。
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