病夢(びょうむ)とあんぱん
病夢とあんぱん その25
それからのことは、よく覚えていない。
と言ったら、嘘になる。
実は、少し覚えている。
粒槍伝治との戦いの後、今にも倒れそうになりながら、来た道を戻った。
思っていたよりも短い戦いだったが。
思っていたようにはいかなかった。
最初は殺すつもりだったのだ。彼を生かした方がメリットがある、と考えたのは確かだが、最初からそれを実行しようとしていたわけではなかった。実際、彼を生かしておくことで、僕の生き残れる可能性が上がったのかどうかは、確信が持てない。自信がない。
(僕が無害ってことを、あの人がちゃんと伝えてくれればいいんだけど・・・)
人を殺す、という状況に対面したとき、それをどうやって実行すればいいのか分からなかったというのも事実だ。
首筋にナイフを突き立てればよかったのか?
それとも頭に?
もしくは心臓?
何にせよ、一撃で仕留め切れない限り、抵抗されてこちらがやられる。という可能性があった以上、僕は彼を殺すことができなかっただろう。
喧嘩は苦手だ。
だから、彼が上手くやってくれることを祈ろう。
自分の判断が正しかったことを祈ろう。
僕の命を奪おうとしない限り、僕も彼らの命を奪おうとはしない。
駐車場に辿り着いた時点で、僕の体は限界を超えた。
氷田織さんと、こちらに駆け寄って来る空炊さん、莉々ちゃんの姿を一瞬視認した後、その場にぶっ倒れた。
「おやおや、生きていたのかい?柳瀬君。てっきり死体回収になると思っていたよ。そろそろ死ぬだろう、とね。君はいつまで生き残るんだい?」
意識を失う直前、氷田織さんのそんなセリフが、頭に響いたような気がする。怪我人に対して、酷すぎる人である。
次に意識を取り戻したとき、そこは見知らぬ部屋だった。
とはいっても、話を聞けば、そこは『海沿保育園』の一室であり、僕が入ったことのない部屋だったというだけのことなのだが。
畳の部屋。小さい部屋ではあったが、その畳のおかげで、とても落ち着いた雰囲気に仕上がっている。
やっぱり畳はいいなぁと、そんな風に思う。
戦いでささくれ立った心を鎮めてくれる。
と、先ほどまでの戦いを忘れて和んでいると、コンコンというノック音とともに、部屋に入る人物の姿があった。
莉々ちゃんだ。
片手にお盆を持ちながら、彼女は畳部屋へと入ってきた。
僕が起きているのを見て、一瞬困惑したようだったが、そのまま踵を返して出て行ってしまうということはなく、もう片方の手で器用にスリッパを脱ぎながら上がってきた。
お盆の上には、お粥とスプーン、水の入ったコップが置かれている。
空炊さんが作ってくれたのだろうが?
「ありがとう、莉々ちゃん」
莉々ちゃんは、ふるふると頭を横に振る。
思えば、この『海沿保育園』で一週間生活しておきながら、僕は莉々ちゃんの声を聞いたことがない。
いや、そんなことをいったら、炉端丈二という男には、会ったことすらないのだが。
沖さんたちから聞いたところによれば、彼女は自身の『病』とは別に、若干の対人恐怖症を持っているらしい。子供たちとは積極的に話すらしいのだが、年上の人間や親しくない人間と話すことに関しては、怖がっているきらいがある。
それならば、会って一週間の僕とスラスラ話をするというのは、難しいのだろう。
「莉々ちゃん、僕がどれくらい寝ていたのか分かるかな?大体でいいんだけれど・・・」
うーん、と考えるような動作をした後、莉々ちゃんは、両手を目の前に広げるという行動をとった。
うん?
指が十本?
・・・・まさか、十時間?
「十時間・・・・」
莉々ちゃんがコクリと頷く。
またか。またしても、僕は十時間寝ていたのか。
そりゃ、外も真っ暗なはずだ。
エレベーター事件のときといい、今日のことといい・・・あんなことがあった後で、僕は普通に健康的な睡眠をとっていたということか。
まったく。自分の神経の野太さに、呆れを隠せない。
しかし、それだけ寝たこともあって、体の調子は良さそうだ。疲れはほとんど消えているし、左肩の傷も完全に治っている。絶好調といってもいいだろう。
・・・・・ん?あれ?
ちょっと待てよ?
完全に治っている、だって?
自分の左肩を軽く回してみる。やっぱり、特に痛みはない。傷跡も残っていないようだ。
でも、そんなことがあり得るか?今、思い返してみても、粒槍に刺された傷は相当深かったはずだ。だいぶ出血もしていたと思うし。その傷が、十時間寝たくらいで完全に治癒するなんて、おかしくはないか?プロの外科医でも、そんなことは不可能だろう。
ちらりと、莉々ちゃんの方を向く。
「僕の治療をしてくれたのって、莉々ちゃん?」
少し思案顔をした彼女だったが、再びコクリと頷く。
「それなら、これはどういうことかな?」
と、自分の左肩を指さしながら、莉々ちゃんに質問する。
彼女は答えない。困惑した表情のまま、固まってしまった。それは、答えるべきかどうか、迷っているという風にも見える。
「ええと・・・答えたくないなら別にいいんだけど、もしかして、莉々ちゃんの『病』と関係ある?」
やはり、彼女は答えなかった。しかし、サッと顔が青ざめてしまったように見える。どうやら正解だったようだ。この治癒速度と、彼女の『病』は何かしら関係があるということだろう。
「分かった、無理には聞かないよ。お粥、持ってきてくれてありがとうね。いただくよ」
僕は話題を逸らし、スプーンでお粥を口へと運んだ。
別に、無理をして聞くことではないのだ。莉々ちゃんの『病』は気になるところではあるが、『感電死の病』や『真空性言語機能不全の病』のように、他人に害を為すタイプの『病』ではないようだ。
それなら、ひとまず安心だ。ここで生活しているうちに、詳しく聞ける機会もあるだろう。
今は、体が完治しただけよかったと、満足しておこう。
「・・・・・じょう」
「ん?」
今、莉々ちゃんが微かに喋ったように見えた。
何だ?何と言った?
「『ちゆかじょう』」
ちゆかじょう?
治癒、過剰?
「私の、病気・・・・」
プルプルと震えながら。
自分を抱きしめるようにしながら。
彼女は、自身の『病』を明かした。
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